私という人間はたぶん、楽天家。今日より明日、もっといい演奏ができる
- 中村 紘子さん/ピアニスト
- 1944年山梨県に生まれ東京世田谷で育つ。3歳でピアノをはじめ、早くから天才少女の呼び声が高く、16歳で東京フィルハーモニー交響楽団と共演し正式デビュー。 20歳のとき第7回ショパン国際ピアノコンクール(65年)で日本人初の入賞とあわせ最年少者賞を受賞。 これまで公演は国内外37000回を超え、その詩情あふれるピアノの響きで世界を魅了し続けている。1982年のチャイコフスキー国際コンクール以来、数多くの国際コンクールで審査員を歴任すると同時に、豊かな批評眼で時代と音楽を語る著作も多い。 日本芸術院賞恩賜賞、紫綬褒章ほか、国内外で多数受賞。
デビュー50周年を迎えて
一昨年の秋にデビュー50周年を迎え、記念のコンサートを一昨年9月から昨年7月までに全国で80回しました。
デビュー何周年であろうと、演奏には完成してこれで終わりというものがないんです。日々、肉体を使う仕事ですから、ほっておけば筋肉もすぐなまってしまう。ピアニストはいくつになっても一生懸命な受験生。万年、入学しない受験生のようなものなんですね。
3歳でピアニストの道へ
ピアノとの出合いは、私が3歳のとき。そろそろ幼稚園というころになって、母がある音楽教室の話を耳にしました。市ヶ谷にある、当時女学校だった東京家政学院の教室を土曜の放課後に借りて、若い先生たちが子どもを集めて新しいシステムで音楽の基礎教育をはじめるという。それが「子供のための音楽教室」です。
母は私をただ幼稚園に通わせるより、人に気持ちの豊かさを与えられるような何かを持たせたほうがいいのではないかと考えていたそうです。両親は戦争ですべてを犠牲にした世代ですからね。戦争に青春を奪われ、好きなことを何一つできなかった。第2次世界大戦が終わり価値観は一変した時代でしたが、人間が逆境に出合ったとき、音楽のように何か人の慰めになるようなものを私に身につけさせたいと思ったんでしょうね。
応募して出かけると、面接官は女性で、大変こわそうな方でした(笑)。うちの母は何も知らなかったものですから、となりの方に尋ねたら「あれは井口愛子先生といってね、とてもお偉いピアノの先生ですよ」と教えられて、ピカッと光るものを感じたらしいんですね。それで面接の順番になったときに「この子をお弟子にしてください」とお願いしたそうです。
井口先生はその当時考えられるかぎりでいちばん素晴らしいピアノの先生でしたので、大変幸運なはじまりだったと思います。でもこわい先生でしたよ。それは大人になっても夢に見るぐらいこわい。先生というより、お家元のお師匠さんという感じですね。当時の先生たちは明治大正生まれの方ですから、儒教的というか大変厳しい。後に先生の自宅にレッスンに通うようになって、学校があっても、先生に朝10時にいらっしゃいと言われれば行くしかありませんでした。
灰色だった子ども時代
クラシックの音楽教育は明治になって入ってきたものですが、日本が軍国主義から戦争の時代に突入して一度途絶えたせいで、一流の音楽家の演奏を聴いたこともなく、具体的に一流の奏法を身につけた先生もいなかったんですね。教える情熱はあっても、どういう手のかたちをすれば美しい音を出せるのかも分からない。ですから小さい子どもに対しても、抽象的で、そして精神論的な教え方でした。こちらが感受性が羽ばたく10代の半ばになって、自分はこの音楽をこう感じるなんて言っても、先生はダメダメと認めてくれません。弾きたいようには弾けないし、何か疑問があっても、一方的に権威で抑えつけてくる。しかも当時は、音楽を「楽しむ」のは崇高な芸術に対して不謹慎、みたいなモラルだったのですね。
よくレッスンの前の日になると40度の熱を出すの。レッスンに行きたくなかったんだなぁと今になって思い出しますね。今の子どもなら、あんな先生いやだわって逃げちゃうかもしれませんね。私だってやめちゃってもよかったかもしれない。それでもなぜかやめないで、ひたすら悩んで悲しみながら、灰色の子ども時代を送りましたね。
いよいよ世界の舞台へデビュー
1959年にデビューしました。当時はまだ桐朋学園女子高等学校音楽科の1年生でした。数年後にひかえた東京オリンピックに向かって、日本があるゆる分野で発展途上国から先進国の仲間入りをするんだという、いわば国際化ののろしをあげた時期ですね。
翌年、NHK交響楽団が日本で初めての西洋音楽のオーケストラとして海外に演奏旅行に行くとき、私と、今のサントリーホール館長でチェリストの堤剛さんのふたりがソリストに抜擢されました。私は16歳で、彼は18歳かな。日本ではこれから若い世代が伸びてくるんだと世界にアピールしたかったんでしょうね。
その直後、ジュリアード音楽院で学ぶために渡米しました。そこの1番の先生、ロジーナ・レヴィン女史がたまたま私の演奏を聴かれて「ニューヨークにいらっしゃい、私が教えるから」と言ってくださったからです。
桐朋学園は中退することになりましたが、当時、日本では先生とうまくいかなくなっていたの。先生には、教え子が自分を超えていくことへの嫉妬もきっとあったんでしょうね。妙なところで足を引っ張られたり、イジメもありました。日本のクラシック音楽というのは、権威によって築かれた一種の砂上の楼閣で、私のような反乱する子を認めてしまったら、家元制度が崩れちゃうから。
先生と出会えたことはよかったのですが、ニューヨークは好きにはなれなかったの。貪欲でどう猛な街だし、当時は1ドル380円で何をするにも大変お金がかかる。海外へ出るのにまだいろんな制限もありましたしね。私は奨学金をいただいたので、留学生のなかでは恵まれていたほうでしたけど。
ジュリアードという学校は19世紀、ロシアで起こったジェノサイド(大虐殺)から逃れてきたロシア人がニューヨークに集まってきて、ジュリアードさんという方の遺産で作られた学校です。私が入学したのは、まだ19世紀のクラシック音楽を知っている人たちが教えていた、いわば黄金期で、とくにピアノ科はモスクワの音楽教育の伝統を重んじながら教えていた。だから何のことはない、私はアメリカに留学してモスクワ音楽院で学んだようなものなんです。
レヴィン先生もロシア生まれで、私を孫のようにかわいがってくださいました。日本の先生とは教え方が180度ちがう。怒鳴ったり叩いたりなんていうことはもちろんないし、ただ座ってときどきひとことおっしゃるだけで、いろんなイマジネーションをかき立ててくれるんです。この先生から学びたい、先生に私のベストを聴かせられなかったら申し訳ないという気持ちになって一生懸命勉強していくわけです。ニューヨークに着いて英語が喋れない私を心配して、毎晩電話をくださったのもいい思い出です。
基礎からやり直すことにはなりましたが、あのときジュリアードで学んだことは、人生の転機、というぐらいに私の人生にとってのピアノを大きく変えました。ピアノと向き合う楽しさ、喜びを知ったんです。
ショパンコンクール出場
ポーランドのショパンコンクールに出場したのは1965年のことです。私が行ったことで、その後ショパンコンクールが女の子たちの憧れになったようですが、その年、日本人は私ともうひとりの方しかいなかったんです。
東洋人に何が弾けるの?そんな反応もありましたね。ピアノは白魚のような指では弾けません。おじさんのような大きな手で弾けばそれだけ音は豊かで美しい。私はピアニストとしても手が小さいし。たとえ弾けたって認めたくないんですね。アジア人に対して、そして女性そのものに対しても、そういう差別があった。
また日本人が大勢押し寄せるようになってひんしゅくを買いました。コンクールの開催は5年に1度きりです。まだ共産主義の時代ですからコンクールは外国の若い人たちと接する数少ないチャンスだし、しかもポーランド人が誇りとする音楽を才能ある若者たちが演奏しにやってくるんですから、彼らにはオリンピックかそれ以上の憧れがある。その貴重な会場の席をお金持ちの日本人が占拠してしまうわけですから。
自由とクラシック音楽
その後、チャイコフスキーコンクールに審査員として招かれて、ソ連などにも何度も足を運びましたが、軍事大国であっても、一般国民の生活は極端に貧しく日用品も極端に不足していました。歯ブラシを探して1日歩き回っても見つからないことがありましたね。
しかし、ソ連時代になぜあんなにクラシック音楽が興隆したのかといえば、それは言論と行動の自由を束縛されていたから。自由を奪われたことで、音楽が自分の夢を注ぎ込む最高の対象になったんですね。うまく成功すれば将来が安定するし、言論はともかく行動の自由は得られるし、外国の物資も買うことができる。
国が豊かになるにつれ音楽で身を立てようという若者が、音楽の本場にいなくなってきたんです。フランスやドイツ、日本にも同じ状況がある。皮肉なことですね。先進国症候群と、私は本に書いたことがあるんですが。あらゆる情報に自由に接して、毎日こんなに楽しいことがあれば、ハングリーに音楽に打ち込む若者なんかいなくなりますよね。
だからたまに金髪碧眼の男の子がコンクールに出て、長髪で横顔がショパン似だなんていうと、たいした演奏でもないのにもう大騒ぎになるの。それはね、言い換えれば彼ら自身も20世紀後半から21世紀にかけてのクラシック音楽の衰退に心を痛めているということなんですね。
自由とクラシック音楽
私という人間はたぶん、楽天家なのかもしれないけれども、今日よりもっと努力すれば、明日はもう少しいい演奏ができる、と信じこんで、50年きちゃったみたいなところがあるんですね。実際、51年目の昨年、サントリーホールで恒例のリサイタルをしたときには、一昨年よりもっとお客さまが喜んでくださいましてね。
ピアニストというのはアスリートと同じなんです。絶えず肉体の手入れをして、しかも老化と闘わなければならない。鍛えて練習する、終わりのない繰り返し。その闘いの限界が近づいてきたときが、私の退けどきなのかなぁと思っているんです。
(東京都港区の自宅にて取材)
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