9・11が私を『文学』の外へ押し出した。ドイツ文学翻訳家の『出たとこ勝負』
- 池田 香代子さん/ドイツ文学者・エッセイスト
- 1948年東京生まれ。都立大人文学部独文科卒業。ドイツ文学・口承文芸研究家。訳書に『完訳クラシック グリム童話』『ソフィーの世界』など。
『世界がもし 100人の村だったら』の印税を難民支援など平和運動に投じ、多忙な執筆活動と同時に社会活動家としても発言・行動を続ける。
団塊世代の東京
まず、私は東京生まれの東京育ちです。それで団塊の世代。ちょうど映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のあの雰囲気の中で育ちました。ということはまだ社会全体が貧しくて、飢えることへの恐れが現実としてあった。団塊の世代というと、がつがつしているとか言われますが、そういう背景があるんじゃないかな。あの時代をリアルに知っているから、女の子が白いハイソックスなんて履いていなかったとか、映画の間違いなんていくらでも列挙できますよ(笑)。
まだ私が小さいころに父が亡くなって、かぎっ子でした。母は保険の外交の仕事で忙しくしていましたが、講談社の少年少女世界文学全集という毎月出る本を買ってくれて、楽しみにしていました。それが文学を好きになったきっかけですね。
家は杉並の貧しい地域。雨が降ると学校を休む子もいた。長靴が買ってもらえなくて、恥ずかしいってね。中学に上がるころには経済成長で世の中がガラッと変わっていきます。ウチにテレビが来た!とか、そういうのを味わっている世代です。親は物を買うということにすごい幸福感を味わって、逆に子どもはシラッとしちゃうのね。
私の入った高校は異常でね、50人ちょっとのクラスで40人以上が何も考えないで東大に行くようなところ。一方、私は授業をサボッて映画を観に行くような映画少年映画少女の一人だった。そんな落ちこぼれたちには、「大学行くなんてクズ、東大なんてクズのクズ」という感じだったの。
本当は大学なんか行きたくなかったんだけれども、高卒で社会に出て勝負できるような自信もなく、大学にでも行ってハクつけなきゃ、というノリで都立大に行きました。
ところがこの都立大という選択は大正解で、そこで素晴らしい先生方にたくさん出会えた。まず何よりもドイツ文学の種村季弘先生に会ったことで、人生が変わった。先生にドイツ文学の翻訳の仕事を紹介していただいて、大学生のアルバイトから始まり、今この現在に至るわけです。
グリム童話との出合い
30歳を目前に、夫が旧西ドイツの公費で留学することになり、うちにはもう子どもがいましたが、1、3、5歳と3人の子どもを連れてドイツの田舎にある大学街に行きました。私は向こうに行ってから大学を受験して入学したんです。
グリム作品の翻訳の話をいただいたのはそのときです。数編選んで子ども向けに翻訳してみないかと。まったく面識のない編集者からでしたが、フランス文学者の澁澤龍彦さんの当時の奥さま、立川澄子さんからの紹介でした。種村先生のお友達です。
それで初めてグリムのメルヘン(民話)を読んでみて、こんなに面白い世界があるんだと思いましたね。グリム童話との出合いです。
依頼されたのは講談社の青い鳥文庫というシリーズで、グリムのメルヘンの3分の1ぐらいを2年ぐらいかけて訳し、4冊の本になりました。最後の1冊が出たとき、その編集者が4冊を目の前にならべて言うには、「これはもうこれでご破算です。もう一度ゼロから勉強しなおして、すべての作品を訳してください」と。講談社の名編集者で、その人が「池田香代子」の第一発見者だったと今も思っています。
それから再び勉強を始めて、ああでもないこうでもないとやってるうちに時がたち、それで「わかった」と思って翻訳した、それが95年。グリムとの出合いから10年がたっていました。
よくグリムが私のライフワーク、みたいに書かれますけど、そうじゃない。私は学校では勉強しなかったし、学問向きの性格じゃない。論文を本気で書いたこともないし。自分が勉強したことは翻訳というかたちで出す、それがすべてなんですね。あのとき勉強したものがすべての土台になっているとは思いますけれど。
『ソフィーの世界』のヒット
NHK出版から「ちょっと見てもらいらいたいものがある」って渡されたのが『ソフィーの世界』(ドイツ語版‥編集部注)でした。厚いし、テーマが哲学だし、最初は断ろうと思ったんだけど、開いてみたら「ソクラテスの時代、哲学は声のなかにあった。声が発せられる市場という生活の場にあった」っていう書き出しなんですね。これは生活からかけ離れてしまった哲学を、私たちの生きる現場に引き戻したいと思っている人が書いたんだと思って、じゃあ「声の文学」である民話をやっている私がこれを翻訳するのは、あながちミスキャストではないなぁ、と思い引き受けました。
でも哲学なんて全然わからないので、哲学に詳しい人を監修につけてもらい、一から教わりながら訳しました。「こう訳してもいい?」なんて言いながら、1 行1行進んでいくんです。頭のいい、哲学畑の人があれをサラサラって訳したんじゃなく、私の頭でもわかるように訳したから、多くの人が読んでくださったんだと思いますね。幸せな時間でしたよ、だってずっと哲学を勉強していたんだもの。
私はどんなものを翻訳するときも、最後までは読まないんですね。だってミステリー作品だったりしたら、犯人がわかって、訳す仕事がただの労働になっちゃうでしょ。全部読んでわかってると、かえって誤訳をするものなんですよ。
「自分探し狂想曲」
『ソフィーの世界』は女の子の顔のイラストを表紙にして、若い女性をターゲットにした本だったんですが、あの本に最初に火をつけたのは八重洲ブックセンターに立ち寄るビジネスマンたちで、これには編集者をはじめみんなビックリしましたね。これから日本経済はどうなるのか、日本という国は…という不安が、過去を振り返えらせたんですね。『坂の上の雲』や龍馬といい、今の歴史ブームも同じですが。
もともと向こうでも、ユーロ統合を目前にして自分たちのルーツをさかのぼろうという動きがあって、哲学本ブームの中で出てきたのがあの本なんです。小さな国が集まって統合するための基盤となる共通点は、どこにあるのか。それが宗教では殺し合いをしてきた歴史もあるからだめなの。人種や歴史に左右されないギリシャ哲学にまでさかのぼって、ヨーロッパ人の共通点を探ろうとしたわけです。
本当に嫌だったのは、「自分探し」のブーム。自分探しをしながらアルバイトで食いつないでいくんだという若者がたくさん出て、これは、安くていつでも切れる労働力をプールしておくための策略じゃないかと思いましたね。「本当の自分」なんて見つけたところで過去の自分でしかない。「自分」より、自分とはちがう「他者」を発見できたらそれで御の字ですよ。私のメッセージも「自分探し狂騒曲」にかき消されて、不幸なことにそれが的中してしまった。抵抗していたとはいえ、自分も一枚かんでしまったんじゃないか。責任はないのか…。怖いほど狼狽しましたね。
届いたチェーンメール
『世界がもし100人の村だったら』というメールが届いたのは、「9・11」が起こってすぐのことです。インターネット時代を迎えて、チェーンメールというものが民話=メルヘンと同じじゃないかと思って、観察を始めたばかりでした。
メルヘン(昔話)というのは、人の口から口へ伝わっていくうちにだんだん変化して面白くなっていくものです。チェーンメールも人から人へ伝わっていくうちに、面白く変化していくもので、面白くなければ広まんない。これは民話と同じだ、と思って研究を始めたところに、あれが飛び込んできたんです。
このチェーンメールをずっとたどっていくと、もとは90年に、アメリカのドネラ・メドウズっていう環境学者が新聞に書いたコラムだっていうことがわかって、日本でこれを教え子たちに広めた先生の存在も後でわかった。昔話研究家としてはミッシングリンクを明らかにできてとても満足していますが、1本論文を書いておしまいにしないで、あれを本にしたのは、何かアクションを起こしたかったからなの。
お金のために出版した
9・11の映像にはものすごいショックを受けましたが、それまでの私は平和とか政治とか世界とか、外の世界にまったく関心がなかったんです。その後アメリカが報復攻撃を言い出して、これはたいへん、自分も何かしなきゃと思ったんです。
それで「そうだ、あのチェーンメール、9・11の後ですごく流行ったから、きっと人の心をつかむものを持ってるはずだ」と思って、あれを本にして出版して、その印税を寄付することならできると考えた。アフガニスタンで長年、医療奉仕や飲み水の井戸を掘る活動をなさっているペシャワール会の中村哲先生に使っていただこうと思ったんです。だからあの本は、初めからお金目的だったわけです。初めは100万円ぐらい入ればいいと思っていたんだけれど、思いもかけないようなすごいことになってしまって。なにせ増刷のたび、毎週、口座に振り込まれる金額が、それまでの年収と同じ額でしたからね。
一度税金を払ってからは「100人村基金」を作って、印税はすべてそこの通帳1つに入れているの。間違って自分で使ったりしないようにね。日本には素晴らしい活動をしているNPOがたくさんあって、これがまたどこも素晴らしくお金がなくて支援を必要としている。だから増刷の知らせがくると、先に税金を計算して、入金がある前に、お金を送っちゃう。通帳の残高はいつも1000円を切ってますよ。
なぜ一介の翻訳者が
今日、出席していたのは「世界平和アピール7人委員会」の会議です。湯川秀樹さんがね、アインシュタインさんと「物理学者が作った核兵器を物理学者の責任でなくそうね」と約束して、その約束を果たすために作った組織です。なんでそんなとこに駆け出しの、まぁたまたま「100人村」が当たったとはいえ、一介の翻訳者の私がね、入ったのか。
今はもう、昔のように知識人が何かを言えば、世間がそれに耳を傾けてくれる時代ではない。私も9・11以降、多くのNPO、市民運動の海の中に浮かんで、若い人たちにいろんなことを教わりながらここまで来ました。だから今、こういう知識人の組織と、市民運動の橋渡しをする立場でならいいかなぁと思って入ったんです。
9・11であの本を出して、また私の人生の一部は大きく変わりましたね。それまでは生活のために始めた翻訳であり、これがやってみたら、性に合っていて、何日も人に会わずにドイツ語とにらめっこしているのがうれしいという、それこそ「ヒッキー」ですよ。そんな人間だった私が、皆さまとこうしてお会いしたり、こんなにしゃべったり。「出たとこ勝負」で生きていますよ。
(東京都千代田区にて取材)
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