久しぶりの芸能界。自然体でいられるのは、やっぱり「好き」だから!
- マッハ文朱さん/タレント
- 1959年熊本県生まれ。15歳で全日本女子プロレスに入門、リングネーム「マッハ文朱」として、引退後はタレントとして活躍。84年初渡米。その後健康心理学、経済学を学ぶ。93年台湾系米国人の駐米パイロットであるご主人と結婚、米国を拠点に子育てをしながらスポーツバーの経営などを行う。長女は宝塚歌劇団に在籍、大学生の次女は世界ジュニアで活躍するテニスプレーヤー。2013年秋、日本に拠点を移し本格的に芸能界復帰。【オフィシャルブログ】マッハ文朱「今日もマッハで。」http://ameblo.jp/mahha-fumiake
やんちゃで男まさりな子ども時代
とにかく活発で、男まさりで、おっちょこちょいな子どもでした。三姉妹の真ん中で、大きな赤ちゃんとして生まれ、ミルクをいっぱい飲んで、すくすく育っていきました。
ショートヘアに短パンで、木登りをしたり、「危ないから絶対入るな」と言われていた柵を乗り越えてザリガニ釣りに行ったり。そんな感じの元気いっぱいな子どもでしたから、近所の皆さんは私のことを男の子だと思っていたのではないでしょうか。
5歳上の姉は、本がとても好きで、大の読書家。その姉の大切な本を、ビリビリに破ってしまったりしていたので、姉は15歳ごろまで「お母さんはどうしてこんな子を妹に産んだのかしら!」と、ずっと思っていたらしいです。
でも、姉と私は仲良しで、よく「社長さんごっこ」をして遊びました。私が社長で姉が秘書(笑)。やんちゃでしたけれど、人をいじめたり、悪いことをしたりということはなかったようで、近所の人たちにはとてもかわいがっていただきました。
きっちりした父と、おおらかな母に育てられて
父はとてもキチッとしている人でした。父の思い出は、習字の墨の香り。手紙でも記録でも全部毛筆で書く達筆な人でした。
一方の母は「自分の名前と住所が書けて、足し算、引き算、掛け算、割り算ができればそれでいい」というおおらかで明るい性格でしたが、基本的なしつけはとても大切にする人でした。
礼節を重んじる、感謝の気持ちを忘れない、人に迷惑をかけないといった、人としての基本を、丁寧に優しく、あるときは厳しくしつけられました。そして、母は食べ物を絶対に捨てませんでした。傷んでしまって、やむを得ず捨てなければならないときには必ず新聞紙にくるんで、「すみません」と手を合わせてからゴミ箱に捨てていました。そういう、人として当たり前な基本を、毎日の生活で見せてくれたことはとてもありがたかったと思っています。
13歳で応募した『スター誕生!』
視聴者参加型の歌手のオーディション番組だった『スター誕生!』に応募したのは中学1年のとき。当時、あの番組はものすごい人気で、遊び半分で友達と「行こう行こう!」のノリで行ったのに、あれよあれよという間に最後まで残っちゃったんです。250点を取ると決勝大会に進めるのですが、私は245点で、1回目は予選で落ちました。ところが総評で審査委員長の阿久悠先生が、「プロデューサーさん、5番のワタナベさん(本名)にもう一度チャンスを与えてあげてください」と言ってくださったんです。それで予選に再チャレンジ。今度は高得点を取って、芸能事務所・レコード会社が参加する本戦に出場しました。しかし、スカウトのプラカードは挙がらず歌手デビューとはなりませんでした。
姉の直感が拓いた女子プロレスデビュー
その後の2年間は普通の中学校生活を送り、高校進学の時期を迎えたとき、叔父さんが「文ちゃんは身長があるし運動神経がいいから、プロゴルファーになったらどうだ」と言ってくれたんです。何をどうするのか具体的には何も分かりませんでしたが、「やってごらんよ」と言われたので「じゃあ私、やる」と返事をしちゃって(笑)。もちろんそれまでゴルフなんてまったくやったことはありませんでした。
ちょうど同じころ、今度は姉が女性週刊誌で「女子プロレスラー募集」という小さな広告を見つけてきたんです。姉はちょっと突飛な感覚というか、直感力が鋭い不思議な人で、「プロレス」というものに何かを感じたのだと思います。私も「姉は私のことをよく分かっていてくれる」と感じていたのでしょう。だからその姉に「やってみたら?」と言われたとき「うん、分かった、やる」と素直に受け入れることができ、プロゴルファーから女子プロレスへ方向転換し、15歳で、全日本女子プロレスに入門しました。
リングネームの「マッハ文朱」は、プロレスの先輩方が皆さんで考えて、つけていただきました。16歳のときには、WWWA世界シングル王座を獲得し、最年少戴冠記録とデビュー後最短戴冠記録を樹立。また、試合後はリングで歌を披露していました。
しかし、プロレスは2年8カ月で引退し、その後は、本格的にタレント・女優・歌手として、芸能活動の道に進みました。
「デビュー10周年」節目のNYでの涙
15歳で女子プロレスと芸能界の世界にデビューしてから10周年。記念に何かしようということになったとき、母がふと「そういえばあなた、海外に住みたいと言っていたわよね。それをやったらいいんじゃない?ただし1年だけよ」と言ったんです。
そのときは、1年後に日本に戻って、芸能活動のポジションがなくなる心配よりも、夢がかなうワクワクが勝っていました。母に背中を押され、プロデューサーさんたちにそのお話をさせていただき、1年くらいいろいろな準備をして、私がテレビ出演していた番組の後任者が決まったところで渡米しました。「もし戻ってきて居場所がなくなっていても、まあ、それも仕方ないよね」と(笑)。
ところが、下見のつもりで1週間だけニューヨークに行ったときのこと。NYという街は「私はここでこれをするのだ」という明確な目標がない限り、来たら危険なところだと感じました。皆、ビリビリするほどの緊張感でこの街で生きている。ところが私はNYという街に依存していたのです。「NYに行けばすてきになれる、NYが私を変えてくれる」―でもそれは、とんでもない間違いだと気付きました。
「ダメだ。私はここに来るべきではない。私の目的って何だろう?」と自問自答してみましたが、明確な答えは見つかりませんでした。
そんな悶々とした日々を過ごして迎えた最後の夜。NY在住のイラストレーターPさんから「僕の一番好きなところに連れて行ってあげる」と誘われ、エンパイア・ステート・ビルの展望台に上ったときのことです。夜景を見た瞬間、私は号泣していました。あまりにもすてきな夜景。
そして展望台の上から見下ろすと、下を歩いている人間はみんな「蟻んこ」みたいに小さいんです。それを見たとき「私だって小さな蟻んこだ。どんなに手足を伸ばして好きなことをやってみたって、世間は私のことなど気にも止めないだろう。だったら私はここで思い切り好きなことをやろう!」。そんなポジティブな思いが、NYに来てはじめて湧き上がりました。
「1年後にもう一度、この素晴らしい夜景を必ず見に来る。それを目的にしよう」。小さな目的ですが、私にはそれでじゅうぶんだったのです。
そして、NYで語学やダンスを学び、夜景を見るという目的を果たして1年で帰国。芸能活動の仕事に復帰しながら「今度はアメリカの大学に行きたい」という思いに駆られました。私は15歳でデビュー。高校を卒業していなかったため、28歳のとき、通信制で学ぶ高校生になりました。当時はラジオの通信教育でした。そして30歳で卒業、晴れてアメリカの大学入試をパスすることができました。
なれて良かった!「子育てブルー」
主人とは、はじめてNYに行ったときに知り合い、その後はずっと遠距離でお付き合いを続けました。
特に母が主人を気に入って「あなたみたいな人を理解してくれるのは彼しかいない」と、33歳で結婚。アメリカでの新しい生活が始まりました。翌年長女を出産してからは育児に専念するため、仕事は極力セーブするという生活にシフトしました。
最初は不安で不安で、毎日夕日を眺めて泣いていました。私の場合、海外での子育てですし、主人(職業はパイロット)はフライトで家にあまりいません。おまけに、最初は周りにお友達もいなくて、相談する人もいませんでした。
おそらく育児書に振り回されていたのでしょうね。勉強しすぎて「どうして泣いているの?何がいけないの?どうすればいいの?」と、いちいち悩んでいたんです。いわゆる「育児ブルー」です。
あるとき「育児ブルーになりやすい人」という本のページが目に留まり、読んでみると「何事に対しても一生懸命やる人」「パーフェクトにやろうとする人」…など、5、6項目の該当するタイプが書かれていましたが、どれもいいことばっかり。それで「なあーんだ、育児ブルーになるのは人間的に素晴らしいからじゃない!?なってよかったじゃないの(笑)」。そう思えるようになってから、だいぶ気が楽になりました。
輝く姿を見せ続けることが娘たちへの応援歌
ずっとアメリカで生活していましたが、2013年の秋から日本を拠点として、芸能界に復帰しました。
今では2人の娘も自立して、長女は宝塚にお世話になり(星組男役・桃堂純)、次女はプロテニスプレーヤーを目指して頑張っています。娘たちはそれぞれが自分の好きな道を見つけて進んでくれていますので、私が頑張っている姿を見せ続けることが彼女たちの応援になると思っています。やっぱりいつでも輝いている母がいいじゃないですか。生きがいを持ってセリフを覚えたり、歌詞を覚えたりする姿を彼女たちに見せることで「私たちも頑張ろう」と感じてくれればうれしいなと思います。最近、シャンソンをはじめました。もっとレッスンして自信がついたら公にします(笑)。
日本に戻ってからは、プロレス時代を知っている世代の方、クイズ番組の回答者やタレントとしての活動で私を思い出してくれる方、私のことをまったく知らない若い世代の方など、いろいろな方と一緒に仕事をさせていただいています。すべてが新鮮で楽しいです。
アメリカで生活をしていたときは、私が日本で何をしていたか誰も知らないわけですから、今でも連絡を取り合う外国人の友達からは「あなた絶対にエンターテイナーになりなさいよ。きっといいと思うわ!」とよく勧められます。「人前に出るなんて私にはムリよ」と答えていますけど(笑)。
久しぶりの芸能界で自然体でいられるのは、やっぱり「好き」だからでしょうね。今、そんな世界に戻って来られたことが、ありがたくてうれしくて仕方ないです。
(都内マンションの一室にて取材)
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