Ms Wendy

2012年10月掲載

目の前に幾つもある山、それを越えて得る合格のハンコで、人生の楽しさを知る

木の実 ナナさん/女優

木の実 ナナさん/女優
1946年、東京・向島生まれ。16歳で歌手デビュー。『ショーガール』が15年にわたるロングランとなり、ミュージカル女優としての確固たる地位を築く。舞台の代表作に『阿OKUNI国』がある。1989年ゴールデンアロー賞の大賞を受賞。映画の寅さんシリーズでは21代目マドンナで出演。また歌手としては『おまえさん』『うぬぼれワルツ』『居酒屋』が大ヒット。『キラッ!と女ざかり』(パルコ出版)、『笑顔で乗り切る』(講談社)など著書も多数。デビュー50周年の2012年最新作は、ミュージカル『女子高生チヨ』(12月1日〜9日:東京グローブ座/12月11日〜12日:サンケイホールブリーゼ※詳しくはhttp://www.duncan.co.jp/web/stage/chiyo/
いじめられっ子だった私に父がケンカの必勝法を伝授

東京・向島に生まれ育って、私で3代目の下町っ子です。父はトランペット奏者でしたが、早くから体調を悪くしていて、デビュー後の17歳からは、一家の稼ぎ手は私になったんです。だから、年が一回り離れた幼い妹は、朝出掛けて夜に帰ってくる私のことを、外に出て働いてお金を持ってくる人、つまり父親だと思っていたみたい(笑)。

小さいころはよくいじめられていました。母の趣味で、3歳からパーマをかけていたんですが、同い年の女の子は皆おかっぱで、男の子は坊主とか坊ちゃん刈り。その中では目立ったんです。髪の毛はくるくるで茶色、顔立ちもはっきりしてるし、近所の子どもたちには「合いの子」って呼ばれて。私はいじめられるがままで、抵抗もしなかった。両親に心配かけるのが嫌で、いじめられたことが知られないように、公園の水道で汚れた顔を洗い、帰宅していました。でもすぐに母に気付かれ、いじめた子の家にすごい剣幕で乗り込み、「この子は合いの子じゃありません。私の子で、父親もちゃんと日本人ですから」と。相手方はすみませんって恐縮して謝っていました。

私は、母が20歳のときに生んだ子ども。だから母もまだ若いし、ご近所では、“お姉さん”と呼ばれ慕われていた、面倒見のいい女性でした。私も周りの大人にかわいがられ、他の子たちにいじめられていると助けにきてくれたり。でもそのうち、父が「お前、負けてるばかりじゃだめだ。1回負けたら1回勝て。ケンカの仕方を教える」って、女の子なのに(笑)。「相手が攻撃してきたら、まず急いで下駄を脱ぐ。それを持って顔の前で交差、その体勢で相手に向かっていけ」と実践法を教えてくれて、その通りにやってみたら相手に勝てた(笑)。それ以降は、二度といじめられなくなりました。

付き添いで行ったオーディションで歌う羽目に

デビューのきっかけはオーディション。中学2年生のときに、歌手志望の友人が「オーディションを受けたい」と担任に相談したんです。そうしたら、中学生だからまだだめだと反対された。でも、どうしても受けたいとしょんぼりしていた姿を見て、私も放っておけなくなっちゃったの。担任がだめなら、私が校長に直談判しにいくって乗り込んだんです(笑)。そうしたら「お前が付いていくならいい」と校長に許可をもらえた。小さいころからやんちゃで、困ってる人をみるとほっとけない性質なんです。「小さな親切大きなお世話」ってよく自分で言ってるんですけどね(笑)。

渡辺プロが行ったこの第1回目のオーディションに、先生のいいつけ通り、友人の付き添いで行ったんですが、肝心の友人が緊張して歌えなくなっちゃった。代わりにあなた歌ってみたら、と言われて、コニー・フランシスの「カラーに口紅」を歌いました。

私はご近所の大人たちのアイドルで、宴会によく呼ばれて、歌わされていた。母が美空ひばりさんの歌に振り付けして、それを私が踊ったり。だから人前で歌うことには慣れていたし、オーディションでも結構気持ちよく歌えていたような気がします(笑)。それで、1次2次と審査を通っちゃった。

そのころ、進路を決めなきゃいけなかった時期で、私は進学せずに働くつもりでしたが、何をやったらいいか決めかねていたから、これは渡りに船とばかり、「私、進路が決まったよ!」って意気揚々と家族に報告。小さいころから、自分が欲しいものがあっても「自分が欲しいものは自分で稼いで買え」と言われていましたから、早くお金を稼ぎたかった。ちょうどよさそうな職場が見つかってよかった、とそんな風にごくごく軽い気持ちで飛び込んだ芸能界。それがまさか50周年を迎えるなんてね(笑)。

「着の身着のままで飛び込んでいく」芸名にはそんな意味が込められています

芸名というのは、芸能界入りするにあたってお世話になった人が付けてくれるものですが、オーディションで入ってきた私の場合は、そういう方はいなかった。だから、「芸名オーディション」なるものを受けたんです。まだ芸名が付いていない新人を集め、その芸名にイメージが合う子を選ぶんですが、ここで、「東京キカンボ娘」と「木の実ナナ」という名が付いたんです。「木の実ナナ」という名には、漢字、ひらがな、カタカナ、3種の文字が入っています。こうした芸名を持った子はいないと、この名を考えた先生が仰ったんですが、最初は変な名前もらったなあ、ってあまりうれしくなかった(笑)。

でもね、この名には別の意味合いもあって。「着の身(木の実)着のままでファンのなかに飛び込んでいく」そしてそこで「ラッキーセブン(ナナ)=幸せをつかんでいく」んですって。そのコンセプトに私がぴったりだったらしいです。確かに、着の身着のままで飛び込め、って言われたらそうできる自信がありますね(笑)。ちなみに、「東京キカンボ娘」のほうは、きかん坊とマンボをミックス、和と洋のミックスが面白いと考えられた名前だったんですって。

デビューも芸名も、おまけにデビュー後すぐに決まった歌番組の司会も、オーディションで選ばれたんです。この番組では世界中の歌を歌わされました。でも私は視力が悪くて、カンニングペーパーを出されても見えない。だから歌詞は全曲分、覚えました。若いときにはちゃんと覚えられるんですよね。この経験が後々、本当に役に立った。ショーをやるようになったときにあらためて気付いたんですが、このときの経験のおかげで知らず知らずに曲のレパートリーが広がっていたんです。いい経験をさせてもらったと思います。あのときは大変でしたけど、大変なことをしないといいものは生まれないんですよね。

「ショーガール」で共演した細川俊之さん プライベートなお付き合いは一切なし

母の影響で、子どものころからミュージカル好き。15年間続いたミュージカル「ショーガール」は、脚本、演出、音楽、出演者すべて日本人だけでオリジナルを作った初めてのミュージカル。事務所の社長が木の実ナナのために、男と女の物語を作ってみようと企画してくれたんです。でも男性役の候補がなかなか見つからなくて。歌とお芝居はできても踊りは尻込みしちゃう俳優さんが多かったんです。そんなときに細川俊之さんが、踊りは本格的にやったことはないけど、トライしてみようかなと言ってくれて。

初演が28歳のときでした。ちょうどお客さまが日本人オリジナルの舞台を待ち望んでくださっていた時期だったと思います。日本人ならではの男と女の会話もふんだんに入れて。毎年違う脚本で、2人芝居は変わらず。

細川さんとは、「おはようございます」「おつかれさまです」以外は言葉を交わさず、食事に行くこともない。舞台の上だけが恋人。だから余計に、舞台で純粋に恋心を持って演じられる。あうんの呼吸で分かり合えていたと思います。

越路さんからは「結婚しちゃダメだぞ」って(笑)

越路吹雪さんと美空ひばりさんからは多大な影響を受けました。舞台「アプローズ」でご一緒させていただいた越路さんには、公私両面でかわいがってもらいました。自分の小さいころを見ているようで危なっかしくてしょうがないと。この舞台で、私がものすごく大きな拍手をもらうと、舞台裏で越路さんが「おいなんだお前、すごい拍手だな」って喜んでくれて。

「奥様がお呼びです」と、ときどきご自宅にも呼ばれました。ご自分は結婚したくせに、私には結婚しちゃだめだぞ、って(笑)。思いやりのある、厳しくて優しい方で、憧れの人でした。この人のためだったらなんでもやるって思っていました。偉大なスターすぎて他の人たちが近寄れなかったけれど、自分は垣根なしでどんどん飛び込んでいっちゃった。

私たちのような仕事には師匠がいるわけじゃない。だから、素晴らしい才能を持った方に出会って、それを吸収していくことが、唯一の芸が上達する方法。越路さんに出会えたことは幸運でした。

越路さんは舞台袖ではいつもガタガタ震えて緊張してらした。私は越路さんのことを「お姫さま」の意で「おひい」って呼んでいたんですが、「舞台に出てください、おひい」って無理やり引っ張り出して。けれど、いざ舞台に出たら、別人のように堂々と演じてらした。私も舞台前の緊張は越路さんとまるきり同じ。今でもまだまだ怖い、緊張します。ひばりさんと越路さんの写真はいつも持ち歩いていて、守ってくださいって舞台前はお祈りします。

お客さんほど怖いものはない、慣れを感じたらだめだと思っています。でも、こんな風にいつまでも緊張を保っていられるのは幸せだと思う。50年でもまだ走り始めたばかりというかんじ。

辛かった更年期障害、でもこの経験が女の幅を広げてくれた

46歳のときに早期更年期障害で苦しみました。「私はバリバリの鬱です」のキャッチコピーとともに新聞広告に出ましたが、これが評判をよんで。こんな明るい人が?って驚かれたけど、医師曰く、明るい人ほどなりやすく、暗い人はそれほどじゃないって(笑)。でも当時は、原因が分からないのがとにかく辛かった。いつも元気な私がどうしたんだろう、と。まず感動しなくなっちゃった。髪の毛もなんでこんな長いの?ってつまらないことが気になる、汗が急に出るのも分からない。自律神経失調だと言われて処方してもらうけど、当然治らない。でも自分の性格だとやはり無理やりにでも人前で明るく振舞ってしまうんです。鏡の前で笑顔を練習したんですよ。笑顔なんて自然に出るものだと思っていたのに、この私が笑顔を練習するなんて!

でも今までずーっと元気なナナでやってきたけど、女としてスイッチの切り替え時期だったのかな、と。治るまでに時間がかかったけれど、だからこそ余計に、あの経験が女の幅を広げてくれたと思います。貴重な経験でした。

いつも心に留めているのは、「笑顔でいなさい」という母の言葉。「笑う門には福来る」。辛いときこそ笑っちゃえ、という気持ちでいます。表情に気持ちが引っ張られると思うから、演技でついちゃった眉間に入った縦じわもしょっちゅう伸ばしてますよ(笑)。

人生には山がいくつもあって、常にそれを越えていかなきゃならないものだと思っています。越えて越えて、越えて(笑)。楽なときはない。越えたらその都度合格のハンコがもらえて、でもその楽しさがあるから素晴らしい人生だと思える。

50周年を迎え、ゼロ歳からのスタートのような気持ちでいます

私は本を読むのが大好きで、いろんな本を読みながら、こんな役をやってみたいな、と想像を膨らませることもしょっちゅうです。世の中で評判になっている本にはさほど興味がなく、本屋に出かけて目についたものを選びます。

今、平岩弓枝さんの「日本のおんな」シリーズを読み返していますが、昭和の女性たちは謙虚ですね。有吉佐和子さんも好きです。こうした本から、こんな生き方考え方があるのかと新しい発見をし、昭和の女たちのやさしさと強さを学んでいます。

今年でデビュー50周年。周りの方々が、おめでとうと言ってくださるんですが、そうするとなんだか誕生日みたいで、うれしいの(笑)。また、ゼロ歳からのスタートだ、という気持ちになれますね。いいスタートを切れたのは周囲の皆さんのおかげ、感謝です。

仕事をやめたい、そう思う瞬間はしょっちゅう。だけど本当にやめたいと思ったことなんてない。好きなことを50年間やらせてもらえた私のような果報者は、この世の中に何人もいないと思います。

今年は現代の女子高生に扮した舞台も予定しています。ブレザーにルーズソックス姿(笑)。昔から、新しいものにトライする気持ちはずっと持ち続けてきました。その同じ気持ちでこれからも進んでいくつもりです。

(港区・ホテルの一室にて取材)

  • 向島、幼少時の1枚

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  • 2歳のころ

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  • 1974年から15年間続いた2人芝居「ショーガール」

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  • 越路吹雪さんと共演した「アプローズ」

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  • 2002年、舞台「伝説の女優」

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  • 2012年12月上演のミュージカル「女子高生チヨ」でのチヨ役

    2012年12月上演のミュージカル「女子高生チヨ」でのチヨ役

  • 木の実 ナナさん

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