ひとつの世界を作り上げるためすべての衣装を作る
- ワダ エミさん/衣装デザイナー
- 1937年京都生まれ。京都市立美術大学西洋画科卒業。NHKディレクターで演出家の和田勉氏(故人)との結婚がキッカケとなり、舞台を手始めに衣装デザインを手がけるようになる。72年に『マルコ』(米)で初めて映画の世界へ。86年、黒澤明監督の『乱』でアカデミー賞最優秀衣装デザイン賞を受賞。93年にはオペラ『エディプス王』で米エミー賞最優秀衣装デザイン賞を獲得。チャン・イーモウ監督の歴史アクション作『HERO』(02年・香港アカデミー賞最優秀衣装デザイン賞受賞)など娯楽大作でも重厚な奥行きを与える独創的な美の世界が高い評価を得ている。
衣装製作の拠点は北京のアトリエ
この6月に宮本亜門さんのミュージカル『太平洋序曲』という舞台で10年ぶりの再演をしたのが、久しぶりの日本での仕事。台本が日本語だとやっぱりラクですね。
20歳のときに衣装デザインを始めて、もう50年が過ぎました。舞台も映画も、ほとんど貸衣装が普通だったころ、私はひとつの作品すべてを作るという方法で、仕事を続けてきました。
英語は決してうまいわけではありませんが、仕事を進める上で必要な言葉は、演出家やアトリエの人々に伝えます。
最近は中国もバブルで物価が値上がりしてきましたが、この20年間はもっぱら北京のアトリエで衣装を作っています。1年のうち、3〜4カ月は北京で過ごしています。中国ではやる気もあって腕の立つ若い職人が育ってきているんですよ。
昨年は映画監督で演出家のフランコ・ゼフィレッリが手掛けた歌劇『トゥーランドット』のために合計800着の衣装を作りましたが、もらった予算を800で割れば1着いくらで作れるかとか、そんな計算に始まって、イタリアと中国との間に立って、衣装の空輸と通関をスムーズにする交渉をしたり、膨大な領収書の整理まで…。私ひとりで、やるんです。マネジャーもアシスタントもいません。世界のどこでもひとりで出掛けますよ。
自由な家庭に育ち学生結婚
私の曽祖父は富山の薬売りから出発し、大阪で製薬会社を起こし、大きな財をなしました。神戸の六甲山一帯も持っていたほどですが、2代目、3代目はこれを使う一方。この3代目が私の父です。
私が生まれ育った京都の家は、下鴨神社の「糺の森」につながる敷地にありました。大阪に本宅があったのですが、そちらは戦災で焼けてしまい、残ったのは母が持ち帰った伊万里の焼き物だけでした。
古都の深い森と日本の伝統文化と、クルマやカメラなど一流の舶来品に囲まれた、贅をこらした生活環境が、私の仕事の糧になっていると思います。
同志社女子中学から高校に進み、そのまま大学へも行けたのですが、画家を志して、京都市立美術大学西洋画科を受験しました。大学で絵を学ぶ女性は少なかった時代ですが、「やりたかったら自分でやりなさい」という自由な家庭でしたから、思い通りに行動できていました。
私は4人姉妹の長女ですが、社会福祉の仕事をしているすぐ下の妹をはじめ、今もみなそれぞれが自分の仕事をもって生きています。母も97歳で健在ですが、私より、和歌や短歌を作る仲間とおしゃべりしている方が楽しいらしい。15分と話がもたないんですから。
さて、私は美大に入ったものの、学校がちっとも面白くない。ある日、母の知人である、溝口健二映画などの脚本を手掛けていらした依田義賢さんのお宅へ伺った際、NHK大阪のテレビドラマディレクターだった和田勉と出会いました。和田は、この高名な映画脚本家にテレビドラマのシナリオを依頼に来ていたのです。当時の私は、ニューヨーク・パーソン・スクール・オブ・アーツ、それにシカゴ・アート・インスティテュートへ自分の作品写真を送り、スカラシップの資格も取っていました。ですが、結局留学はせずに、和田勉とのその出会いから6カ月後、結婚することに…。私は20歳、大学の3回生でした。
思いがけず衣装デザインの世界へ
そのころのテレビというのは面白いメディアでした。安部公房さんや遠藤周作さんといった文学者たちに台本を書いてもらい、音楽は武満徹さん、林光さん、黛敏郎さん…時代を代表するそうそうたる顔ぶれを、まるごとテレビに取り込んでいったのが和田勉だったんです。
それまで私がいた世界とは全く違う、新しい時代の潮流、可能性の広がりを感じましたし、彼の才能がほとばしる仕事ぶりがとても刺激的でした。
結婚した年に、和田勉が堂本正樹さんの詩劇『青い火』を演出し、私が美術と衣装の仕事を引き受けたのですが、役者や照明や音楽次第で変化していく空間と時間の妙は、キャンバスでは表現できないものだと感じたのです。これが衣装デザイナーとしての仕事の始まりです。
この時、初めてワダエミの名を使いました。そして、野口(旧姓)恵美子としても絵を描いていました。第1回の『青い火』のあと、舞台の仕事が次々と舞い込むようになり、このころ日本に衣装デザイナーという分野が全くなかった故か、大阪から東京へ移っても仕事が続いていきました。
当時は予算も少なくて、舞台美術と衣装デザインを引き受けて、年収がたったの5万円なんてことも。それに既製品がほとんどない時代ですから、タイツすら手作りしていたんです。
この仕事を始めて10年ぐらいは、ほとんどお金にならなかったんですが、和田勉のNHKのお給料で生活はできていました。だから、それほど稼がなくても済んだことには感謝しています。
黒澤監督との出会い。そして『乱』へ
日本映画の衣装を手掛けたのは、黒澤明監督の『乱』が最初でした。ある映画完成パーティーでお目にかかったとき、「『リア王』を撮る話があるんだよ」とおっしゃったので、「じゃあ私、それやりたいです」と申し上げたんです。黒澤監督はシェイクスピア劇がお好きで、私も好きで読んでいましたから。これが後の『乱』です。
シェイクスピアを原作に、天正時代という設定ですから、衣装デザイナーとしてこれはかなり遊べる要素があると、ワクワクしました。イメージを膨らませながら、ひそかに集めておいた資料をクルマいっぱいに積み込んで、打ち合わせに行きました。黒澤さんもご存知ないものがたくさんあってとても驚かれたようでした。
当時私は40も半ばの年齢でした。
余談ですが、私は18で免許を取ってからずっとクルマを運転しているんです。曾祖父はフォードの代理店もやっていて、姉妹はみんな、1台ずつクルマを運転していました。おそらく京都では私が3番目か4番目に2種免許をもらった女性ドライバーのはずです。
能舞台の美を映画に持ち込んだ
それまで黒澤映画では、独立した衣装デザイナーはいなかったんです。最初に原田美枝子さんが演じた『楓の方』の最後のシーンの衣装をデザインして、エキストラの衣装まで含めると、約1000着。
『乱』はいわば王侯貴族のお話ですから、舞台やオペラの仕事をやってきた私自身の好みもあるけれど、能舞台を意識したりして、現代の人から見て魅力がある衣装を作りたかったのです。
この作品で、日本人の女性としては初めて、第58回アカデミー賞(最優秀衣装デザイン賞)を頂きました。
世界の「EMI WADA」と「フーチン・フォイメイ」
アカデミー賞受賞をきっかけに、オペラ『エディプス王』で第45回エミー賞(最優秀衣装デザイン賞)を頂いたりと、海外での仕事が飛躍的に増えていきました。
和田恵美は中国ではフーチン・フォイメイと読みます。初めて香港映画をやった時に、クレジットは漢字の方が喜ばれるよと言われまして、それ以来中国ではずっとこの呼び名です。
最初は野口恵美子の旧姓で絵を描いて生きていくつもりが、「ワダエミ」「フーチン・フォイメイ」が私の人生になってしまったわけです。
私は、どのシーンでどの衣装が何着必要かがすぐ分かるように、全シーンを通して衣装の全リストをまとめた「香盤表」というものを作ります。映画はストーリーの順に撮影するわけではないので、数や色を間違えないためにはこれが必要です。
私にとって映画の初仕事になった『マルコ』(72年米)の時に作ったものですが、この世界では前例がなかったようです。私が『乱』のために作った分厚い香盤表を見た黒澤監督は、「きみはここまでやるのか」と。まあ、褒めていただいたのか、やりすぎだとおっしゃりたかったのか、分かりませんが。
鉛筆とファクスで世界を結んで
私、デザインを描くのはとても早くて、鉛筆とそれに100本ほどの絵具があればすぐできてしまうんです。『トゥーランドット』も『マダム・バタフライ』の時も、ローマまで行って2時間か3時間打ち合わせを済ませたら、あとは東京からスケッチをファクスして、返事が来るのを待つだけ。電子メールよりファクスの世代ですから。
北京のアトリエにも東京にあるのと同じ色見本が置いてありますから、どんな衣装がどれぐらい必要か決まれば、世界のどこからでも生地の発注はできるわけです。何ページのこの色を基本に、みたいにね。染めて織って、刺繍したり、型押ししたり、また、靴や帽子やアクセサリーと合わせたり。そんな作業をやっているうちに、結局向こうに居っぱなしになってしまうんです。だから東京の家には留守番電話もありません。
すべての衣装をひとりで作る理由
映画でもオペラでも、私はとにかくその作品のすべての衣装を作ります。日本では主役の衣装だけ作ってほしいというお話はたくさんありますし、簡単ですが、それではひとつの世界を作り上げることができないんです。
私にとって、一般のオーディエンスももちろん大事ですが、その中にも目利きの人がいる。世界でせいぜい5人とか6人。その特別な目を持った人たちを納得させられれば、私の仕事は合格だろうと、そういう気持ちで、ここまでやってきました。本当は、そこまでやっちゃいけないこともあるんだろうけど、私の性格では、やらざるを得ないんです。
私のようなやり方だと、1年でせいぜい映画1本に舞台が1本です。ひとつ終われば、次の仕事が来る、そんな感じなので、自分から営業することもありません。また、どの国の監督もそういう私のスタイルを知ったうえで注文してくれています。決して儲かってはいないけれど、こうして、仕事は続いています。
60歳になったら庭いじりでも、と思って、長野に自分でデザインした家を建てたんですけど、なかなか時間が取れませんね。
(東京のご自宅にて取材)
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