Ms Wendy

2013年1月掲載

沖縄の言葉で歌い続けるこだわりが、自分のベストの表現を生む

上原 知子さん/ボーカリスト

上原 知子さん/ボーカリスト
1958年、沖縄県糸満市生まれ。沖縄民謡のファミリーバンド・糸満ヤカラーズのメンバーとして6歳でデビュー。1988年に脱退、沖縄を代表するポップバンド・りんけんバンドに加入。リーダーの照屋林賢は夫。りんけんバンドのメーンボーカルとして活躍。稀代の歌姫として世界的にも評価は高い。1997年ソロデビュー。2009年には伝統的沖縄民謡を収録した5枚目のソロアルバム『多幸山』をリリース。
沖縄の歌がパリに響いた2度目のフランスライブ

9月にフランスでソロのライブを行いました。フランスは2度目で、前回はりんけんバンドでブルージュの音楽祭に参加したんですが、今度は初のパリ。11区にある「ル・ゼーブル」というライブハウスでのライブでした。ここは、移民の方やまだ芽の出ていない芸術家が多く住むところなんですが、そんな地元の方がたくさん来てくださいました。

私はフランス語が全然できないから、沖縄の歌を沖縄の言葉で淡々と歌いました。お客さまは、どんな言葉で歌っているかも分かりませんよね。でも、「この歌の言葉は、もうなくなってしまうことがユネスコで認定されている、絶滅する言葉なんです。私は、その言葉を歌にして、歌っています」と伝えました。私が沖縄の民族の歌を“声”に出して歌うことで、言葉はなくなってしまっても歌に残るでしょう。歌に残すというのが、私の仕事かなあと思うんですよ。フランスのお客さまたちも、言葉は分からなくても、しっかり最後まで聞いてくれました。

私は、その土地に伝わる歌は、その土地のルーツといえる言葉で聞きたいと思っています。アフリカに行ったらアフリカの言葉で、ハワイに行ったら英語ではなくハワイの言葉で、というように。それが本物のそこの音楽だと思うんです。皆さんもそう思って来てくださったんでしょうね。

沖縄の言葉で歌い続けるこだわり

りんけんバンドでは、曲の作り手である照屋林賢さんのこだわりで、沖縄の言葉でしか歌いません。日本語の歌は1曲もありません。歌い手であり表現者である私がベストの表現ができるのは、沖縄の言葉ですから。

フランスでもそうでしたが、沖縄以外の土地で演奏すると、お客さまは言葉が分からなくても一生懸命聞いてくださる。でも、言葉が分からないとストレスがたまるんですよ。聞いている方にストレスをためさせちゃいけないなあ、と思うわけです。だからりんけんバンドでは、見て楽しめるエンターテインメントの要素をたくさん盛り込む努力をしています。踊りや太鼓、その他さまざまなパフォーマンスも楽しんでもらいたい。

ファミリーバンド(糸満ヤカラーズ)で6歳のときにデビュー

私は糸満という漁師町で生まれて育ちました。父はそこで理容店を営んでいました。腕も良くて、糸満でも評判の理容店だったんですよ。祖父も理容師をしながら古典音楽をやっていて、父はそれを受け継いだわけです。ずっと音楽に触れて育ちましたから、職業として理容店を営みながらも、音楽が父の中で大きな位置を占めていったんでしょうね。民謡研究所で生徒さんたちにお稽古をつけるという二足のわらじを履いていたんですが、どうしても、音楽のほうに心は傾いていき、家業のほうはおろそかになっていったと(笑)。

そうしているうちに村のお祝いのときなどに演奏してくれないかとお呼びがかかり、子どもたちが育ってきたとき、ファミリーグループができないかと考えたんですね。私が6歳のときに、とうとう理容店はたたみ、音楽一本でいこうと。収入の道が途絶えるんですから、勇気がいったと思います。

沖縄の人はお祝いが好きで、人生の節目節目のとき、たとえば満1歳では「タンカーユーエー(1歳のお祝い)」というお祝いをします。それから女の子なら13歳の「13ユーエー(13歳のお祝い)」、さらに古希、米寿などなど。当時はそうした節目に隣近所300~500名ほどのお客さまを呼んで公民館でお祝いをするんですよ。そんな催しが沖縄中で頻繁にあるんです。そうしたときに、私たちみたいにお祝いの席を「おめでとうございます~!」と歌って踊って、にぎやかに盛り上げる人が必要なんです。そういう需要があったんですね。そんな宴席にあちこちから呼ばれて、沖縄中を駆け回りました。当時、私たちのほかにもファミリーでやっている民謡グループがたくさんありましたよ。

学校が終わるとステージに駆けつける小学生でした

デビューした当時は小学生でしたから、学校に通いながら、終わると走って家に帰り、自分でお化粧をして髪も結い、会場に駆けつけるんです。土日となったらダブル・トリプルで大忙しの小学生でした(笑)。

友達と遊ぶことができないばかりか、修学旅行などの行事にも参加できない。その年ごろの子は友達から学ぶこともいっぱいあると思うんですが、私はどっぷり大人の世界に浸かっていたので、かわいげのない子どもでした(笑)。でも、それはこの家に生まれた宿命として受け入れるしかなかった。私が歌わないと、うちの経済は成り立たないわけですから。どんなに風邪を引いていても、声が出なくても。

一度陸上競技大会があり、転んで手を怪我してしまったんです。でもその日も仕事があった。怪我した手で三線を弾くしかないわけです。治るまでずっとその状態でした。受験の前の日もラジオの生放送で歌ってました(笑)。「この人、明日受験なのよ」と放送中に暴露されて。落ちたら大変だ、とすごいプレッシャーでした。何とか合格しましたけど。

林賢さんとの運命の出会い

あるとき、知り合いのステージを観に行ったら、向かいのスタジオで林賢さんという人が新しい音を作っていると聞いて、興味を持ったんです。すると彼がやってきて、「僕の音楽聞いてみる?」と。今まで民謡の世界で、歌と三線と太鼓の音楽しか知らなかった私には衝撃的でした。コンピューターを使った音を沖縄のメロディーに乗せて不思議な音を作ってたんです。こんな音聞いたことない!と驚きましたね。さらにカセットを渡されて「これ僕が作った音楽だけど聞いてみる?」そして「歌えるんだったら歌ってみる?」と。私にとっては未知の世界でしたけど、「いい歌だな、歌ってみたいな」と無性にトライしてみたくなったんです。

でも、糸満ヤカラーズは家業でしたから、家族の収入をなくすわけにはいかない。私は真ん中で歌っていたので「はい、さようなら」というわけにはいかず…。りんけんバンドに入団するまでに7~8年かかりましたね。私が30歳になったときに、やっと親もいいんじゃないかと。入団と同時に結婚ということになるんですが(笑)。

糸満ヤカラーズからりんけんバンドへ

あるとき、糸満ヤカラーズのステージを観に来た林賢さんが「すごいね。エンターテインメントをしてるねー」と言ったんです。ただ弾いて歌うだけじゃなくて、太鼓も叩けば古武術の踊りもあり、鎌も回すし(笑)。何でもありのエンターテインメント集団だと。1曲踊ると楽屋に戻ってパーッと衣装チェンジして。そんなことにも驚いたようです。林賢さんもりんけんバンドの構想がずっとあって、そのとき「こいつを入れたらおもしろくなるかもなー」と思ったのかもしれませんね。

幼いときから歌い続けた沖縄民謡を記録したソロアルバム

6歳から歌ってきて18、19、20歳ごろになると、子どものころのように「かわいいね~」では許されなくなってきました。それなりの歌唱力をつけていかないと、世間さまには通用しなくなってきたんですね。沖縄民謡の歌手は層が厚いですから、私なんかは下手のうちで。周りからは「歌はあんまり上手じゃないよね~。大人の歌はあんまり歌えないね」とか「情を入れる歌はまだまだだね」と言われました。それがトラウマになって、「まあいいや、歌が下手ならエンターテインメントがあるわ」と、空手や古武術の舞でお客さまを楽しませることに徹するようになりました。でも、父は「下手ではない」と言ってくれました。私のことを信じてくれて、“上手”とも言いませんでしたが(笑)、包み込むように、「大丈夫、歌えてるよ」と。

父が亡くなったとき、それまで父が使っていた三線を母がくれたんです。りんけんバンドでは私が三線を弾くことはないですから、それまではあまり必要ではなかったんです。でも、もらってから弾いていたら、何十年ぶりなのにどんどん音が出てきて弾けるんです。それで、林賢さんに「あら不思議ね~、私弾けるんだけど」と言って聞かせたら、「いいね、これあなたの老後のために記録しておこう」と(笑)。それで録ったのが5枚目のソロアルバム『多幸山』となりました。全曲、沖縄の古くから伝わる民謡です。三線も太鼓も全て私が演奏しています。私の原点である沖縄民謡のアルバムということで、ジャケットも子どものときの写真を使いました。

父は私が三線を弾かなくなったのが残念だったみたいで、生きているときから「三線だけは大切にしなさいね。忘れないでね」とずっと言われてきました。でも、私はりんけんバンドで忙しくってそれどころではなくて、練習もしていなかった。「いつか役に立つよ~」と言われていたのが「ああ、このことか」と分かりましたね。CDができてすぐ父のお仏壇に供えました。

毎日歌い続けることがトレーニング

私は特別なボイストレーニングなどはしていません。とにかく毎日声を出すこと。それに尽きます。マラソンと同じで1日歌わないとその分後戻りしてしまう。スタジオの隅とかで三線を弾きながら毎日歌うことが私のトレーニングです。

小さいときから楽譜は使わず、自然に三線で音合わせをしていました。父は「楽譜を見なさい」とは教えなくて、「指を見なさい。聞きなさい」と言うんです。だから音を聞くと、自然に指が動くんですよ。三線を弾きながら「この音?この音?」と探って。今はとても便利ですよ。りんけんバンドではおたまじゃくしの楽譜なんですが、私はほとんど読めませんから、いただいた音を三線でなぞって練習します。

林賢さんとの関係は夫婦というより戦友

林賢さんは作り手であり、私は表現者です。彼がものを造る、生み出していくものを私はうまく表現しなければならない。だから夫婦というより同志というほうが近いですね。お互い夢を追いかけていっている“戦友”みたいなもんかな。「うちの主人が」「うちの家内が」なんて一切言いません。彼のことを「あなた」なんて呼びませんよ(笑)。どんなときでも「林賢さん」と。けんかをするときも、その原因はたいてい音楽のことですね。たとえば、彼がステージで間違えたときなどに、「しっかり弾いて!」って(笑)。

9年ぶりのオリジナルアルバムでは進化を遂げた

かなり久しぶりにオリジナルアルバム『黄金三星(くがにみちぶし)』を出しました。ソロやベスト盤は出していましたが、りんけんバンドとしてのオリジナル・フルアルバムはなんと9年ぶりなんですね。メンバーもまだかまだかと待ちわびてやっとできたアルバムです。曲ができてきて初めて聞いたときの感想は「林賢さん、進化しましたねえ」と(笑)。今までの林賢節に流されるのではなく、新しい何かを開拓しようとしているなと感じましたね。沖縄のメロディーなんだけど、おしゃれになっていて。歌うのは大変でしたけど(笑)。その挑戦を受けてたとうじゃないかと。それが表現者としての私の挑戦ですね。

(アジマァ事務所にて取材)

  • 5歳(幼稚園)のころ。地元糸満市の村祭り

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  • 小学2年生、糸満町長当選祝賀会のステージ(写真右から2番目)

    小学2年生、糸満町長当選祝賀会のステージ(写真右から2番目)

  • 小学5年生(写真左。右は妹)

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  • 高校生のころ、糸満ヤカラーズハワイ公演(写真左から2番目)

    高校生のころ、糸満ヤカラーズハワイ公演(写真左から2番目)

  • 高校生のころ、97歳(カジマヤー)祝いのステージ(写真右から3番目)

    高校生のころ、97歳(カジマヤー)祝いのステージ(写真右から3番目)

  • 上原 知子さん

(無断転載禁ず)

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