Ms Wendy

2015年7月掲載

「終わりの始まり」の今こそ、笑顔で元気にさわやかに!

野中 ともよさん/NPO法人ガイア・イニシアティブ代表

野中 ともよさん/NPO法人ガイア・イニシアティブ代表
1954年東京生まれ。上智大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士前期課程修了。79年よりNHKでスポーツから国際政治まで幅広い分野の番組キャスターとして活躍。テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』の2代目キャスターとしても知られる。民間企業役員及び政府審議会委員も務める。2007年にはNPO法人「ガイア・イニシアティブ」を立ち上げ、08年より代表を務める。環境問題、エネルギー問題を軸に、次世代の子どもたちが笑顔でいられる地球づくりを目指し活動を展開中。
Oh my dear friends=「ともよ!」

ちょうど60歳前後の私の年代は、両親が戦争ど真ん中の時代に青春を過ごした世代です。大正12年生まれの父は学徒出陣で戦争に行きましたし、15年生まれの母は女学校時代にこんにゃく爆弾(こんにゃく糊と和紙で作った風船爆弾)を工場で作らされた世代です。

私が子どものころ、父は外資系企業の日本のCEO(最高経営責任者)でした。今でこそ当たり前になりましたが、ヘッドハンティングされて職を変えていくわけです。ものすごい勉強家で、父の生き方そのものが教育でした。

母はとても優秀な人で、成績表を見るとオール優。ただ、昔の人らしく家事は何でもできました。父は化粧品や薬品、家具といった業界で仕事をしていたので、よく母に意見を聞いていたのを覚えています。

戦前、アメリカは敵国でしたが、母がアメリカ企業のトップであった父と結婚するころには、朝鮮動乱が勃発し、朝鮮特需でいよいよ日本の景気が良くなるという時代でした。

私の「ともよ」は本名もひらがなですが、その理由を父は私にこう話してくれました。「君が大きくなるころ、地球はどんどん小さくなっていろいろな人たちが行き交うようになる。だから君は、肌の色も目の色も違うどんな人とも“Oh my dear friends(友よ)!”とハグできる女性に育ってほしい。それで、“友世”にしようか“共世”にしようかママと話したんだけど、漢字を使うと君の人生の意味を決めてしまうことになるから、ひらがなの“ともよ”に決めたんだよ」と。

そして「友達というのは、その人の役に立ってあげられる人。働(はたら)くというのは傍(はた)を楽(らく)にしてあげることだ。人のお役に立てるような人間になりなさい」というのが両親の教育方針でした。

◆進路を見失いかけた高校時代

私にとって勉強というのは小学校のころから「して当たり前」という感覚。両親からは一回も「勉強しなさい」と言われた記憶はありませんが、どの教科も面白く、実際よく勉強していたと思います。中学校では生徒会副会長もやり、高校は都立でトップクラスの進学校へ。

ところがその高校には学区内の中学からトップばかりが集まっていて、みんなものすごく優秀で才能にあふれていました。当時はテストの成績が廊下にズラッと貼り出される時代でしたので、少し気を緩めれば結果は一目瞭然。気が抜けませんでした。

やがて進路を決める時期になり、周りはそれぞれ、進学したい学校や、やりたいことを見つけて準備に入ります。両親は「大学受験もあなたのしたいようにすればいいし、芸大を受けたいんだったら受けたら」と。

でも、その時期、私はやりたいことが全然見えなくなり、進学せずに働こうと思って、来る日も来る日も新聞の求人欄を見ていました。

そうだ、ジャーナリストだ!

そんな高校2年生の夏休み、家庭科の宿題テーマを探していました。当時ソ連(今のロシア)の英才教育が注目され、「どういうタイミングで、何を食べさせて、どんな教育をすると子どもがどういうふうに育つ」ということが話題になっていました。それで図書館でいろいろ調べ始めたら、ダーウィンの進化論や大脳生理学、社会全体で子どもを育てるメカニズムなど、調べれば調べるほど面白くて、夢中になりました。

その時にハっと気が付きました。「こうして、いくつもの専門分野をまたいだ形で、モノゴトの本質を浮き彫りにしていく作業って、面白い。いくらやっていても飽きない。あ、これってジャーナリストだ!」と。

それで早速、両親に報告。「行きたい大学が見つかりました。上智大学の新聞学科はテレビも映画論もあって、わが家からも近い。受験してもいいですか」と言う私の言葉に、両親も「ジャーナリスト、それは素晴らしい!」と応援してくれました。そうなるともうやるしかない。われながらすごい単純でしたね(笑)。それで大学でジャーナリズムを専攻し、英語もフランス語も中国語も勉強しました。卒業論文は中国。当時の中国は自由旅行などできない時代でしたが、私は現場にどうしても行きたかったので、学生代表選抜の試験を受けて、医学や経済学専攻の学生たちと一緒に代表選抜の一員として中国に行くことができました。

このとき、ジャーナリスティックに一瞬を切り取った写真は、どんな言語をも超えて世界に真実を伝えられるということに気付きました。そういう報道写真が撮れるジャーナリストになりたい、と思い、日本で学べるところを探しました。でも、ファッション写真を教えるところはありましたが、報道写真を教えてくれる学校はありませんでした。

それで選んだのが、米・ミズーリ・コロンビア大学大学院でした。現地では地元新聞の制作にも携わりました。大学院では受講期間中、新聞に特ダネ写真が一枚も掲載されなかったら単位が取れません。ですから、常にスタンバイ状態。社会のあらゆる事件に対して常にアンテナを張りめぐらせ、情報収集しておかなければなりませんでした。

通訳アルバイトからテレビキャスターへ

そうしてアメリカの大学院で鍛えられた私は、帰国後、自分の作品をまとめたポートフォリオを持って、ある新聞社を訪ねました。自分で言うのもなんですが、すごい写真も撮れていたし、記事も英語で書ける。意気揚々と出かけました。

ところが、男社会の新聞社にとって私のような人間はもっとも使いにくいタイプだったんです。

採用されるどころか「お姉さん、ご苦労だったね!」と軽くあしらわれ、すっかりしょげて帰宅しました。

すると父は「おめでとう!社員教育にまったく経費をかけずに、こんなにすごいことができる人間を雇わなかったということは、人の能力を見抜く力のない人たちがとんでもないマネジメントをしている会社だということだ。それを入社前に教えてくれたんだから、それで良かったんだよ。今夜はお祝いだ!」と言ってくれました。その夜は父と二人で家にあったブランデーを2本空けて、ぐでんぐでんに酔っ払いました(笑)。

それからしばらくして、大学時代の友人から電話がかかってきました。彼はNHKで放送作家をしていて「君、確か音楽が好きだったよね。今度チープ・トリックとクイーンが来日するから通訳をしてくれないか」と言うのです。私はヘビメタからクラシック、邦楽まで音楽は大好きだったので、もちろん快諾、通訳として現場に行きました。

それは単発のアルバイトのようなものだったのですが、その仕事ぶりがディレクターの目に留まり、「今度は通訳ではなくリポーターをやってくれないか」というオファーを頂きました。

こうした偶然に導かれて私はテレビの世界に進むことになったのです。

「命にまさる正義なし」

アメリカの大学院時代に出会い、ずっと日米で遠距離恋愛を続けていた今の主人とは34歳で結婚。翌年、娘が生まれました。

彼女が2歳半の時、夜の経済ニュースのキャスターを引き受けました。仕事はとてもやりがいがありましたが、その間、二人の子どもを流産してしまいました。

高校時代、私は「命にまさる正義なし」という作文を書きました。当時世界は米ソ冷戦の真っただ中。「命」「正義」「国家」について意識が芽生え、それ以来「命にまさる正義なし」を自らの価値軸の中心に据えてきました。それなのに、仕事を優先して頑張りすぎたために、何よりも大切な子どもの命を失ってしまった。それは私にとって非常につらいものでした。

そうした体験を経て、今はっきり言えるのは、子どもの命は母のものでも父のものでもないということです。娘、私、両親、さらにその父母…。そのつながりがどこかで途絶えていたら、この子は生まれてこなかったはずです。子どもの命は地球の命の大元(おおもと)から頂いた、たった一つの宝物。この子が生きていることに感謝して、ともに人間社会を味わおう。この子が楽しく生きて死んでいける社会をつくろう―その思いを強くしました。

また、講演では「何が子どもの命にとって正しい食べ物か、お母さんはよく考え学んでほしい」という話もします。子育てで一番大切なのはその子の命が輝いていることです。人間の体は食べたもの以外の何物からも作られません。そして、それは心の状態にも大きく影響します。だから、命にとってプラスになるものを感謝していただくことが大切です。

私は、「教育」は「共育」と書いた方がいいと思います。「教えて育てる」ではなく「共に育つ」。親の役目は子どもが好きなことを一緒に探しつつ、子どもと一緒に育つこと。子どもは本当に好きなものが見つかれば、放っておいても自分からやるようになります。そうなったら親は「すごいね!」と褒めてあげればいい。それが子どもの自信になり『成長のガソリン』になります。

子育てに迷うこともあるでしょう。でも迷うことこそ生きること。そんな時は命の始まりに思いをはせ、子どもをぎゅっと抱きしめて感謝しましょう。子育てにマニュアルや取扱説明書はないのですから。

価値観が大転換する時代に

人間が生きていくためには、水と空気と食べ物と太陽からのエネルギー、そして愛情が必要です。これらはいくらお金を積んでも手に入れられません。それを忘れたのが戦後日本の経済です。お金がすべてに優先する国になりました。

でもこれからは、戦後70年間で社会をつくってきた基準やルールが大きく変わり、価値観が転換する10年が始まります。ちょうど日本の戦後、白が黒になったような大変化が、危機的な意味も含めてすぐそこまで来ています。

決して大げさではなく、この国はとんでもない方向に進んでいます。「終わりの始まり」と言う人もいます。女性はそういった危機を五感で感じる生き物。「何の終わり」なのか、皆さんも考えていただけるとうれしいです。同時にそれは「始まり」をつくるチャンスです。私の好きな言葉は「ピンチはチャンス」。たおやかに笑顔で、新しい時代への一歩を踏み出しましょう。

(東京都港区内にて取材)

  • 0歳のころ

    0歳のころ

  • 父と兄と

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  • ピアノ発表会にて

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  •   学生時代、ビーチにて。子どものころから海は大好き

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  • テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』のスタジオにて

    テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』のスタジオにて

  • 『ワールドビジネスサテライト』時代の取材風景

    『ワールドビジネスサテライト』時代の取材風景

  • 散歩は、まだ自然の残る北の丸公園、日比谷公園、明治神宮へ。できるだけ樹木の中で遊びました

    散歩は、まだ自然の残る北の丸公園、日比谷公園、明治神宮へ。できるだけ樹木の中で遊びました

  • 野中 ともよさん

(無断転載禁ず)

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