「通訳が好き」そして「明日があるさ」 これからも楽天的に、伸び伸びと
- 長井 鞠子さん/会議通訳者
- 1943年宮城県生まれ。国際基督教大学卒業。67年、日本初の同時通訳エージェント・サイマル・インターナショナルの通訳者となる。以降、日本における会議通訳者の草分け的存在として先進国首脳会議(サミット)をはじめとする数々の国際会議やシンポジウムの同時通訳を担当。各国要人や各界著名人の随行や記者会見通訳も多数。通訳の内容はあらゆる分野にわたり年間200件近い業務を請け負う。サイマル・インターナショナル顧問。サイマル・インターナショナルホームページ http://www.simul.co.jp/
五輪招致チームの一員として
東京五輪招致のプレゼンチームは、とても素晴らしかったです。練習のときから通訳をしていましたが、本番のプレゼンが終わったときに、「これで(東京が)もらった!」と思いましたね。練習ではいろいろありましたが、本番は最高の出来でした。「これで取れなかったら、もう悔いはない」というくらいのベストパフォーマンスでしたね。
同時通訳というのはある意味「出たとこ勝負」です。「しまった!」と思っても、言ってしまったことは、もう取り返しがつきません。ひとつひとつの仕事が真剣勝負です。私はしょっちゅう討ち死にしていますが(笑)。
もちろん失敗したときというのは落ち込みますが、それを引きずっても明日に何の良い影響もありません。「ほんとうに正しく訳せているんだろうか」ということを考え始めたら、怖くなることもあります。でも、基本的に「通訳をすることが好き」、そして、失敗しても「明日があるさ」と思える楽天的で脳天気な自分の性格、それがあったから、これまで続けてこられたのだと思います。
伸び伸び育った子ども時代
私は昭和18年に仙台で生まれました。戦争中の仙台には、第2師団という日本軍の大きな部隊が置かれていましたから、私が3、4歳くらいのときにアメリカ軍が進駐してきて、近所をしょっちゅう米兵が通るわけです。私も当時の子どもと同じように、兵隊さんの後を追っかけていました。
「ギブミー、チョコレート!」って言うとハーシーの板チョコをポンポンくれる。それが自動販売機みたいで、ゲーム感覚でとっても面白かったんです。親の気持ちとしては複雑だったと思いますが、別に「やめなさい」とも言われませんでした。
特に自然が好きというわけではありませんでしたが、外が遊び場でしたから近所のお友達と野山を駆けずり回って遊んでいて、いつもまっ黒に日焼けしていました。
少し大きくなると、少女雑誌の中に好きな小説やマンガを見つけては、脚本を書いて、ちょっとしたドラマ仕立ての「寸劇ごっこ」をして遊んだ覚えがあります。誰に見せるわけでもなく、広場に集まって「ハイ、●●ちゃん、こう言って!」なんて、ちょっと偉そうに指示したりして(笑)。
私は活発だけど、運動神経が良いほうではなかったので、運動会になると、足の速い子がピューっと前を行ってしまいます。「人間にはいろんな能力があるんだな」ということを、子どもながらに感じていました。
母は、昔の人には珍しく宮城学院というミッションスクールの大学を卒業後、東京に出てKDDの電話交換手をしていた「職業婦人」の先駆けのような人でした。
父との結婚を機に仙台に戻った後も、英語力を生かして進駐軍の事務系部署の採用に合格して仕事を続けていました。子どもが生まれてからも、米軍が撤退したあとに引き継がれた「アメリカ文化センター(現在のアメリカンセンター)」にずっと勤め、国務省から退職金をいただきました。
ですから私もごく自然に「お母さんというのは、職業を持っているものだ」という感覚で育ちました。私には双子の姉がいますが、母は私たちに「女は手に職、経済力をつけなければダメよ」と何かにつけて言っていました。
クールで、厳しくもあり、どっしりと落ち着いた感じの母でしたが、決して冷たい人ではなく、常に物事を面白がり、子どもたちを信じて見守ってくれていましたから、私たちは常に母の愛情を感じて育ったのです。
父は大学で地質学を教えていましたが、「溺愛」と言ってもいいくらい、私には甘かったですね。姉が双子でしたから、次は男の子が欲しかったらしいんです。私は男ではありませんでしたが、父が期待する「子ども像」そのものだったらしく、とてもかわいがってくれました。
勉強しろとは言いませんでしたが、バイオリンはやらせたかったようで、お稽古には必ずついてきて、家で練習をするときも調弦は全部父がやってくれました。とはいえ、厳しく「練習しなさい」ということではありませんでしたから、私は両親から押し付けられたという記憶がないんです。「あなたにはムリ」とか「やっちゃダメ」と言われた覚えがまったくなく、伸び伸びと育ててもらいました。
私は高校生のときに交換留学生としてアメリカ・ダラスへ行きました。今では信じられないでしょうけれど、当時は「嫁入り前の娘をアメリカに1人で出すなんて」ということで、親戚やいろいろな人がずいぶん反対したと後から聞きました。両親はそれを私の耳にはまったく入れず、側面からずっと援助をしてくれました。
ダラスには、正味10カ月間ホームステイしましたが、現地で驚いたのは、向こうの高校生の女の子はみんなお化粧をしていて、髪をきれいにセットして、マニキュアを塗って、とてもおしゃれだったということ。そこに仙台から、三つ編みのお下げの、色のまっ黒な少女が行ったわけですから「何これ? ビックリ」ってことですよ(笑)。とはいえ、大人びて見えた彼女たちも、よく付き合ってみれば同じ17、8歳。次第に打ち解け、とても良い思い出になりました。
姉の経験に助けられた 娘の反抗期
結婚後、仕事を続けながら2人の子育てを終えました。娘が反抗期のころ、私は「お母さんの、その明るさがムカつく」と言われたことがありました。一緒にデパートに買い物に行けば「店員さんとの受け答えがおばちゃんチックで嫌」と、いちいち腹を立てる。私が「私はお母さんに口答えをしたことはない!」と言えば、「おばあちゃんとお母さんは違う!」と返してくる。母は子育てで、自分がしたことに対してクヨクヨしたところがなかった。それに比べると私はふにゃふにゃで、「これでよかったのかな?」と、クヨクヨしながらの子育て。とても人様に誇れるようなものではなかったんですよね。
どうしたものかと途方に暮れていたときに助かったのが、姉たちの存在でした。姉たちにもそれぞれ娘がいて、女の子を育てるということについていろいろと聞くことができたんです。当時「私だけじゃないんだ」と安心したことをよく覚えています。
今、結婚してアメリカで子育てをしている娘に「あなたは昔、こんなこと言ったのよ」と言うと「私も青かったねえ」と笑い話です。もし今、子育てで苦労されている方がいらしたら、すでにそこを通り過ぎた先輩の話を聞いてみるといいと思いますよ。お友達のネットワークもいいとは思いますが、同年輩の人の話だと、つい比べたりしてしまいますから。
天が鳴らした警鐘
先日、私に密着したドキュメント番組のなかで、ある仕事上のトラブルのことが取り上げられました。キャリアを重ね、上り調子で仕事が順調だった40代、ある会議の通訳で準備を怠ったことでダメ出しを受けたのです。
番組では、「発注元からあなたはもう来なくていいと言い渡され、全てを失った40代」というナレーションが流れました。そのシーンを見て、「全てを失ったわけじゃないけど…」とは思いましたが(笑)、ダメ出しがあったことは事実です。今、振り返ってみると、あの体験は私に良い警鐘を鳴らしてくれたと思います。「いい気になってはいけない。通訳というのはどんなに経験を積んでも、必死に準備をし、努力をしていかないとダメな仕事なのだ」ということを教えてくれました。神様かご先祖様なのか分かりませんが、天が鳴らした警鐘だったと思いますね。
私は、生涯現役でいたいと思っています。専門用語を反射的に出すような能力は年齢とともに衰えてくるかもしれませんが、経験値というのはそれを補って余りあるもの。
政治経済や国際関係などの分野では、私がこれまで生きてきた人生や言語生活がプラスに作用して、若者にはない、味のある通訳ができると思っています。
通訳というのは、同僚がある意味みんなライバル。「毎日毎日勉強して、ライバルと伍(ご)していくことに疲れた」とリタイアされる方もいますが、私は、それ(リタイア)はマーケットが決めることだと思っています。マーケットに「お前はもう来なくていい」と言われたら、つまり私に対する需要がなくなったときがリタイアすべきときだと思います。
私はなぜか、全てが楽しくて、今のところまだ全然リタイアしたくないですし、この世には楽しいことがたくさんあるので、お休みのときも忙しいんですよ。
まず第1は音楽。現在3つのグループに所属して、バイオリンやビオラのアンサンブルをいろいろなところで楽しんでいます。楽器を演奏しているとストレスがスウーっとほぐされていく実感があります。
あとは、いろいろなネットワークのお友達とおいしいものを食べたり飲んだり、歴史好きの仲間と古墳に行ったり。テレビを見るのも本を読むのも好きです。やりたいことがたくさんあります。私は本当に恵まれていると思います。仕事も好きですし、余暇には好きなことをやりますし。
じゃあ、好きじゃないのは何かと言うと、家事なんですよ(笑)。パーティー料理は好きですが、日常の、三度三度のご飯を作るのが苦手で。
今はもう子どもたちも独立して自分のためだけですから、ご飯を炊いて、納豆とみそ汁と漬物があればそれでいい。とはいえ「おいしいお米にこだわってみよう」というように、そこに何か楽しみを見つけ、何事も面白がる精神で向き合うようにしています。
(サイマル・アカデミー 東銀座校にて取材)
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