「弱い自分」が原点。一日、一日、全力を尽くす
- 高橋 尚子さん/マラソン解説者
- 1972年岐阜県出身。中学から本格的に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校、大阪学院大学を経て実業団へ。98年名古屋国際女子マラソンで初優勝。以来、マラソン6連勝。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、同年、国民栄誉賞受賞。2001年ベルリンマラソンで女性初の2時間20分を切る世界記録(当時)を樹立。08年10月、現役引退を発表。日本陸上競技連盟理事、日本オリンピック委員会理事に就任。その他「高橋尚子のスマイル アフリカ プロジェクト」や環境活動、スポーツキャスター、マラソン解説者、JICAオフィシャルサポーターなどで活躍中。
小学校3年生までは典型的な女の子だった
小学校3年生ぐらいまでは、外見は、ピンクのスカートをはいて、ポシェットを斜めがけした典型的な女の子でした。ただ、外では山を走り回ったり、田んぼでザリガニやおたまじゃくしを捕まえたりしていましたが(笑)。それが、あるきっかけから、見た目もボーイッシュになってしまいました。
たまたま市内でシラミがはやった時期があって、「全員ショートカットにしなさい」とお達しがきたんです。当時、ロングヘアだった私は、「絶対に切りたくない!」と最後まで意地を張っていました。ところが、母に「ちょっと美容院できれいにしてもらおうか」と連れて行かれ、椅子に座ったと同時にバッサリ。ありえないほどのショートにされたことがショックで、ワーッ!と泣きながら店を出て行った自分の姿をよく覚えています。それから急に「私、もうパンツしかはかない!」と宣言して、見た目が180度変わり、すごく活発な感じになりました。
走ることに関して思い出すのは、両親と買い物に行った帰り、電柱から電柱の間を「よーい、ドン!」で競争したこと。あとは、マラソン大会に出場する兄のために、父が練習に付き合うことになり、私も兄と父の後ろからついて走ろうとしましたが、全然追いつけなくて、やっぱり泣きながら帰ってきた思い出があります。大人になった今でも、家族と一緒に体を動かしたことは鮮明に覚えていますね。
陸上部に入った3つの理由
中学校で陸上部に入った理由は3つあります。1つは靴の裏にピンがついているスパイクって面白いなあと思ったこと。2つ目は、スタンディングスタートからクラウチングスタートに変わって、しゃがんだ姿勢からブロックをキックして勢いよくスタートするのが、ちょっとカッコいいなと感じたこと。3つ目が1番大きいポイントで、ライカン(スタートピストル)を生徒がパーン!と打っていたこと。それまで刑事ドラマでしか鉄砲を見たことがなかったので、なんてカッコいい部活なんだろうと(笑)。目新しさがたくさんあったことが、入部するきっかけになりました。
でも、両親は大学生になっても陸上に夢中になっていることに反対していましたね。2人とも教師で、堅い考えだったのかもしれませんが、走ることで生計を立てられるなんて思ってもみなかったんでしょう。「いつまで遊んでるんだ」としょっちゅう言っていましたから。
それでも私は、両親の反対を押し切って陸上を続けました。中学のときに、走ることの楽しさ、一生懸命やることの充実感を覚えたからでしょう。
一度、日本代表選手が中学だったか高校の県合宿に来たことがあり、「僕が日の丸をつけられた一番の理由は、練習の後100メートルを、人よりも3本だけ多く走ったからだ」と聞きました。私は、「それだけで日本代表になれるなんて無理だろう」と思ったものの、聞いてしまった以上はやってみようと、次の日から、練習後に100メートルを3本走ることにしました。
100メートル3本ですから、かかる時間は5分ほど。マラソンを始めるようになってからは、一日にプラス10分だけ練習後にジョギングをするようにしました。現役を終えるころはプラス1時間になっていましたが、その習慣は続けました。人より多く練習してきたことが、いい結果につながったのかなと思います。
「弱い自分」が原点
ただ、高校に入っても、私は目立つ選手ではありませんでした。高2で初めて出場した都道府県対抗女子駅伝では2区を走りましたが、2区ってある意味つなぎの区間なんですよ。しかも順位は47人中45位。「テレビで中継までされたのに、恥ずかしくて岐阜に帰れない…」と、また涙です。でも、それから9年間で8回、その大会に出場し、45位が30位、30位が20位と少しずつ順位が上がり、最後の8回目、やっとエース区間で、区間賞を取ることができました。
高校のときの先生に、「お前は素質がないな」と言われたことがあります。「でも、がんばる素質はある」と。だから、がんばることだけは忘れちゃいけないと思って、プラスの練習をしてきたおかげだと思います。
その後、マラソンの世界で結果を残すようになっても、「自分が強い」と思ったことはないですね。「練習ができなくなったらすぐに弱い自分に戻ってしまう。だから、人以上の練習をやり続けないといけないんだ」という思いは、現役を引退するまでずっと持ち続けていました。
シドニー五輪の思い出
金メダルを獲得できたシドニーオリンピックでは気負いはありませんでした。むしろ、その3年前の世界陸上で5000メートルに出場したときの方が気負っていました。スタート直前、まわりはウオーミングアップで軽く流して走ったり、体を動かしたりしていたのに、私は緊張のあまり一歩も動けなくて棒立ち。観客席にいた小出義雄監督に、「高橋、動け~!」と言われましたが、「無理です!!」みたいな(笑)。
そのときの私は力もないのに「もしかしたら奇跡が起きて、メダルが取れるかも」と自分に期待してしまったんです。でも、人間は実力以上のものを期待すると、体がこわばって動かなくなるもの。案の定、決勝レースでは13位でした。
シドニーのときは、その逆で、自分のいつもの走りをすればいい。今日は特別な日ではなく、365日、苦しい練習をクリアしてきたのとまったく同じ一日だ。たまたま今日は、42キロをこれぐらいのタイムで走る練習をするだけと、そこだけに集中できた結果だったと思います。
ただ、レース前から、表彰台に上がる気は満々だったみたいです。というのも、オリンピックって、走るときのウェアと表彰式のウェアはメーカーが違うんですよ。スタート前にそれを確認しなくてはと、「監督、表彰台のときは何のメーカーでしたっけ?」と聞いたんです。そのとき、「お前、スタートもしてないのに、もう表彰台に上がる気か?」と言われてハッとしました(笑)。
高橋尚子を曲げたくなかった
引退を決めたのは、練習中に、不完全燃焼な日々が続いたことがきっかけです。私、陸上に関してはすごく厳しくて、ペースメーカーを務めるコーチに「1キロ4分ペースで40キロを引っぱって」と言ったとき、1キロあたり2秒の誤差までは許せるんですが、コーチのタイムが4、5秒遅れると、「私も命がけでやっているんだから、あなたも命をかけて!」と言うくらい、ストイックに練習していたんです。ところが、自分の方が設定した目標タイムの70%ぐらいしか出ない日が続いて、夜も眠れなくなってしまいました。
ずっと一日一日が勝負のつもりでやってきて、メニューを全力でこなして「やり終えた!」という充足感をチーム全員が持って一日を終えていました。それが70%なんて。「高橋尚子がそれでいいの?」と自分に問い続けていました。それに、これまで100%何の曇りもない自分でスタートラインに立ってきたからこそ、皆さんにも応援してもらえた。100%じゃない自分が同じ応援をもらっていいのだろうかと。
2カ月ぐらいもやもやして、代理人に「私、今回走れないかもしれない」と言ったとき、「いいんじゃないの?今まで一生懸命やってきたのを知っているから」と言われて。そういう道もあるのかと気づかされたと同時に引退を考えるようになったのです。
記者会見では、気持ちも落ち着いて、淡々としていましたが、記者の皆さんに思いがけず拍手をもらって、うれし泣きみたいに涙が止まらなくなりました。
弱い自分を思い出し新たな一歩を踏み出す
今は、選手の立場から、取材して伝える側に変わりましたが、スポーツキャスターとしてのもどかしさみたいなものは感じています。選手のいいところをどうやって引き出し、伝えたらいいのか。放送が終わって、「今日もダメだった」と落ち込んで帰ってくることが多いです。達成感としてはまだまだ20~30%ですね。
ただ、陸上も45位から始まった私なので(笑)、自分はこの分野では大学生なんだと。少しずつ成長していければいいと思っているところです。
また、さまざまなスポーツのトップ選手の話を聞くことで、指導者としての引き出しも増えていくかなと思っています。陸上でこれだけ支えてもらったので、これからも陸上を軸にしていきたいという想いはありますね。
ケニアの子どもたちに運動靴を贈り続ける
貧困で靴が買えず、裸足で暮らすアフリカ・ケニアの子どもたちに日本で不用になった運動靴を贈る「スマイル アフリカ プロジェクト」にも取り組んでいます。
最初、現地に足を運んだときは本当にびっくりしました。ガラス、ゴミ、動物の糞(ふん)などが5センチぐらいたまっているスラム街を子どもたちが裸足で走っているんです。破傷風などの感染症で命を落とす子どもも多く、靴って命を守る防具にもなるんだと感じた1年目でした。
でも、この活動が2年目、3年目になると、子どもたちが徐々に変わっていきました。1年目、陸上選手になりたいと言った子どもは1人だけ。それが3年目にはランニング教室ができて、50人ぐらいが陸上選手を目指すようになりました。すると、大人たちも「自分たちも何かしたい」と動きだし、スラム街に250人が集まって、清掃作業が始まりました。
今では、マラソン大会のジュニアの部に入賞する子も出てきました。支援を続けるスラム街から成功者が出ることで、子どもたちが夢を持てるようになってきたというのは、非常に大きな変化だと思います。いつか、世界で通用する選手が出てくれたらうれしいですね。
今でも走ることが一番楽しい!
今でも走ることが大好きで、時間があれば毎日走っていますし、年に2、3回は、選手時代と同じアメリカ・ボルダーに合宿に行っています。最近は、ファンラン(楽しく走る)大会にも参加しています。
去年、現役引退以来、初めてのフルマラソンをフランス・ボルドー地方で走りましたが、高級ワインの産地で知られるボルドーでの「メドックマラソン」は、私が取り組んできたマラソンとは別物!20カ所以上の給水ポイントに置かれているのは、ワインでした(笑)。
参加者の皆さんの仮装も華やか。この大会は年ごとのテーマが決められていて、「SF」のテーマに合わせて、私も宇宙服のようなメタリックのウェアを着て臨みました。しかも、普通なら1杯でもふらふらになるぐらい酔うのに、なんとワインを15杯も飲んでしまいました!(笑)
温泉が好きでよく行きますが、旅先でも必ず走ります。走っているときが私にとって一番うれしい時間。この先もそれは変わらないと思います。
(所属事務所にて取材)
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