Ms Wendy

2011年11月掲載

キュリー夫人 受賞100年を記念した「世界化学年」日本から選ばれた女性化学者

相馬 芳枝さん/日本化学会フェロー

相馬 芳枝さん/日本化学会フェロー
1943年生まれ。65年神戸大学卒業、大阪工業技術試験所(現・産業技術総合研究所)入所。77年京都大学で工学博士。78年カリフォルニア大学アーバイン博士研究員、93年フランスCNRS客員教授、97年神戸大学教授併任。現在、神戸大学特別顧問、日本化学会フェロー。主な業績は、①銅、銀カルボニル触媒の発見と第三級カルボン酸の常温常圧合成法の研究②地球温暖化防止のための二酸化炭素再資源化の研究。受賞歴は、86年猿橋賞、89年有機合成化学協会賞、2000年科学技術庁長官賞、11年世界化学年女性化学賞など
農村に生まれ、親に勉強しろと言われたことはなかった

私は、3人きょうだいの長女として山口県の農村に生まれ、高校生になるまで、家業である農業を毎日手伝っていました。

父は大阪に出稼ぎに出ていたので、農業は母と祖母が中心、子どもも重要な労働力でしたし、長女だから手伝わなければいけないことはたくさん。畑仕事に加えて弟妹の子守りや、牛の世話。

親が「勉強しなさい」なんて言わない環境で育ちましたが、高校受験を考えるころになると、担任の先生から、頑張って進学校に行きなさいとおっしゃっていただきまして。親も、それならということで、一家で父の暮らす大阪に移ることになり、それで初めて、農業から解放されました。

中学時代は、試験を受ければ学年で1〜2番になっていたし、勉強は好きでした。だから勉強に集中できる環境というのは、やはりうれしかったです。

大学受験のときに父が亡くなり、母が女手一つで私たちを育ててくれ、奨学金を頂き、かつ授業料も免除してもらい、大学に通いました。

医者に憧れたが、受験に失敗

キュリー夫人のノーベル化学賞受賞から100年目に当たる今年は「世界化学年」とされ、優れた業績をあげた世界の女性化学者23人が顕彰されましたが、光栄なことに日本ではただ1人、私がその賞を頂きました。

そもそも理系が好きになったのは、何か大きなきっかけがあったわけではなく、育った環境でしょうか。自然の中で育ったから、小さな生き物や天気の変化に日々反応していましたし、自然科学を常に身近に感じていました。だから自然と、生物や化学への興味が育まれたんだと思います。

そのころの憧れが、伝記で読んだ、キュリー夫人、シュバイツアー博士、野口英世。

医者や看護士に大きな憧れがあり、人助けができる大きな仕事だし、かっこいいなと思っていました。

実は大学も医学部志望だったのですが、医学部受験に失敗してしまい、本意ではない学部に進むことに。

理学部に入ってもまだ医者への夢が諦めきれませんでしたが、ここでいい先生に出会ったんです。

実験に興味がある生徒はいらっしゃいと、ご自分の研究室を開放し、実験の手ほどきをしてくださった。これが、私が本格的に化学に興味を持つ大きなきっかけになりました。ここで学んでいるうちに、この道に進もうと、気持ちがしっかり定まりました。

「モーレツ」に働いた研究員時代

当時、大学卒業後は民間企業に進む学生の方が多かったのですが、民間は男女差別があるらしいと聞き、男女同等に働ける職場を求めたいと国立研究員の道を選びました。働き者の祖母、母の姿を幼いころから目の当たりにし、女性が働くのは当たり前だと思っていましたし、女性も手に職をつけなきゃ、という母のつぶやきを聞いて育ちましたから。

就職が決まったときには、これで自分の道が見つかった、とうれしかった。

でも今考えると母の言う、手に職、というのは学問ではなく、裁縫技術を身につけるとか、そういう意味だったように思います。

神戸大学卒業後に、望み通り国立研究員職に就いたのですが、研究職というものは、大学院まで行かないと一人前として認められない世界なんです。だから、大学4年卒業で入る私は、子どもみたいなもの。先輩の話を聞いていても理解できず、大きな危機感が芽生えました。

そこで、研究所の制度を利用し、京大工学部に研究生として派遣してもらいましたが、そこは今までの環境とはまったく違っていました。

当時「モーレツ」という言葉が流行っていましたが、朝早くから夜遅くまで、皆一心不乱。まさに「モーレツ」に研究を進める様子を見て、雷に打たれたような衝撃を受けました。ここまでやらないと一流になれないのか、と。27歳のそのころは既に結婚していましたが、研究に打ち込むため、大学の近くにアパートを借り、そこから通いました。
 

結婚相手の条件はただ1つだけ

夫の理解は大きかったですね。結婚し、そのうち子どもが生まれたら家庭に入ろう、そんな風に考えるような女じゃないことは分かってくれてましたし、結婚する際に、家庭か仕事か2択を迫られたら、仕事を取ります、ときっぱり宣言してましたしね。そうした選択を認めてくれる少数派の男性でした。

普通、女性が結婚相手として男性に求めるのは、将来性や見栄えの善し悪し、高学歴かどうか、そういったことだと思います。でもそういう男性は、女性が家庭に入り、妻として生きることを望む。だから、私は男性に通常望む将来性など一切条件にしませんでした。

自分が仕事を続けられるかどうか、それが唯一の条件。それをクリアしたのが彼でした。私にとって1番大事なことが守られていれば他のことはどうでもよかった。だから、結婚を決めたとき、母も周囲の人も大反対しました。もっといい人がいるだろうと、散々諭されました(笑)。

これが最後のチャンスと、40歳で出産

学者は、研究を重ね、何かを発見すれば終わり、ではないんです。それに関する論文を書いて特許を取るまでが仕事です。論文を発表する媒体も複数あって、どこがいいのか調べる必要も出てくる。やることはたくさんあってそれは大変ですが、そういうこと全てが面白くてたまりませんでした。

実験は、失敗のほうが多いし、自分自身で納得できなくて、始めからもう1度やり直しも当たり前。常に自分との闘いです。さぼりたくなるし、言い訳もしたくなる。ワクワクする時間の方がもう断然短い。それでも、大好きだったハイキングにも映画にも一切興味がなくなるほど没頭しました。

まず学位、次に留学と自分の未来図を描き、それを実現することだけを考えていました。

35歳でカリフォルニア大学に留学したのですが、私を指導してくれた女性教授が、学内のスター教授として闊歩し、お子さんもおいででした。

研究と子育ての両立は無理だとずっと思ってましたが、こういう生き方もあるのか、と憧れましたね。私は35歳で子宮筋腫を患い、徐々に肥大してきて、40歳ごろに、もう子宮を取らなきゃいけないくらいになった。だったらこれが子どもを持つ最後のチャンスだ、と産むことに決めました。

でも、筋腫は日に日に大きくなる。赤ちゃんが無事に生まれてくるかどうか分からないと医者には言われました。5カ月で切迫早産になり、入院。寝たり起きたりと、生まれて初めてのぐうたら生活(笑)。家事もできないし、難しい本を読むとお腹が張るからだめだと言われました。

この、本が読めない時期が何より辛かった。競争社会だから常に背伸びしてないとおいていかれる。すごく焦ったけれど、今はしょうがない、そう自分に言い聞かせるしかなかった。幸いに、なんとか無事に生まれてくれました。

けれど、やはり子育ての苦労は尽きず、大きな反抗期も経験しました。周囲が見かねて、新興宗教に助けを求めたら?なんて助言をくれるほど(笑)。実家の母には「あんたが5時に家に帰ってくれば何も問題ない」なんて言われて途方に暮れたり。

ある日、相談に行った先で「お母さんが仕事をやめればお子さんは落ち着く」と言われました。それを聞いていた当の娘が「お母さんは仕事をやめることはない」、そう言ってくれたんです。うれしかったし、救われたような気もしました。

信念が私を支えた

自分の性格は、地味でシャイ。「運・鈍・根(気)」が成功の要素だといわれますが、まさに自分はそれを持っていたんだと思います。地道にコツコツと進んできました。

猿橋賞を頂く前までは研究も認知されず、役立たない仕事だと非難されたことも。でも自分は逆境に強いのだと思っています。光があるときに輝くのは当たり前。逆境のときこそ気持ちをしっかり奮い立たせるべき。逆境で持ちこたえられたそのわけは、自分がやっていることはいずれ社会の役に立つ、評価される研究だと信じていたから。信念が、私を支えていたんです。

30代40代と認められず、信じたことを続けた結果、女性化学者として度々、賞も頂きました。熾烈な競争の下でのこうした成功の秘訣は、ハードワークに尽きる。24時間は万人共通、そこで何かを成し得る人は、目標を定め集中できる人です。

女性化学者といっても、私は本当に普通のおばさん

現在は、研究所を定年で退き、神戸大学の特別顧問として男女共同参画のお手伝いをしています。その業務内容の1つに、理系を目指す女子中高生のサポートがあります。理系に進んで就職先はあるのか、女性が少ない学部でちゃんと学んでいけるのか。女子中高生はいろんな不安を抱えている。でも、実際に理系で学ぶ先輩たちの姿を見ると不安は消えるようです。

私の業績だけ見ていただいたら、どうも自分とは縁遠いところにいると思われるかもしれませんが、私は、本当に普通のおばさんですよ。仕事が終わったらスーパーで買い物し、食事を用意する。

看護士や学校の先生と違い、女性化学者に会う機会はなかなかないですよね。だからこそ、皆さんと同じように生活し、同じように仕事と育児の両立で悩む姿を知ってほしいと思っています。確かに、女性化学者なんてマイノリティーの存在です。でも女性にも化学はできる。特別に素晴らしいことではないし特殊な存在ではない。化学者なんて気難しくて変人かも、そう思われたら困るなあと思っています。

女性もロマンを持ってほしい

これからは女性も夢を追いかけてほしいですね。夢を追いかけるのは、とても楽しいこと。ロマンは男性だけが持つものではないですよ。ロマンを語って若さを保ちましょう(笑)。

私の夢は、現役時代は研究を重ねることで、今は就業女性の活躍促進。やる気がある人を引っ張り上げられる社会にしたい。出る杭は打たれるけれど、打ち付ける木槌が届かないくらい出ちゃえばいいんです。強くやっていきましょうと言いたい。

仕事って、楽しいですよ。そりゃ恋もいい、でも惚れ込むという点では恋も仕事も同じだと思います。惚れ込む仕事に出合えない悩みをお持ちの方は、憧れの人、背中を追いたいと思う人を身近に持つべき。同性でなくてもいいし、視野を広く持って、自分と全く違う仕事分野の人でもいい。私の場合は5年ごとくらいに素晴らしい人に出会えて、大きな刺激と励ましを頂きました。

(神戸大学にて取材)

  • 神戸大学時代、指導教官と。22歳

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  • 母、弟妹と。1番右が本人。24歳のころ

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  • カリフォルニア大学に留学したころ。35歳

    カリフォルニア大学に留学したころ。35歳

  • 科学者猿橋勝子氏と。猿橋氏は「女性科学者に明るい未来をの会」を設立。この会は毎年自然科学の分野で顕著な研究業績をあげた女性科学者に「猿橋賞」を贈呈している。44歳

    科学者猿橋勝子氏と。猿橋氏は「女性科学者に明るい未来をの会」を設立。この会は毎年自然科学の分野で顕著な研究業績をあげた女性科学者に「猿橋賞」を贈呈している。44歳

  • プエルトリコで行われた、2011年世界化学年女性化学賞授賞式に出席。世界の23人に日本でただ1人、選ばれた

    プエルトリコで行われた、2011年世界化学年女性化学賞授賞式に出席。世界の23人に日本でただ1人、選ばれた

  • 趣味のお琴は10歳のころから。APECレセプションで披露。2010年

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  • 相馬 芳枝さん

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