Ms Wendy

2016年2月掲載

女優は生涯の仕事。健康で、楽しく続けられたら幸せです

松原 智恵子さん/女優

松原 智恵子さん/女優
1945年生まれ。愛知県出身。61年16歳で日活に入社。『夜の挑戦者』で映画デビュー。またたく間に人気女優となり、60年代後半からはテレビドラマでも活躍。数多くの青春ドラマにヒロインとして出演した。近年のドラマに『あぽやん〜走る国際空港』(2013年)、『大岡越前1・2』(13-14年)、『リキッド 〜鬼の酒 奇跡の蔵〜』(15年)、映画『きいろいゾウ』(13年)、『ピカ☆★☆ンチ LIFE IS HARD たぶん HAPPY』(14年)、『鏡の中の笑顔たち』(15年)など多数。16年1月15日より『大岡越前3』(BSプレミアム)が放映中。映画『ゆずの葉ゆれて』が本年公開予定。
伊勢湾台風で家財がすべて流された

私は4人きょうだいの末っ子です。5つ上の兄と8つ上の姉、一番上の姉は12歳離れていましたから、一緒に遊んだ記憶はあまりありませんが、姉たちの部屋に入っては、おしゃれな服を見つけて自分でも着たりして、ちょっとおしゃまな女の子でした。

父は不動産業を営み、母は「松原荘」という、今でいうビジネスホテルを切り盛りしていました。二人ともよく働いていたのを覚えています。

昭和34年、私が中学生のとき、愛知県、三重県などに特に大きな被害をもたらした伊勢湾台風を経験しました。私たちが住んでいた名古屋市の南区でも川の堤防が決壊し、父が「水がきた!」と叫んだ瞬間、家の中にあっという間に水が入ってきました。あわてて2階に逃げて、家族はみんな助かりました。ただ、1階には結婚式を間近に控えたすぐ上の姉の嫁入り道具がありましたが、父が唯一担いできたのはテレビ(笑)。当時のテレビは貴重品で、ご近所の人が集まってみんなでテレビを見る時代でしたから、父もこれを濡らすわけにはいかないと思ったのでしょう。おかげで嫁入り道具は流されたり、水に浸かったりして、全部ダメになってしまいました。

そのとき、家族の写真も流されてしまったので、小さいころの写真はほとんど残っていないですね。

女優のきっかけはミス16歳コンテスト

浅丘ルリ子さん主演の日活映画『十六歳』の宣伝を兼ねて、中部地方で「ミス16歳コンテスト」が開催されることになりました。このコンテストに、ごほうびの「東京見物」を目当てで応募したのが15歳のときです。

合格者の10名に選ばれ、東京をあちこち回る見学コースの中に日活撮影所も入っていたのですが、なぜか2人だけお化粧をしてもらい、カメラの前でいろんな質問をされました。その後、実家に「日活に入りませんか?」とお誘いがありました。

一番心配していたのは母です。末っ子で甘やかされて育ったせいか、お料理もお洗濯もできなかったので、東京で一人暮らしなんて無理だと反対されました。ただ、私はまだ15歳で好奇心が旺盛でしたし、分からないながら女優さんをやってみたいと思ったんですね。

最終的に、上の姉の旦那さんが東京出身だったので、そちらの実家に下宿させてもらうことになり、母も渋々送り出してくれました。高1の3学期を“休学”して「3カ月間で女優としてやっていけるめどが立たなければ戻ってくる」という約束でした。

日活に育てられまたたく間にヒロインに

ところが、日活が「松原智恵子を育てよう」と思ってくれていたみたいで、3カ月を待たずにヒロインに抜擢されることに。

まわりのみなさんもやさしくしてくれました。ワンシーンだけ出演したデビュー作『夜の挑戦者』(1961年)では、私は中国の薬屋さんで漢方薬をすりつぶしている娘の役だったのですが、監督さんに「震えても大丈夫だよ。今から強盗が入ってくるシーンだからね」と言われてカメラの前に立ったのを覚えています。

またたく間に出演作が増え、その中には、若くして亡くなった赤木圭一郎さんの遺作もありました。赤木さんはとてもやさしい方で、端役の私にもアイスクリームをごちそうしてくださり、気さくに接していただいた思い出があります。

今の方はご存じないかもしれませんが、当時の映画は2本立てで、カラー作品と白黒作品があり、毎週新作に入れ替わっていました。ですからおのずと作品の数が多くなり、多い年は1年間に14本、トータルで100本以上の日活作品に出演しました。

17歳のとき家を建ててくれた父の突然の死

撮影で忙しくはしていましたが、私はアクション映画のヒロインが多かったせいか、男優さんに比べるとまだ時間に余裕がありました。ずっとお休みしていた高校に行かせてほしいとお願いすると、すぐに承諾してくださって、菊華高校(現・杉並学院)に編入することができました。

そして、東京に来て1年がたち、女優としてやっていけるめどがついたということで、父が撮影所の近くに家を建ててくれることに。その年の夏休みには軽自動車免許も取り、「車を買ってね」と父に頼んで、愛車が届くのを楽しみに待っていました。ところが、その直前、東海地方にまた大きな台風が来て、父が亡くなってしまったのです。

あとから聞いた話では、ガタガタ音がしていた2階のベランダの雨戸板を外からはめようとしていたとき、突風が吹いて板を持ったまま飛ばされ、庭の石で頭を打ったそうです。

けれども、私には突然の訃報がどうしても信じられなくて。それまでは父が東京に来るたびに私があちこち連れ回し、一緒にお買い物をして…。末っ子だった私にひたすら甘かった父がこの世からいなくなったことを、しばらくは受け止めることができませんでした。

新婚旅行は車でアフリカ大陸を横断

71年、日活の一般映画製作が終了し、翌年の72年に日活を離れ、27歳でジャーナリストの黒木純一郎と結婚しました。日活時代に取材に来た黒木から着物の撮影などの仕事の依頼を受け、食事をするうちに親しくなりました。当時の周囲は猛反対。しかし、3年交際した後、自分の意思を貫く形で結婚しました。

新婚旅行は車でベルギーを出発し、オランダ、ドイツ、フランス、スペインを回ってモロッコに渡り、サハラ砂漠を通ってアルジェリア、チュニジアと北アフリカを横断し、再びヨーロッパへ。イタリアのシチリア島からナポリ、ブルガリア、トルコまで。100日間かけて走破しました。

もともと主人がシルクロードの本を出版するための取材旅行でしたが、私もお休みをいただき、そこに便乗することになったのです。なので、車は2台。カメラマンさんやスタッフも一緒です。

私も運転が得意で、映画のロケ現場によく車で通っていましたから、お昼に寄ったお店で主人がワインを飲むと、私が代わりに運転を受け持っていましたね。イスタンブールまで走ったところで、『時間ですよ』の収録のため私は残念ながら帰国。主人たちはそこからシルクロードへ旅立ちました。

でも、74年、初めての舞台、森光子さん主演の『放浪記』の出演が決まったころから、運転はほぼしなくなりました。劇場に着く間に車のアクシデントがあれば大切な舞台に穴をあけ、大勢の方々に迷惑をかけてしまうからです。仕事への責任を果たすためと言ったら大げさですが、役柄以外では、プライベートでもあまり運転はしなくなりました。

39歳で出産息子とは今も仲良し

子どもを授かったのは38歳のときです。35歳ぐらいからずっと欲しかったので、妊娠が分かったときはすごくうれしかったですね。

女優の仕事は生涯続けようと思っていましたが、子どもにとっては、幼稚園の運動会も、母親参観日も初めてづくし。そんな一瞬一瞬を大切にしたくて、小学生ぐらいまではすべての行事に参加できるよう、スケジュールを調整してもらいました。自分も子どもを見守りたかったし、子どもに対しても「あなたのことをいつも見ているよ」という安心感を与えたかったのです。

ところが、高校1年生のとき、突然、「英国に留学する」と。私も16歳で家を出たので、反対することはできませんでした。最初は1年の予定が、「英語を本格的に勉強したい」と、結局は大学卒業までを英国で過ごすことになりました。

でもね、海外に行ってから、帰国するたびにだんだん息子がやさしくなっていったのです。中学生のころなんて、一緒にお買い物に行っても私とはわざと離れて歩いて、欲しいものが決まると呼ばれていたのに(笑)。あちらでの生活で少しずつ意識が変わったのか、今は私のことをとても大事にしてくれます。

先輩女優として心がけていること

16歳でデビューしてもう50年以上。私は壁にぶつかり、苦しみながら役づくりをするというより、心に感じたままを演じるうちに自然と役に入り込み、楽しくお芝居をしてきたタイプです。去年、70歳になりましたが、今も演じることが楽しく、忙しく仕事ができることを幸せに思っています。

今はもう先輩ですから、現場では自分から若い役者さんに声をかけるように心がけています。役者同士、すぐに打ち解けはしますが、近くにおいしいお店があれば「誰か一緒に行きませんか?」とお誘いして。特に地方の撮影が続くときは、一緒にお食事をすることで親交が深まり、より楽しい現場になればと思いますね。

もとより、どんなに好きでも、私たちの仕事は健康でなければ続けられません。ですから、健康第一に考えていかないと…と思っています。

一番注意しているのは、1日30品目を目標にバランスのよい食事を摂ること。私は朝が弱くて、早い仕事のときはバナナとコーヒー牛乳など、簡単に済ませてしまいますが、昼・夜は、栄養バランスもしっかり考えてメニューを書き出します。

運動は“なるべくたくさん歩く”、それも1日何歩と目標は決めずに、パッと思いついては「これから歩こうか!」とスタッフを誘って散歩に行くことが多いですね。何事も無理は禁物。楽しく、おおらかにやっていくことが私らしい健康法だと思っています。

プライベートの楽しみ裂き織りで帯を制作

何年か前に佐渡のロケで出合った“裂き織り”。お洋服の切れはしをつなぎ合わせて糸にし、手織り機で織った敷物やバッグがとてもすてきで、自分でもやってみたくて手織り機の卓上版をネットオークションで落としました。どうせなら半幅の帯をつくろうと織り始めました。これがけっこうな長さが必要で、思った以上に時間がかかってしまいました。それでも、一生懸命がんばった理由は、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』のリハーサルで自分のつくった帯を締めたいという想いがあったから。結局、自作の帯に誰も気づいてくれなくて、自己満足で終わってしまいましたが(笑)、無心で織っている時間は楽しかったですね。

今、幸せを感じるのは、みんな元気で食卓を囲んでいるとき。何気ない会話はおなかも気持ちも充実感でいっぱい。その気持ちのまま明日の仕事に向かえる毎日が、この先もずっと続いてほしいと思います。

(東京都中央区にて取材)

  • 道徳小学校3年生。先生の隣が松原智恵子さん

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  • 18歳のころ。映画『学園広場』に出演

    18歳のころ。映画『学園広場』に出演

  • 『日活三人娘』と呼ばれていたころ

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  • 『日活三人娘』と呼ばれていたころ

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  • 新婚旅行にて

    新婚旅行にて

  • 松原 智恵子さん

(無断転載禁ず)

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