Ms Wendy

2013年11月掲載

いつでも笑顔を絶やさず、努力を忘れない自分でありたい

松島 トモ子 さん/俳優

松島 トモ子 さん/俳優
1945年、旧満州奉天で生まれる。生後10カ月のとき、栄養失調になりながら母に抱かれ引き揚げ。4歳で映画『獅子の罠』で映画デビュー。その後、『鞍馬天狗』や『丹下左膳』などで名子役として活躍。また、雑誌『少女』の表紙モデルに。以後10年にわたり表紙を飾る。1964年、ニューヨークに留学。1967年に帰国。1986年、アフリカ取材中、ライオンとヒョウに襲われる。1998年、車いすダンスを始める。同年世界選手権で優勝。著書に『母と娘の旅路』(文藝春秋)、『ホームレスさんこんにちは』(めるくまーる)など。
これで生きて帰れる!引き揚げ船を見つけた母の喜び

私は終戦の年に生まれ、10カ月ぐらいのとき、母に抱かれて満州から日本に引き揚げてきました。

当時のつらい話は母もしませんし、私も聞きませんでしたが、戦後40年以上もたって話してくれたのは、引き揚げ船の思い出です。父を兵隊にとられ、奉天で避難生活を送っていた母たちが無蓋貨車で港までたどり着き、引き揚げ船を見たときは、地獄に仏を見たように、「これで生きて帰れる!」と、たいそううれしかったようです。

でも、栄養状態が良くありませんから、乳飲み子は亡くなることも多かったとか。おんぶしていると顔が見えなくて、いつ死んでいるか分からないので、母はカンガルーみたいにお腹にポケットを作って私を入れ、船の中ではずっと子守唄を歌ってくれたそうです。

『小さな豆バレリーナ』がデビューのきっかけ

3歳のとき、日比谷公会堂で初舞台を踏んだ姿がニュース映画の『小さな豆バレリーナ』というタイトルで上映されたのが、デビューのきっかけ。

当時、現代舞踏の創始者といわれる石井漠先生のところでモダンバレエを習っていたんですが、その映像を時代劇の大スター、阪東妻三郎さんと映画の監督さんがたまたまご覧になり、「この子を『獅子の罠』の事件のカギを握る少女で使いたい」と思われたのだそうです。

その後、80本もの映画に主演し、民放テレビが開局してからはドラマもあり、また、歌手としてレコードも出し、雑誌『少女』の表紙を飾るなど、忙しい毎日でした。

しつけは祖母の役目

一番大変だったのは、学校との両立です。早退や遅刻はしょっちゅう。仕事が本当に忙しく、家庭教師が家に住んでいるような状態でした。それでも、学校を休みたいとか、さぼりたいという気持ちは不思議と起きなかったですね。

それというのも、うちは祖母が厳しかったから。母は私につきっきりでしたし、父がおりませんでしたから、祖母は自分がしっかりしないといけないと思ったのでしょう。「成績が下がったらお仕事はやめなさい」と言われて、大好きなお芝居や踊りを続けたかったので学校を休まぬよう、頑張りました。

母に言わせれば、娘である母を孫に一人占めされて、焼きもちを焼いて、怒っていたというのですが(笑)。今、思い出しても、小さいころ、祖母には叱られた記憶しかありません。

初めての一人暮らしニューヨークへ留学

大好きなお仕事でしたが、もともと自分で選んだ道ではなかったですし、四歳からずっと、家と学校と仕事場を三角形にグルグル回るだけの生活を一回やめてみたいという思いがありました。

そのとき通っていた高校が、すごく英語に力を入れていて、ちょうどカナダから帰国した先生がいらしたんです。その美しい英語に魅了され、本格的に勉強したいと思うようになりました。

それにはアメリカに行くのが一番いいと。あとは、強制的にピリオドを打たないと、いいお仕事がきたら、日本にいるとやっぱりやってしまうと思いましたし(笑)。日本の大学の英文科に進むつもりでしたが、行き先を変えることにしたんです。

とはいえ、当時は、今のように簡単に留学できる時代ではありません。猛烈に勉強し、試験に合格して学生ビザを取得し、ようやく夢のアメリカ留学を果たしました。

私が行ったのは、ニューヨークのザ・マスターズスクールといって、良家の子女を育てるため、寄宿舎生活で、制服もある、およそアメリカとは思えない英国式の学校。私は、100年の歴史で初めての有色人種でした。

でも、当の本人はそんなことはまったく気にせず、期待に胸をふくらませて日本を発ちました。毎日が必死で、半年ぐらいはホームシックになる暇もなかったですね。

羽田空港が大騒ぎに!芸能活動再開の舞台裏

卒業後は、モダンダンスの神様と呼ばれたマーサ・グラハムのもとで学び、スカラシップをとって、クラスの生徒を教えていたんです。そのときは、日本の芸能界に戻る気もありませんでした。

ところが、私の留学に大賛成だった祖母が、急に「とにかく一度帰っていらっしゃい」と。一時帰国のつもりで、マーサのところに席を置いたまま帰ってきました。

そうしたら、私が帰ってきたということで、空港に着いたら大騒ぎになっていて、こちらの方がびっくりしました。その上、帰国後1カ月もたたないうちに、祖母が突然亡くなったんです。ニューヨークに帰ろうにも帰れなくなり、2年数カ月ぶりに、日本での芸能活動を再開しました。

アメリカで学び変化した心

ただ、頭の中はすっかりアメリカナイズされていて、外国で2年以上1人でやってきて、自分は何でもできるような気持ちになっていたんですね。

仕事のオファーはたくさんありましたが、成長した自分を求めてくれるのではなく、どれも「元のかわいいトモ子チャン」を望んでいらっしゃるように思えて。それでも喜んでお引き受けすれば良かったんですが、頭が生意気になっていましたから、反発してしまったんです。

年齢的にも転換期を迎え、悩みもしました。劇団四季の研究生になったこともあります。

でも、自分でもどこへ向かえばいいのか分からないまま、あちこちぶつかるうちに、海外のレポーターというお仕事に巡り合った。そこでようやく、また仕事が楽しめるようになりました。まだまだ海外へ行って英語でレポートする人はいなかったので、そっちに魅力を感じました。

ケニアで起こった事件20年以上引きずった

海外レポートで思い出に残るのは、皆さんもよくご存じのアフリカ・ケニアでの事故です。

あれは、『野生のエルザ』の主人公、ジョージ・アダムソンの日常に密着するドキュメンタリー番組で、私はインタビュアーとして参加していました。

そこでライオンとヒョウに襲われたんです。特にヒョウに首を噛みつかれたケガがひどく、第四頸椎粉砕骨折で、あと一ミリ場所がずれていたら、死ぬか、全身麻痺という状態でした。幸い命は無事でしたが、その後、日本で長い入院生活を送ることになりました。

そのとき、私の事故を笑いのネタにして、テレビで面白おかしく語る人がたくさんいたと後から聞かされ、とても笑うことはできませんでした。

復帰にも時間がかかり、復帰後も、その話題は自分の中ではタブーでした。笑って話せるようになったのは、事故から20年以上たってからじゃないかしら。

あれからもアフリカにも何度も取材で訪れています。当時のニュースはあちらでも珍しかったらしく、私の顔と名前を知っている人もいますね。

車いすダンスにワクワク!

1998年に、今も力を入れている車いすダンスに出合いました。社交ダンスを基本に、障害者と健常者がペアになり、技術と美しさを競い合う素晴らしい競技です。

その年に初めて日本で世界選手権が行われることになり、司会を務めることになったんですが、車いすの青年から「僕のダンスのパートナーになり、世界選手権に挑戦してくれませんか?」という手紙を受け取りました。

そこから、猛烈な特訓を受け、世界選手権出場まで、こぎ着けました。そして、見事世界選手権の新人部門で優勝しました。

車いすダンスをパラリンピックに!

車いすダンスをやる若者は中途障害者が多いんです。私の最初のパートナーも22歳のとき、オートバイ事故で下半身不随になり、車いすになってしまった。だから、今の自分をなかなか受け入れられなくて、もしかすると治るんじゃないかって希望がどこかにあるんですね。

夢に出てくる自分も昔通り普通に歩いているそうです。でも、車いすダンスで優勝して、初めて、車いすに乗っている自分が夢に出てきたんですって。「やっと今の自分を受け入れることができました」と言われたときは、本当にうれしかったなあ。車いすダンスの魅力をあらためて感じることにもなりました。

今は広報担当として、7年後の東京パラリンピックの正式種目にするため、活動しています。

実は、つい先日、私のコンサートに永六輔さんがゲストで出演されたのですが、永さんも今、骨折がもとで車いすを使ってらして、一緒に車いすダンスを踊ってくださったんですよ。そうしたらすごく楽しかったみたいで、「僕も協力するよ!」とおっしゃってくださって。強力な助っ人を得て、ますます熱が入りそうです。

健康&美容の秘訣は好奇心と体重維持

ここ数年、その永六輔さんのラジオ番組に月に一度出演させていただき、気になる人やコトを取材して、スタジオで永さんにレポートしています。

「親活」(おやかつ‥晩婚が進み、子の結婚を心配する親同士が子どもの代わりに婚活する場)や「涙活」(るいかつ‥見知らぬ人が集まって、意識的に涙を流し、心のデトックスを行うイベント)を取材しに行ったり、全国のお元気な90代を探して会いに行ったり。いつまでも好奇心が尽きないのが私の元気のもとでしょうか。

あとは体重を増やさないように心掛けています。アフリカの事故で、首を骨折したとき、医師から、「あなたのような人は、将来、絶対に腰に負担がかかるから、年を取らない=今の体型を維持することが大切だよ」と言われて、朝は果物とチーズ、夜は野菜とお肉をバランスよく、昼食・間食・炭水化物は抜きの食事をずっと続けています。

おかげで腰痛知らず。体重も40キロをキープしていますが、体型が変わってはいけないので、いつでも姿勢良く、家でもガードルを外しません。自宅の稽古場で1日1時間以上のトレーニングもしています。

コンサートでマーメイドドレスを着ることがありますが、パッと横を向いたとき、私の真っすぐなお腹を見て、客席から「おぉっ!」と歓声が上がるとやっぱりうれしい(笑)。いつでも笑顔を絶やさず、努力を忘れない自分でありたいですね。

(東京のご自宅にて取材)

  • ハリウッドでジェームズ・スチュワートと

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  • 鞍馬天狗の杉作役

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  • 大東学園高等部のころ

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  • ザ・マスターズスクール卒業式

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  • 『野生のエルザ』の主人公 ジョージ・アダムソン

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  • 最初のパートナーと世界選手権

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  • 松島 トモ子 さん

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