字幕の夢を追いかけて、無我夢中でここまできた
- 戸田 奈津子さん/字幕翻訳家
- 1936年生まれ。東京出身。津田塾大学英文科卒業。
小学生のときに洗礼を受けた映画の世界を夢見て、長く映画会社での通訳の仕事などを続けた後、79年『地獄の黙示録』の字幕翻訳を担当して不動の地位を確立。
それ以降、週に1本というペースで字幕翻訳を手がけ、日本の映画文化に大きく貢献。
著書に半生を振り返った『字幕の中に人生』。
映画の世界を夢見て
映画の字幕というのは、慎重に計算された美しい映像の上に、無粋なコンピューター文字が焼き付けられています。いわば「乱暴な闖入者」なのです。皆さんは映画を観にくるのであって、字幕を読みにくるわけじゃないですよね。だからこの仕事をやっていて変なことを言うようですが、字幕というものは、読まなければ読まないほど、いいものなんですよ。
字幕の翻訳は非常に難しい仕事です。理屈よりは職人芸のようなもので、体験を重ねてインスピレーションがじわじわと身に付いてゆく。奥が深くて、行けども行けどもという感じで、だからこそ面白いと言えますね。それが予感できたから、この仕事ができるまで何十年も待ちました。そして期待通りに面白くて、無我夢中でここまでやってきました。
私がようやく映画に関わる仕事に就いたのは30歳を過ぎてからです。映画の道を志してから、10年が過ぎていました。望む仕事は「字幕」でしたが、そうは簡単に夢はかなわず、最初は思いもしない通訳をさせられ、字幕の仕事をいただいたのは、そこからさらに10年してからでした。
望みの仕事にたどり着くには、もちろん運や出会いもあるけれど、基本的には、その仕事があなたを招いてくれることはまずありません。あきらめずに精進する以外に道はないと思います。
なんでも翻訳します
大学に入り、卒業が見えてくるころには、映画の字幕翻訳の仕事がしたいと思っていました。
でも映画の世界にはまったく「つて」もないし、どうしていいか分からない。思い切って、映画の巻頭タイトルでお名前を見かけただけの清水俊二さん(字幕翻訳家)に「字幕の仕事がしたい」というお手紙を書いたんです。もう本当にそれしかないと思いつめて。お返事をいただいてお目にかかりましたが、「この世界は難しいよ」とおっしゃっただけでした。
大学の教務課にすすめられて、1度は保険会社に就職。1年半我慢しましたが、その後は「翻訳なんでも受けたまわります」というアルバイトを始めました。
周りは20代でどんどん結婚していき、30を過ぎるともうオールドミスと言われる時代でした。いまや死語になりましたが。
焼け跡の東京で映画の洗礼
生まれたのは九州ですが「出身は東京」と言っているの。九州はたまたまいただけなので。唯一東京以外で暮らしたといえば、父の故郷の四国だけです。
愛媛ではお寺の離れを借りて暮らしたのですが、蚊と蚤がひどくて、困り果てた母が見つけたのが映画館でした。蚊が少ない、町では唯一の場所だったんです。終戦から1年ぐらいして東京に戻ると、幸い世田谷の家は残っていました。
戦後の映画の人気というのは、本当にすごかったですね。焼け野原になった東京で、そのころの映画館は人が満杯でドアも閉まらない。全部開けっ放しですよ。1949年か50年、GHQが映画を解禁して、洋画がばーっと入ってきました。当時の私は小学生。映画の洗礼を受けたわけです。
新宿、渋谷、時々銀座の映画館にも出かけました。もちろんどこも満員。で、小さいころは一緒に住んでいた叔父がよく肩ぐるまをして観せてくれました。
うちは母が働いていましたが、決まったお小遣いはもらわなかったように思います。リッチじゃないから、ロードショーなんてそうそうは行けないのですよ。安い名画座とか、3本立てをよく観ていました。ヨーロッパ映画とハリウッド映画が半々ですね。各国のいい映画をたくさん観ましたよ。勤め帰りの母と新宿で待ち合わせて二人で観たりもしました。
中学に上がると英語にも興味を持ち始めました。生の英語が聞けるといったら、映画しかないわけです。場末の映画館で『第三の男』を何回も観たころからですね、英語の表現を意識するようになったのは。白黒の映像と音楽が作り出す映画というものに心底魅了されてしまいました。
英語はペケでも大丈夫
大学を卒業してそろそろ10年。清水先生にも時々仕事をいただくようになり、なかなか字幕の仕事をあきらめない私に「試しにやってごらん」といただいたのが『荒馬と女』の冒頭部分の字幕翻訳でした。マリリン・モンローの遺作です。
先生には「ああ、上手だね」と言われたものの、だからって次の仕事をもらえたかっていうとそうじゃないんですよ。「筋がいい」みたいなことを言われてすごくうれしかったけれど、ただそれだけ。この仕事は本当に「自分」の力量が問われる仕事で、徒弟制度みたいに継承できる仕事ではないんです。
洋画界へのとっかかりができたのは、映画配給会社からシノプシス(あらすじ)をまとめる仕事をいただくようになったころです。日本ユナイト映画の宣伝部長だった水野晴郎さんから、米国の本社とやりとりする膨大なビジネスレターの処理を、パートで引き受けました。これが思いがけない仕事へのきっかけになりました。『アリスのレストラン』という作品の公開に先立ち、プロデューサーの来日会見に通訳として駆り出されたんです。
もともと私は英会話なんて習ってもいなければ、外国も行ったことがないし、「まともに英語なんかしゃべった経験がない」と言っても、強引な水野さんは有無を言わせない。
初めて外国人としゃべったのがこの記者会見だったんです。すごいでしょう(笑)。当日の仕事は、今振り返るとメッタメタ、きっと単語を並べたくらいだと思う。
でもそれがものになったのは、映画のことをよく知っていたからでしょうね。英語力はペケでも、ものすごい数の映画を観ていましたから、映画監督の名前とか、あの映画はどういう映画だとか。話題と知識があれば、コミュニケーションが成り立つのです。
『地獄の黙示録』との出合い
予想もしていなかった通訳の仕事が続いて、ついに字幕翻訳への道がなんとか開けたのは69年でした。フランソワ・トリュフォー監督の『野性の少年』の字幕を頼まれたのです。しかしその後も字幕だけでは食べていけず、来日する映画人の通訳や、各社のシノプシス作りも相変わらず続きました。
そんな中で舞い込んできたのが、フランシス・コッポラ監督のガイド兼通訳の仕事でした。
彼がベトナム戦争を描く大作を撮っているという噂はすでに流れており、ロケ地のフィリピンに向かう途中、日本に立ち寄るというのです。この仕事が縁となって、その後、『地獄の黙示録』の撮影現場やコッポラ監督の自宅へも伺いました。
あの大作はとんでもない、ジンクスだらけの映画で、途中で俳優が心臓麻痺で死にかけたり、台風で全部セットが壊されたり、撮影だけで3年くらいかかっているんですよ。すでに公開前から映画界では話題が沸騰していましたね。
日本にも完成したフィルムが届き、字幕の作業が始まります。驚いたことに、日本ヘラルドは私にこの大作の字幕翻訳を依頼してきたんですよ。コッポラさんから「彼女は撮影現場でずっと私の話を聞いていたから、字幕をやらせてみてはどうか」と一言あったらしいのです。私が映画好きの子だという認識はおありになったみたいで、この幸運にめぐり合ったのです。
字幕屋としてはまだ半人前の私に、この超話題作を任せるのは、きっと大きな賭けだったでしょうけど。この仕事を境に、各社から字幕の仕事が入ってくるようになりました。字幕の道を志して20年がたっていました。
映画に今も心ときめく
先日、「午前十時の映画祭」が始まりました。私を育ててくれたような『アラビアのロレンス』や『ローマの休日』という歴史的な名作50本を選んで、日本全国25の劇場で、午前10時から上演するの。1週間に1本ずつ、年間で50本になる。選考員のおすぎと一緒に、私もサポートを頼まれたのです。
うれしいことに、これが好評で大勢の観客を集めています。そのオープニング作品が『ウエスト・サイド・ストーリー』で、私にとっては『第三の男』にも匹敵する、少女時代の思い出の作品なのですが、主演のジョージ・チャキリスさんが日本にいらっしゃったのです。
半世紀ぶりに、昔憧れたジョージ様とお会いしました。彼はあのころ20歳と言っていましたから、今では80近い。でももちろんヨボヨボじゃないし、すーっと足が上がるし、とにかく人柄がなんともいえずいい人。昨日も丁寧なメールをいただいたの。50年前の人に会って心ときめかしたり、こんなに仲良くなれるなんてまるで夢の中にいるみたい。これが映画の縁、ありがたいと思っています。
でも、会ってみれば大スターといえども普通の人間ですよ。トム・クルーズというと、別世界の人みたい、と考える人が多いんだけど、全然そうじゃない。特別視されるのは嫌いなんですよ、彼らは。それが分かってからは、どんなにビッグな人でも同じ目線で、当たり前に付き合うようになりました。彼からは毎年お歳暮をいただきますが、普通の親しい個人同士のお付き合いと同じなのです。
字幕文化の未来
アテレコ(吹き替え)はお金がかかりますから、お金がない国が字幕を使います。しかし観客からの要望で、映画を字幕で見たというのは日本だけでした。外国の俳優がそれを聞くとすごく喜ぶ。声も演技の一部ですからね。
その日本でも、字幕は後退しつつあります。10年先、字幕は決して死なないと思うけれど、すごいマイナーな状況で、九割はアテレコになっているでしょうね。これまでアテレコはディズニーのようなアニメーション作品だけだったものが、今や『ハリー・ポッター』や『ダ・ヴィンチ・コード』は言うに及ばず、マーティン・スコセッシ監督のすごい難しい『シャッター アイランド』のような大人の映画までアテレコですよ。字幕派のオールドファンには少し悲しいことですが。
10年後を大胆に予言させていただけば、映画はすべて3Dになるかもしれません。家庭用の3Dテレビが普及したら、誰も映画館でお金を払ってまで2次元の映像は観なくなる。『アバター』のジェームズ・キャメロン監督がこの間来日して言っていました。私もそう思う。
世の中はどんどん変わります。だから同じ仕事が永遠にあると思う方がどうかしているのかもしれません。若い人たちにとっては大変な時代だけど、時代の動きを見つめながら、日々、努力をし、自分の決断に責任を持つ。そうすればいつか夢は開けると思います。
(東京・広尾にて取材)
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