人生の経験には、すべて「意味」がある!
- 池上 季実子さん/女優
- 1959年、米・ニューヨーク生まれ。3歳で帰国、小学校卒業まで京都に住んだのち、東京在住。74年、『まぼろしのペンフレンド』(NHK)で女優デビュー。テレビドラマ『愛と誠』『熱中時代』『男女7人夏物語』、NHK大河ドラマ『草燃える』『おんな太閤記』『徳川家康』『武田信玄』などに出演。84年『陽暉楼』(東映)で第7回日本アカデミー賞主演女優賞を、89年『華の乱』(東映)で第12回日本アカデミー賞助演女優賞を受賞。現在もドラマ、舞台、映画などで活躍中。著書に、これまでの半生を綴った『向きあう力』(講談社現代新書)がある。
最初の記憶
両親との激しい確執や女優デビューの裏側、マスコミからの逃避など、これまで世間に公表したことのない半生を『向き合う力』(講談社現代新書)にまとめたところ、多くの反響をいただきました。
その本にも書きましたが、私には両親との楽しい思い出がほとんどありません。父に関する最初の記憶は、3歳半ぐらい。幼稚園の入園試験を受けるためのお勉強をさせられていたときです。
積み木が重ねて置いてあり、父に「何個あるか数えてみろ」と言われました。目の前にある「4つ」までは数えられましたが、実は、その奥にも積み木がいくつか置いてあったのです。すると、「なんでこんなことが分からないんだ」と、バーンと頭を叩かれました。
父はしつけのつもりだったのかもしれませんが、父の思い通りに動かないと、私は常に怒鳴られました。夜中近くまでお説教が続くこともあって、父がもうすぐ家に帰ってくると思うだけで息苦しさを感じたものです。
母もそんな父から私をかばってはくれませんでした。父は母に対しても感情的に振る舞っていましたから、今思えばそれも仕方ないことだったと分かるのですが、母は歌舞伎世界である梨園の血筋だからでしょうか、父がいないときも弟ばかりかわいがり、母にギュッと抱きしめてもらった記憶もありません。
いつしか「私は愛されていないんだ」と思うようになりました。近所のお友達にも、「私は橋の下で拾われてきたんだよ」と言っていましたね。
祖父との思い出
母方の祖父は8代目坂東三津五郎です。両親とは反対で、祖父には幼いころからとてもかわいがってもらいました。
あるとき、祖父から電話があって、「今からすぐに楽屋にいらっしゃい」と言われて行くと、そこには知らないおじさんが座っていました。
「お前の大好きな人だよ」と言われても分かりません。「分からないかい?お前の大好きな銭形平次さんだよ」。
その方はまさに大川橋蔵さん!私は祖父のことが大好きだったけれど、『銭形平次』の放映時間だけは、祖父から名前を呼ばれてもテレビの前にはりついていたくらいだったので、それを知ってわざわざ会わせてくれたのでしょう。
また、祖父は私をよく京都の古美術屋さんに連れて行ってくれました。今でも私が古美術を好きなのは、間違いなく祖父の影響です。
坂東流(踊り)の名取試験もいつもそばで見せてくれました。だから、着物が特別なものだと思ったこともありません。この仕事を始めて、着物を着る機会が増え、「着物の着方がいい」と言っていただけるのも、子どものころに祖父のお弟子さんたちの着物姿、帯合わせ、立ち居振る舞いをたくさん見てきたからだと思います。
思いがけないデビュー
小学生になると、「いつか自分ひとりで食べていかなくては」と思うようになりました。両親の夫婦ゲンカが絶えなかったこともありますが、父が商社を辞め、プラスチック部品の塗装工場を起こしたものの、経営があまりうまくいかなかったようで、いつもお金のことでもめていたからです。
小さいころから絵を描くことは好きでしたが、好きと才能とは別です。絵で食べていくことは難しいだろうと思っていたところに、結局、両親が別居することになり、母と弟と3人で東京に出てきた矢先、芸能界にスカウトされました。
転機が訪れたのは14歳のときです。3歳年上のいとこ、5代目坂東八十助(現・10代目坂東三津五郎)が NHKでドラマの撮影をしていて、見学に行ったとき、スタジオの片隅でいとこの真剣な演技に見入っていました。すると、1人のおじさんが寄ってきて、「お芝居に興味はある?番組に出てみない?」と声をかけられたのです。私はためらうことなく、「はい、やります!」と答えていました。
その後、とんとん拍子に話が進み、『まぼろしのペンフレンド』でデビュー。もちろん、それまで演技の経験はなく、まったくの素人でしたが、台詞(せりふ)も不思議と入ってきて、本当に夢中になって演じることができました。心の奥底で、「これでしばらく食べていけるかもしれない」とも思いましたが、それよりも、人に認められることがただうれしく、お芝居が楽しくて仕方なかったというのが正直な気持ちでした。
プロとしてのイロハ
その後、『愛と誠』のヒロイン役が決まり、そこでフィルム撮影のイロハを教わりました。
当時のレフ板はミラーです。今は発泡スチロールなどでできていますが、そのころは鏡ですから、太陽光線が直接目に入り、まぶしくてとても目を開けることなどできません。ところが、「主役なんだからちゃんと目を開けて台詞を言え」と怒られるので、必死で目を開けると、今度は涙がボロボロ出てくる。すると「早く涙を止めろ」とまた怒られて、目が慣れるまでカメラを回してくれません。
でも、そうやって鍛えてくださったおかげで、どんなにまぶしくても目を開けてお芝居ができるようになりました。カメラがここにあるときは、目線はこっちといった、基本中の基本も教えていただきました。
スタッフのみなさんにもかわいがっていただき、「ライティングがこれぐらいの明るさだと季実子はきれいに映る」といったことも教えていただいて、今の自分はこんな風に映っているんだなということが感覚で分かるようになりました。
私にすれば、演技の学校に通っていたようなものです。「見せるための芝居」がどういうものか教えていただき、知らず知らずのうちに、プロ意識が植えつけられたと思います。
エキセントリックな役柄に共感
これまでたくさんの女性を演じてきましたが、比較的変化の大きい役柄が好きでしたね。
初めて出た大河ドラマは『草燃える』の大姫で、父・源頼朝の決めた政略結婚に利用され、好きな人と引き離されたために気が触れてしまう役でした。それがすごく面白くて、父が無理やり…というところになぜか共感してしまったんですね(笑)。自分の中のスイッチが入って、大姫の感情にすっと入っていけたのです。幼いころ、自分が苦しい思いをした経験も、意味があったということです。
それをきっかけに、大姫のようなエキセントリックな役もできる女優というイメージがついて、『徳川家康』の築山御前や、『おんな太閤記』の淀殿の役もいただけたのだと思います。
ちなみに、私が若いころ、素に一番近かった役は、産後の復帰作、『男女7人夏物語』の浅倉千明です。千明の、言いたいことはパンパン言うけど、人のことを放っておけない、面倒見が良くて姉御肌なところは、自分で言うのも変ですが、当時の私にそっくり(笑)。鎌田敏夫さんの脚本を読んだとき、「なんでこんなに私のことが分かるの?」と驚いたくらいです。
言われのないマスコミ記事にダウン
今だから言えますが、マスコミにはずいぶんいじめられました。映画『陽暉楼(ようきろう)』に出演したころです。「恋多き女」だと次々に恋愛をスクープされ、1カ月間で11人もの男性と恋中にされたことがあります。それも事実ならいざ知らず、全てでっちあげ。お会いしたこともない俳優さんの名前も挙がり、弟と一緒にいたときの写真まで週刊誌に撮られて、「新恋人発覚」と書かれました。
それだけではありません。郵便物を勝手に見られたり、ゴミ袋を開けられたり、1度は盗聴も。これはさすがに警察に届けましたが、そのうちにストレスで食事も喉を通らなくなり、げっそりしてしまった私は、結局、半年間の休養を余儀なくされました。
ただ、このマスコミ騒ぎがなければ、私は結婚することも、子どもを産むこともなかったと思います。報道によって勝手に自分の人格がつくられていくのがどうしても許せなくて、「私の人生は私がつくる!」と、当時友人だった夫と半ば勢いで入籍したんです。
この結婚をマスコミはまったく知らず、私としてはしてやったり(笑)。その後、離婚することになりましたが、子どもを持てたことは本当によかったと思っています。
ハリウッドのオファーを蹴る
しかし、母親にとっては、子どもは最大の強みであると同時に、最大の弱みでもあるというのが実感です。
子どもが小学校受験を控えていたとき、ハリウッドから映画出演のオファーがあったのです。当時、私は32歳。そのオファーを受けていたらどうなっていたかと思うことは正直あります。女優人生も今とは違ったものになっていたかもしれません。でも、子どもとの関係も変わってしまったかもしれない。あのときは、親子関係が崩れることが一番怖かったんですね。
NYからプロデューサーが3度も訪ねてきてくださり、「この役は君しかいない」と言われたとき、「これは神様に試されているな」と思いました。でも、今の子どもとの関係を思えば、お断りしてよかったと思っています。
その後、子どもの反抗期も長く、いろいろ戦いました。でも、「私は子どもとちゃんと向き合ってきた」という確かな自信があったから、それを子どももきっと分かってくれたのだと思います。
本を書いてよかった!
本を書いたことは、すごくよかったと思っています。文章にする段階で、トラウマが抜けていないと思い込んでいたことも、実際に細かく文字に起こしてみると、すでに自分の中で整理がついていた事柄もあり、「この思い込みを外せばいいんだ」と思ったらパッと消えてしまったこともあります。ある意味で、意識の浄化ができたというか、自己セラピーに近い行為だったかもしれません。
この記事をお読みになって、親子関係で悩んでいる方がいらっしゃったら、1度ご自分で過去のことを書いてみるなり、テープに取るなりして、見直してみるのもいいのではないでしょうか。
14歳でデビューして、独身のころは仕事に追われ、子どもが産まれてからは、子どもと仕事に時間を費やしてきて、これまでできなかったこともたくさんあります。その分、今は、お友達と泊まりがけで温泉付きのゴルフを楽しんだり、釣りに出かけたり、大好きな阪神タイガースの応援に行ったりと、今まで置き忘れてきたプライベートな時間を思い切り楽しんでいる感じです(笑)。
女優としても、これからいろんな役を楽しんでやりたいと思っています。
(東京都渋谷区の所属事務所のスタジオにて取材)
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