Ms Wendy

2013年8月掲載

現場に行かなければ命は助けられない。だから、リスクがあっても行くのです

黒崎 伸子さん/外科医・国境なき医師団日本 会長

黒崎 伸子さん/外科医・国境なき医師団日本 会長
1957年、長崎県生まれ。長崎大学医学部卒業。長崎大学病院第1外科講師、健康保険諫早総合病院、長崎医療センター小児外科医長、長崎病院外科医長などを経て、現在は黒崎医院および市立大村市民病院で勤務。2001年より国境なき医師団(MSF)に参加し、スリランカ、リベリア、ソマリア、シリアなど、計11回の派遣で、外科医として活動に従事。2010年3月よりMSF日本会長。※MSFは、1971年にフランスで設立された国際的な医療・人道援助を行う非営利団体。
長崎と福岡を結ぶ電車の中が、唯一の家族旅行だった

私は長崎県の小さな町で生まれました。父は診療所の雇われ医師、母は看護師兼栄養士・調理人。ですから、よくある「病院のお嬢さま」ではなく、私も弟も、物心ついたときから入院患者さんの食事の支度を手伝ったり、カルテを出したり、薬の分包をしたり。家族全員で仕事をするのが当たり前のような毎日でした。

そのせいかどうか分かりませんが、家の中にいるほうが好きで、外へはあまり遊びに行かない子どもでしたね。

家族で出かけた記憶もほとんどありません。日曜日の午後だけが休診で、たまの外食が楽しみでしたが、患者さんが来て取りやめになることもしょっちゅうでした。数少ない家族との思い出は、クラシック好きな父が3年に一度くらい福岡へ音楽会に行くというとき、みんなで福岡まで出かけた電車の中です。着いてしまえば子どもたちはどこかに預けられ、両親だけが音楽会に行くのですが、その行き帰りが家族旅行みたいで楽しかったのを覚えています。

医者の仕事は「全部診る」こと

どんなに忙しくても、病気で苦しむ人たちを助けることに誇りを持っている両親を見て、小学生のころから将来は医者になろうと思っていました。

特に地域の医師は、病気を治すだけが仕事ではありません。患者さんや家族の悩み相談も含めて、「全部診る」ことにやりがいがあると、子ども心に感じていたんです。

でも今は、医者というのは、どこで働いていても「全部診る」つもりがないといけないと思っています。私の専門は小児外科ですので、生まれる前の赤ちゃんに奇形が見つかることもあります。そのとき、どうやって準備していくか、障がい児が生まれた場合にどうやってお母さんを助けていくか、そのために離婚してしまったお母さんをどうやってサポートしていくか…。子どもたちのためにどこまでも一生懸命やれることにも、やりがいを感じています。

将来を決めた母の一言

しかし、「医者になろう」という決心が一度だけ揺らいだことがあります。

アポロ11号の月面着陸のニュースが流れたとき、まだ中学生でしたが、同時通訳という仕事が存在することを知り、英語で身を立てたいと真剣に憧れた時期がありました。

ところが母から、「英語はこれから常識になっていく。英語だけを勉強しても仕事にはならないよ。それより手に職をつけなさい。まだまだ女が一人前と認められるには、特別な技術を持たなくてはいけない」と言われて、やはり医学部の道を目指そうと思い直したんです。母にすれば、そばで働く女医さんですら差別にあっているのを見ていたので、娘には良い選択をしてほしいと考えたのでしょう。あのとき医学の道を諦めなくて良かったと思います。

学生時代の部活動で体育会系の熱い気持ちが目覚めた

高校ではハンドボール部、大学では軟式テニス部に6年間所属していました。まっ黒でした(笑)。

当時の医学部は、今と違って女子学生がほとんどいません。テニス部も男子部員は50人ぐらいいるのに、女子部員は10人ほど。そうすると、コートも自由に使えないんですよ。外のテニスコートを借りたり、朝練でコートを使うしかなかった。あとは、男子の練習が終わるころを見計らって行き、サーブ・レシーブを一緒にやってもらうんです。それが悔しくて、男子の成績より上を目指そうと必死になって練習しました。テニスウエアの上に白衣を着て、授業が終わったらすぐに駆け出していましたね(笑)。

幼いころは家の中にばかりいましたが、スポーツを始めたおかげで、もともとあった負けず嫌い、女だからって差別されたくないという気持ちが表に出てきたんだと思います。それからは、やりたいことに何でも挑戦するようになりました。

助けた患者さんが自分より長生きするのが小児外科医のやりがい

卒業後の研修は東京女子医大で受けました。そのまま長崎大に残っても良かったのですが、当時は外科に女医さんがやっと一人入った時代で、はれものに触るような扱いを受けていたんです。これは私が行っても何もさせてもらえないぞと(笑)。

でも、それがかえって良かったんです。女子医大は日本中から研修医が集まってくるので、誰が最初に注射をさせてもらえるか、一番に手術で縫合をさせてもらえるのは誰か、そのために朝早くから出勤したり、夜の当直を申し出たり、ひたすら自分の存在をアピールしていました。良い意味で競争がありましたね。

2年の研修が終わり、長崎大に戻って小児外科に行くことに決めた理由は、一般外科に比べて症例が多くなく、手を挙げる人が少ない分、女医でも活躍するチャンスがたくさんあると思ったからですが、後で実感したのは、助けた患者さんが自分より長生きすること。

命を救った患者さんが大人になって、結婚したり、子どもを産んだりするのを見るたび、長い目で見てもやりがいのある分野だなあと思います。

医者になって20年目に「国境なき医師団」へ

2001年から、国境なき医師団(MSF)の外科医として紛争地域などで医療活動をしてきました。

参加を決めたのは医者になって20年目、43歳の時です。当時、小児外科のチーフでしたが、診療の他に教育、論文、会議の出席など、患者さんと向き合う時間が減り、医師としての信条と違う毎日に悶々としていました。そのとき、たまたまMSFの医師募集の告知を見たんです。

白黒の小さい張り紙で、「あなたを待っている人たちがいます」と。よく見つけたなあと思うくらい地味だった(笑)。でも、無意識に自分の居場所を別のところに求めていたんでしょうね。「今、行かなければ!」と、募集に飛び付きました。

その場で電話して、翌日には履歴書を送り、数日後には面接を受けていました。2カ月後にはスリランカに派遣されることが決まりました。

決まった後に、大学には残ることができないと言われてあっさり退職(国立大学が独立行政法人化する前だったため、NGO活動のための休職が認められていなかった)。本当は、帰国後、大学に戻るつもりでしたが、結局、職場には私の派遣中に後任が入り、戻れなくなりました。日本には自分が辞めても代わりの人がいくらでもいるということが身に染みて分かりましたね。

紛争地域での医療は時間との闘い

最初に派遣されたスリランカは大きな病院でしたが、1983年以来続いている内戦で外科医がいなくなったため、MSFが外科手術を担当することになりました。運ばれてくる患者さんはみな重傷ですが、地雷を踏んだ、銃で撃たれた、骨が折れた…といった外傷に対する治療法は先進国での選択とは異なります。

問題は時間がないことです。使える手術室と時間が限られていて、いかに効率的に多くの手術を行うか。しかも、スリランカ人の麻酔医は、国がこういう事態であってもお昼の12時になると、ピタッと終わって帰ってしまうんです。午後担当の人が来るまで次の手術はできないという中で、1日に何件の手術ができるかが一番悩ましかった。

また、スリランカの場合は、外科医不在のため、必ずしも負傷者だけでなく、鼠径ヘルニア(脱腸)や静脈瘤の手術もしました。

しかし、それもやりだすときりがありません。「緊急の症例を診るのが私たちの使命なのだから、やる必要はない」「いや、ベッドが空いているならやればいいじゃないか」とチーム内でも意見が分かれます。ただ、価値観の違う各国の医療人たちが集まる現場で、議論しながら目的を果たしていくことは、自分の成長にもつながり、非常に勉強になりました。

派遣医師が誘拐のターゲットにされることもある

私自身が直接身の危険を感じたことはありませんが、5年前、ソマリアに派遣されたとき、すぐ近くにいた別のNGOの職員が誘拐されるという事件がありました。

そのときは、いろいろな判断からわれわれも退去しようということになり、現地の病院関係者にも知られないよう、密かに国外に出ましたが、空港までは何もない砂漠地帯。襲われたらそこで終わりです。そのときばかりはさすがに怖かったですね。

武力紛争では、敵対する側を助ける人々を攻撃することで、世間の注目を浴びること、自分たちの戦いをもっと有利にすることが目的となり、女性や子どもも容赦なく攻撃されます。実際に、病院に運ばれてくる6割は一般の人たちです。

しかし、せっかく助けた命も、紛争が長引けば、またすぐ危険にさらされます。飢饉があれば飢えて死んでしまう子どもたちがいるかもしれない。そう思うと虚しさがないわけではありません。それでも、私たちのような医師たちが行かない限り、命を救うことはできません。だからこそリスクがあっても行くんだという気持ちは強いです。

みなさんにも世界で今も起きている命の危機について知っていただき、できれば寄付という形で支援していただけるとありがたく思います。

自分のような変人を増やしたい

現在は会長職ですが、長崎に自分の診療所もあり、海外の会議に出ることも多いので、かえって忙しいくらいです。

それから、働く女性の地位向上や環境改善を目指す活動もやっていますし、友人たちと飲みに行くことも多い。全て好きでやっているので忙しいとは思いませんが、子どものころと違うのは、家にいると罪悪感があること(笑)。常に何かやらなきゃと思う自分がいます。

本当は映画館で映画を見るのが好きなんですが、映画鑑賞はもっぱら飛行機の中。趣味のスキューバダイビングも5~6年やっていないので、この役職から放たれたら、すぐにでも潜りに行きたいですね。

でも、会長でいる間は、自分のような変人をどんどん海外に派遣したい(笑)。日本の社会で暮らしていると、同じ価値観を求める傾向がありますが、まったく違う価値観を持つ人たちの中で、「弱い立場の人に寄り添いながら自分を変えていく」体験を持つ人が増えるほど、偏見や差別がなくなり、もっと心地良く暮らせる世の中になるのではないでしょうか。

(国境なき医師団日本事務局にて取材)

  • 4歳のころ。弟(2歳)と

    4歳のころ。弟(2歳)と

  • Doctors's bagを持って(4歳ぐらい)

    Doctors's bagを持って(4歳ぐらい)

  • 高校生のころ

    高校生のころ

  • 小児病院時代(32歳ごろ)。右端が黒崎さん

    小児病院時代(32歳ごろ)。右端が黒崎さん

  • 術前患者と スリランカにて 2007年

    術前患者と スリランカにて 2007年

  • 黒崎 伸子さん

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