Ms Wendy

2012年12月掲載

ジャズは「老いを楽しめる」世界。そこに身を置けることの幸せを感じます

綾戸 智恵さん/ジャズシンガー

綾戸 智恵さん/ジャズシンガー
1957年、大阪府生まれ。3歳でクラシック・ピアノを始め、教会ではゴスぺルを歌い、中学に入るとナイト・クラブでピアノを弾くようになる。17歳で単身渡米。91年帰国後は、数々の職業を経験しながら、大阪のジャズ・クラブで歌い始めた。98年に発売されたCD『For All We Know』でデビュー、綾戸智恵の真価が100%発揮された弾き語りで制作された3枚目のCD『Life』は99年春発売と同時に大ヒット。2012年初夏からはデビュー15周年コンサート“Wonderful World”と銘打ったコンサートで、発売中のアルバム『Wonderful World』を引っさげて、全国の会場に感動と笑いの涙を届ける。
子ども時代に見ていたテレビは政治番組の「時事放談」

私は両親からまったく子ども扱いされずに育ちました。大人と同じものを見せ、同じものを食べさせてくれた。テレビも、3~4歳のころから政治対談番組の「時事放談」を、早朝から親と一緒に見ていました。母の解説付きだったから、面白く見られていましたよ。

子どもだからとごまかしたり、明らかに自分がうそだと感じることは絶対に言わない母でした。戦隊ショーを見に行ったときも、「あれは中に普通の人間が入ってるんや。見てみい、背中にチャックついてるやろ」とか、「勝新と若山富三郎が仲悪くしてるのは、座頭市の芝居があるからそう見せてるだけで、本当は仲はいいんやで」。こんな具合。

物事には裏と表があることを教えてくれた。だから、友達の裏と表を見るのが大好きでした(笑)。私をいじめる男の子に、「ほんまは私のこと好きなんでしょ」って言ったら、青くなってた(笑)。といっても一人だけ大人ぶってたわけじゃない。同級生とは臨機応変の対応で(笑)、ちゃんと子どもらしく遊んだし、クラスの人気者で学校でも楽しく過ごしてました。

私の両親は歳の差30歳で、2人ともジャズが大好き。家でかかる曲はジャズがメーンだったけれど、演歌も好きでよく聴いていました。バーブ佐竹や殿さまキングス、美空ひばり。とにかくうちの基準にかなった「いいもの」が好き。食べ物も、どこそこの有名な、っていうんじゃなく、食べて素直においしいと感じたものが一番いいもの。そんな家でした。

私は父が60歳のときに生まれた子どもで、12~3歳のときに老衰で亡くなったから、父の思い出はあまりないんです。末期、母には病室に見舞いに行くなと言われてた。「男は女と違い、死に際を見せたくないもの、男はええかっこしいやから、あまり追いなさんな」と。

高価なものと安物が混在するバランスの悪い家

幼稚園の時に楽器を始めました。ピアノを買ってくれたんですが、よその家の3倍の値段がする立派なピアノ。母が馬好きという理由で、馬も飼っていましたよ。それだけ聞くと、どれだけいい家なのかと思われそうだけど、ものすごく高価なのはそれくらいで、あとは安いもんばっかり(笑)。自家用車も自転車も持ってない家で、バランスが悪いんですよ。独特の価値観を持った、世間の基準に流されない家だから、よその家みたいに同じレベルでそろえるんじゃない。本当に好きなものだけあればいいし、好きなものはいいものがいい、いいもの買った方が人生にプラスになるから、と。

小さい子どもにも「おもちゃは夜には動き回らへんよ」と、正直なことしか言わない母。でも「サンタクロースはいないけど、心にサンタクロースはいるのかもしれないね」なんて、夢があるロマンチックなことを言う。

母は、物の価値観を教えてくれる人、心の値段を付けてくれる人です。

よその親からは聞けない言葉をたくさんもらいました。自分の親よりえらい親は見たことない。最高の親に育ててもらったと思います。

外国人に憧れて高校時代にアメリカに

大阪万博が開催されたのは、私が小学6年から中学1年のころ。街を歩く外国人たちを見て、自分の中に、にわかに外国人ブームが起こったんです。幼稚園がフランス系のミッションスクールで、英語は聞きなじみがあったし、すぐに覚えました。

この人たちの国に行きたい、と高校2年のときに卒業できる出席日数を先生に確認して、3カ月間渡米しました。行先はロス。ニューヨークより近くて旅費も安かったから。アルバイトで10万円貯めてそれを生活費にと。でもそれは一切使う必要がなかった。向こうであんまのバイトをやったから(笑)。

公園で、肩が凝ってしんどそうにしてるおばあちゃんを見かけて、片言の英語で、「アイアムチャイニイーズ、シアツマッサージOK、10ダラー」って言って肩もみを始めた(笑)。で、明日お友達を連れてくれば一人5ドルに安くします、と言いお客を増やして。そのうち「チエマッサージ」って有名になり、1日50ドルくらい稼いでました。

さまざまな仕事を経験し40歳でデビュー

高校卒業後にアメリカに渡りましたが、音楽の仕事をやりたいとか、音楽で食べていこうなんて意気込みはなかった。音楽は単に、自分の好きなことで、それを仕事につなげる気持ちはなかったですね。

仕事の優先順位は、いただくお金の額。半ば周囲の流れにのっかって、高い給料を基準に仕事を選んでましたね。司会やモデル、デパートで婦人服販売、料理の先生、数えきれないくらいの職業を経験しましたが、すべて、興味からじゃなくてお金の額でしたね(笑)。

結婚後子どもをもうけ、その後離婚し日本に戻ってからも、よく音楽イベントに参加していましたが、そこで今の会社の社長からデビューの誘いがあった。このときも、月にどれだけもらえるかをちゃんと確認して、じゃあやりますと(笑)。

今年デビュー15周年ですが、こんなに長い間ひとつの仕事をやったのは初めて。いろんな仕事をやっても、どれが自分のやりたいことか全然分からなかった。でもこれが私だったんだと、この仕事を通じて周囲の人に気付かせてもらいました。

それでも、音楽で身を立てようと思ったのはデビュー3年目のころ。それまでは、まだこの仕事を続けていけるのかと不安だった。7周年のときにようやく「自分には音楽しかない」と思え、そして10周年のときに、よし歌い続けようという気持ちを固めて、シンガー名を「智絵」から本名の「智恵」にスイッチしました。

今はもう、これが天職だと思ってます。それまでは、まだ違う仕事するかもな、と思いながらやってましたから。

「昨日までの仕事にプラスして次の仕事を」母の言葉を胸に刻んで

でも今でも、ステージより家事の方が大事で、ステージがある日でも「まだ洗濯が終わってないからもうちょっと待って!」なんてやってますよ。それが母との約束でしたから。母いわく「家のこと、母であることをやめて歌手をしたらあかん」。「昨日までの仕事をやめて次の仕事はあかんで。昨日までの仕事にプラスして、次の仕事をやらな」。

息子との生活は発見が多いですね。自分の未熟さも痛感しますよ。2歳のころ、動物園に一緒に行き、肩車しようとしたら、「お母さんはお父さんじゃないからやめてくれ」と。だから隣にいた子連れの男性に「すみません、この子ちょっと肩車してやってください」と頼んでやってもらいました(笑)。そこんちの子は、私のことをうらめしそうに見てましたけどね(笑)。でもそれ以降、自分は父親母親役の両方しなくてもいいんだと気が楽になった。一時期、シングルマザーと持ち上げられ、憧れられるような感じになったのが嫌でした。そのときは、好きでなったんじゃないという反抗的な気持ちでいましたが、今は憧れの対象を持ちたい彼女たちの気持ちも分かる。そうしないと自分がしんどいんです、きっと。

子どもたちには「教える」ことではなく「共有」が大切

子どもたちのために何ができるのか、そういうことも最近よく考えます。先日、母校の小学校に演奏に行く機会があったんですが、そこで見たのは、私が想像していた小学生ではなかった。私らのころは、先生がこわくて45分間じっとしていられたけれど、そこでは皆きちんと椅子に座っていられずにあちこち動くし、先生も注意しない。なんでじっとしていられないんだとすごく驚いたけど、そのうちに、あ、私は時代の流れが分かってなかったんだと気が付いたんです。

それで、何曲目かにゲゲゲの鬼太郎を弾き始めたら、その瞬間子どもたちの頭がピタッと止まり、じっと耳を傾けて終わったら拍手してくれた。

やるべきことは「教える」ことではなくて、自分が驚いたことを「共有」していくこと。未来のある子どもたちのためにできることを考え、今どう生きるべきかを教えてあげることが、今すごく大切なんだということをそのときに思いましたね。そんな「共有」する音楽をやっていきたいと思いました。これからのステージ、周りの期待にも応えたいけれど、新しいこともやっていく、それがデビュー15年目の私の決意です。

帰り際、小っちゃい子が「握手して!」って駆け寄って来てくれた。それ、めちゃめちゃうれしかったですよ。子どもたちが「今日は自分たちに合わせてくれてありがとう。だから自分たちもそれに応えます」と、子どもながらに思ったんだと思います。

いつまでも親が立派だと思うとこちらが辛くなる

5年前から、今87歳の母を介護していますが、それは決して責任感とか道徳心からじゃないんです。母は溺愛され続けの人生で、夫や私という子どもに強く愛されている。「介護させる」パワーを持った人で、母には庇護される天性の才能があると思う。あんなに落ちぶれてよれよれになっても、まだ母を越えられないと感じます。昔のように、私の目から鱗を落としてくれるすごい言葉がまだ出てきそうで、もうちょっと母を見ていたいと思う。

でも認知症の症状が最初に出たときは、そりゃもうショックでした。けれど、いつまでも親が立派だと思ってるとこちらが辛くなる、そう2年前に思ってからは、ラクになった。適当に気を緩めないとダメですね。それまでは、母の気持ちを理解しようなんて、おこがましいことを考えていました。

立派だったころの母のいい思い出があるから、もう1回おいしいもの食べさせたいなと、今優しい気持ちも持てているんだと思います。

そう思えたのも、自分の皺を自覚したからかも。自分だって歳をとってきたんだ、親がこうなってもそりゃあそうか、と。自分の身体に表れる変化がそう思わせてくれました。

魂は母に残るんじゃなくて私に残る。その魂が一番大きな遺産です。肉体は土に還るけれど、魂は空中を浮遊しないで(笑)、次の世代に残るんです。

未来を見据え今の綾戸智恵の曲もやらなきゃと思ってます

歳を取ってもやり続けられる仕事があるのは、幸せだと思います。

韓国の伝統芸能「パンソリ」の先生に、先日お会いする機会があったんですが、あの世界は、年を取って歌への理解が深まっても、声が出なかったらそれでもうダメなんです。私が「ジャズは、声がちゃんと出なくなった箇所は口ぱくで動かして、出てる風に歌うんです」と言ったら、それはトリックだと言われました。以前だったら「なにい!」って腹が立ったけど今は素直に、確かにトリックかもなと思えた。でもジャズは、そういう「風」を楽しみ、老いを楽しむことを理解してもらえるジャンル。老いたときに、それを受け入れる世界と、リタイアを強いられる世界とがある。だから、私は死ぬまで歌わなきゃと。それが、老いることを受け入れてもらえる世界にいる私が、そうではない世界にいる方々に対して尽くす、礼儀のようなものだと思っています。

40歳のデビュー時に比べると、自分は明らかに老化していますよ。それは歴然としてます。だからそこを受け入れないとあきません。ノスタルジーに浸るのもいいけれど、そこに止まっていたらダメ。今の時代にどう反映させていくか。大切なのは未来、これからです。私も、デューク・エリントンの昔の曲もやるけど、今の綾戸智恵の曲もやらんとあかんな、と思ってます。

デビュー時と今、同じ曲を聴き比べると、変わらない部分と違う部分がある。自分では分からないんです。息子に言われて気づいた。40過ぎた中年はもう変化しないと思ってたんですが、この15年間に私も変化してたんですよ(笑)。いえ、変化というより進化ですね。

ジャズは大人にならないと分からないとよく言われますが、そうじゃない。若い世代だって、「今だからできること」をやれる。だから私も、今自分が感じてる音楽を伝えていこう、と思ってます。

(渋谷区の喫茶店にて取材)

  • 1歳。母に抱かれて

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  • 2歳のころ。近所で

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  • 初めてのピアノ発表会。小学校4年生

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  • 中学の入学式

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  • 大阪のクラブで歌っていた20代のころ

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  • 綾戸 智恵さん

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