誰かのお役に立てる限り、生涯現役でいたいですね。
- 加藤 タキさん/コーディネーター
- 1945年東京生まれ。父 加藤勘十、母 加藤シヅエ。米国報道誌のリサーチャーを経て、ショービジネスの世界へ。オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレンをはじめ、海外のトップアーティストのCM出演交渉や音楽祭などで、国際間のコーディネーターとして先駆的役割を果たす。現在は、講演、TV、各種委員、著述等、さまざまなメディアで活動。母の精神を語り継ぐことを使命の一つとし、ボランティアにも励む。認定NPO法人AAR Japan [難民を助ける会] 副理事長、オードリー・ヘプバーン子供基金理事など。
終戦直前の東京に生まれて
私は母・加藤シヅエ(※)が48歳、父・加藤勘十が53歳のときに生まれました。終戦の年の3月、東京大空襲の20日後のことでした。
当時、男女とも平均寿命が50歳前後の時代に、48歳と53歳のカップルが一つの新しい命をこの世にもうけたということは、本当に珍しかったと思います。
両親ともに社会活動家で、再婚同士。
私が1歳の春、戦後初の衆議院議員総選挙で、夫婦それぞれ当選。以来母は、日中はほとんど家にいませんでした。今のような外食産業はなかった時代ですから、夕食は必ず自宅で一緒にとり、母はそのあと演説会や集会に出かけて行きました。
私はいわゆる「カギッ子」ではなく、家には書生さんやお手伝いさん、乳母さんなどたくさんの大人がいて、学校から帰ると誰かが「お帰りなさい」と迎えてくれました。そして食卓には、おやつと、母がデパートの包装紙で作ったメモ用紙に書いたメッセージが必ず置いてありました。「最愛の娘、多喜子へ お帰りなさい。今日の学校はどうでしたか?後でゆっくり聞かせてね。おやつは〇〇が用意してあります。大好きなママより」と。母は多忙な中でも、子どもに愛情がしっかり伝わるよう、常にいろいろな工夫をしてくれました。だから私は強がりではなく、寂しいと思ったことは一度もなかったのです。
私の原点
3歳ごろのある日、空襲で焼け野原になった空き地へ、たまたま休みだった母が遊びに連れて行ってくれました。あちこちに大きな石がゴロゴロ転がっている原っぱで走り出した私は、アッという間に転んでしまいました。膝をすりむいて、赤い血を見てビックリした私は、倒れたまま大泣きです。当然、母が助け起こしてくれるものだと思っていました。
ところが母は、ひざまずいて目線を下げはしましたが、決して手を差し伸べようとはしません。私は「きっと泣き方が足りないんだ」と思ってさらに大きな声で泣き叫びました。でも、いくら泣いても助けてくれません。仕方なく諦めて立ち上がったその瞬間、母はもろ手で私を抱き上げ、自分の白い服が血で汚れるのも構わず「大丈夫。痛いの痛いの飛んでいけ、ちちんぷいぷい!」と抱きしめてくれました。その光景は、今でも私の心の記憶に鮮明に刻まれています。
母には「自立心が育つ前に親である自分たちが死んでしまったら、困るのはこの子だ」という危機感が強くあったのでしょう。そして私に、「いくらでも転びなさい。傷は時が過ぎれば必ず治るの。立ち上がってはまた転んで、痛い思いをして覚えたことは生涯の宝物よ。人生は自分の足で歩いて行くのだから」と。また「世界には青い目の人や真っ黒な肌の人、いろんな人がいるけれど、ケガをすれば皆同じ赤い血を流すのよ。そしてあなたと同じように、しょっぱい涙を流すのよ」と言いました。
この言葉は、長じて、どこの国のどういう立場の人にでも物おじせず、人対人として向き合い、会話できるように、私を育ててくれました。
やんちゃでおてんばだった森村学園時代
小中学校は森村学園に通いました。3月30日生まれなので同級生より約1年遅れているのに、写真を見ると私がいちばん背が高いんですよ。母は母乳が出なかったので、私はモノがない時代に貴重な粉ミルクで育ちましたから、栄養満点だったのかもしれません。
おでこが広かったので、あだ名はデコ。お相撲を取っても強かったし、木登りをしてヘビを捕まえてブンブン振り回すような、すごいおてんばでした。
英語との出合い
中学時代、1年と3年のとき、会議に出席する母についてアメリカへ行きました。1年のときは夏休みを過ごし、3年では英語上達の意欲が湧き、自ら望んで独り残りニューヨークでホームステイしました。
翌春高校に編入、そして卒業後一度は日本の大学に入学しましたが、英語を完全にマスターしようと決意し、オレゴン州ポートランドのカレッジに留学。あえて日本人が少ない小さな町の、小さな学校を選びました。ホームステイ先では、アメリカ人の家庭生活から彼らの慣習や考えを学びつつ、猛勉強に励みました。
帰国後は、『タイム・ライフ』誌の東京支局に就職、編集部に勤務しました。
コーディネーターとしての第一歩
2年後転機を感じて退職。進路を模索中のある日、当時大変な人気アイドル「モンキーズ」の来日に際し、通訳の仕事が舞い込みました。日々詰めかける数十社の記者とメンバーを守る陣営との軋轢(あつれき)がつのるばかり。正確な通訳だけでは解決できない事態となり、自分の判断と創意で誠意を尽くし説得するうち、円滑に取材が進み、双方を「和」で結ぶことができたのです。通訳としては越権行為でしたが、みんなに感謝されたことが大きな喜びでした。
結婚と独立
その後、ある音楽事務所から「オズモンド・ブラザーズ」の通訳・調整役の依頼が入りました。この素晴らしい大家族は日本でも愛され、成功裏に帰国。思いがけず、オズモンド家がキューピッド役となり、この音楽事務所の社長と結婚したのです。
当初は主婦業に専念しましたが、大阪万博で有名歌手の通訳を務めたのを機に、夫の会社で働くようになりました。1971年には、オードリー・ヘプバーンが初めて日本のCMに登場する交渉を成立させるなど、夫の役に立てることがうれしく、意欲を燃やしました。
そうして仕事の比重が増す一方で、2人の間にズレが生じ、離婚。良き先輩の元から卒業するような独立でした。
29歳、会社設立
何もないスタートでしたが、人との出会いに恵まれ、通訳・司会、音楽祭の調整役、さらにラジオ番組のDJも長く務めました。ソフィア・ローレンをホンダのミニバイクに乗せるCMを成功させたのも実績の一つですが、撮影では彼女のプロに徹する精神に感動しました。
1982年、オードリーさんと再び仕事をご一緒し、それからはお互いに信頼し合い、親交を温めました。亡くなられて22年になりますが、今もご家族と交流が続いています。
常に真心を込め仕事に向き合ってきました。上記のお2人をはじめ、マレーネ・ディートリッヒやフランク・シナトラ……、世界の大スターから学んだことは私のかけがえのない財産となっています。
再婚と出産
37歳で今の夫(建築家の黒川雅之氏)と再婚し42歳で長男を出産。病院に駆けつけてくれた母は90歳で授かった初孫をうれしそうに眺め、出産直後の私に、こんな言葉のプレゼントをくれました。「愛情の深さと過保護は紙一重だから、くれぐれも過干渉には気をつけなさい。それから、早いうちに挫折をさせなさい」と。たった今、生まれたばかりの子どもに、もう挫折?(笑)。冗談かと思いましたが母は真剣な面持ちでした。
息子が10歳、母が100歳と、どちらにも手がかかっていたころ、夫の食事までなかなか気が回らなくなっていた時期がありました。夫はそれまでまったく料理をしたことがありませんでしたが、実際にやってみたら楽しくなったらしく「料理は究極のアートだ。生まれ変わったらシェフになりたい」と言い出すほどに。
「ご主人がお料理されるなんてうらやましい」と言われますが、「ダメ妻をやるといい夫が育つわよ」と言っています(笑)。
母を看(み)取って
母は102歳で舌がんになりました。
そのとき母は「私は政治家だから、辛口でいろいろ言ったけど、二枚舌は使ったことがないのになあ。舌切りスズメが面白がって私の舌を切りに来たのかしらね…」などと言いつつ不安を克服し、病気の現実を受け入れ、手術に臨みました。首にもメスが入りましたが、「あら、おかげさまで首のシワがなくなったわ」と母流のユーモアが言える人でした。
その後も入院先の病室で原稿を書いていましたし、「まだまだ知りたいことがある」「この本も読んでみたい」「あの方にもお会いしたい」と、興味や好奇心が衰えることはありませんでした。
残念ながら103歳を過ぎて癌が再発。さすがにお医者さまも手術は無理ということで自然にまかせ、104年の天寿を全(まっと)うしました。
こうして私は56歳で母親であると同時に偉大なメンター(指導者)でもあった加藤シヅエを看取りました。
ダンスに夢中!
59歳から「難民を助ける会」のボランティア活動を始めました。他にも別の仲間たちとチャリティ・パーティーを開催し、余興として社交ダンスをすることに。映画『シャル・ウィ・ダンス?』がはやったころから、いつかやってみたいと憧れていました。
余興披露後もときおりスクールに通いましたが、「何か目標を持たないと上達しない」ということが分かり、一念発起。スクールの発表会に出ることを目標にし、67歳の秋から真剣にレッスンに通い始めました。するとダンスがどんどん楽しくなって、新しいジャンルや難しいステップにも挑戦するようになったのです。そのうちテレビ番組や雑誌で、発表会の映像や写真を紹介することがあり、「68歳でこんなに筋肉がつくの?私もがんばってみようかしら」と多くの反響があり、さらにダンス熱に磨きがかかりました。今では週に2、3回のペースでレッスンに励んでいます。先生は、なんと41歳と20歳(笑)。ダンスのおかげで健康体になり人間ドックもほぼAといいことばかり。
それに今楽しいのは、聞かれもしないのに、自分の歳を言うこと!(笑)。「そのお歳には見えませんね〜」って驚かれるのがうれしくて(笑)。
母は、終生、世のために役に立っていたいと使命感に燃え、1日10回感動する心を持ち続けていました。100歳になっても日々新しい発見がある、何かを始めるのに遅いことはないと語っていました。
一度しかない人生、私も七転び八起きで、これからもチャレンジし、自分のできることが誰かのお役に立てる限り生涯現役でいたいですね。
(東京都内のオフィスにて取材)
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