相手を思う礼法の『こころ』は、時代や国を超えても同じだと思います
- 小笠原 敬承斎さん/小笠原流礼法宗家
- 1966年東京生まれ。
小笠原忠統前宗家(小笠原惣領家32世主・96年没)の実姉・小笠原日英尼公の真孫。
聖心女子学院卒業後、英国留学。副宗家を経て、96年小笠原流礼法宗家に就任。700年の伝統を誇る小笠原流礼法初の女性宗家となり、注目を集める。伝書に基づいた確かな知識で門下の指導にあたるとともに、講演や執筆活動を行っている。
日本文化の一つである小笠原流礼法を伝える一方で、現代の生活とのバランス感覚も重視した礼法の普及に努めている。
著書に『「おそれいります」』(講談社)『美人の<和>しぐさ』(PHP研究所)他。
思わず「私でよろしいのでしょうか」とたずねました
平成8年に小笠原流礼法宗家に就任して今年で14年目を迎えます。700年ほど続く礼法の歴史の中で、初めての女性宗家として、振り返ると平たんな道のりではありませんでしたが、いつも私に力を与えてくれた多くの門弟たちに支えられての14年間だったと思います。
小笠原流礼法は、もともとは武士が身に付けるべきたしなみとして、室町時代に確立されたのですが、代々一子相伝として、またお止め流として伝えられていたため、一般に教授されることはなかったのです。しかしながら、先代(小笠原忠統)は、それらの封印を解き、初めて一般の方々にも礼法を広めようといたしました。
その先代から、平成6年に副宗家に就任しないか、という話がございました際には、思わず「私でよろしいのでしょうか」とたずねました。それに対して、「これからの時代、上に立つものに男女は関係ない」ということばに励まされ、就任するに至りましたが、その2年後に先代は急逝いたしました。
教壇に立つこともあった先代は、戦後、自由主義が利己主義にはき違えられたことを憂い、日本人が本来持っているはずの、相手を大切に思うこころと、そのこころを形に表した作法を広く世に広めたい、その思いで、生涯礼法の普及に努めました。その遺志を微力ながら私が継ぎ、現在に至っております。
当時、まだ1歳にも満たなかった息子を抱えて担うことになった宗家としての重責。まだまだするべきことがたくさんございますが、その分充実した毎日を過ごしております。
留学がきっかけで、礼法の道へ
「生まれながらに宗家の道が決まっていて、大変ですね」とよく言われますが、そうではございませんでした。私の祖母が先代の姉にあたり、先代と私は大叔父と姪孫の間柄。したがいまして、学生のころまでは、私が宗家を継ぐことなどまったく考えてもおりませんでしたし、むしろ子どものころは避けたい世界でした。
何しろ、小笠原の祖母の教えを受けていた父のしつけはとても厳しいものでした。今では感謝しておりますが、特に厳しく言われたのはことば使いです。祖母との面会時に会話の中で一言でも敬語が乱れた際には、帰りの車の中で必ず父から注意を受けました。敬語だけでなく、声の音量、イントネーションなどその場や状況に応じた的確な話し方をしないと、品格を損ね、相手に不快感を与えるとも教えられました。
自宅での食事中は、何かのテーマに沿って話があり、食後は必ず応接間のソファに座ってクラシックの音楽を聞く。子どものころは、こうした日常の流れを素直に受け止めることができませんでした。
その反動というわけではありませんが、海外に行きたい気持ちが高まり、専門学校を卒業後、イギリスに留学いたしました。ところが、それが皮肉にも礼法の道に進むきっかけとなったのです。
当時はバブル全盛期で、日本からの留学生が1番多かったのですが、残念ながら、誇りと自信を持って自国の文化を伝えたいと思う人は、私を含めて誰一人いませんでした。
そのような中で、タイからの留学生がたった一人で目を輝かせながら、自国の料理や舞踊を紹介してくれたのです。その姿を見て、国際交流はまず自国の文化を理解し、誇りを持って他者に伝えられることが大切なのだと強く思いました。そのとき、初めて自らの意志で、礼法を学びたいと思ったのです。
帰国後、先代には礼法の基礎から指導を受けました。毎日7、8時間、部屋にこもって礼法に関する伝書を読んだり、歩き方の練習をしたり。伝書は古文で書かれていますので、それを読むだけでも大変でした。まさに猛特訓の日々でしたが、それがあったからこそ、今日があるのだと深く感謝しています。
何にもとらわれない「無心」が礼法の基本
回り道のようですが、生まれながらに宗家の道が決められていなかったことが、今ではプラスになっているような気がいたします。中学、高校はテニス部に所属し、真っ黒に日焼けしながらテニス三昧の日々を過ごすなど、自由な学生生活でした。多くの友人もできましたし、当時のさまざまな経験が、現在、あらゆる角度から礼法を伝えていきたいという思いにつながっているのです。
幼稚園からカトリックの学校に通っておりましたが、宗家に就任したときに恩師から「学校で学んだことも生かせますね」とのおことばを頂戴いたしました。キリスト教も自分のためでなく、まず他者の幸せや喜びを願うことが教えですし、礼法にも同様の考え方が根底に流れています。
祖母は礼法だけでなく、人間としての生き方をも教えてくれましたが、1番大切にしていることばは「無心」です。小学生のときに初めて祖母から教えられたときには、まだ大きな欲もありませんから、「無心」になることがそんなにも大変なのだろうかと思ったのを記憶しています。しかしながら、年を重ねるにつれ、何事にもとらわれないことの難しさを痛感いたします。見返りを求めない「無心」は礼法の基本であり、できる限りその境地をめざして参りたいと思います。
小笠原の家に生まれた祖母は、結婚して3人の子どもを育てた後、仏門に入り、荒廃したお寺を復興いたしました。ある日、そのお寺に泥棒が入ったのですが、包丁を突きつけられた祖母はまったく動じず、一晩かかってその人を諭し、警察に自首させたそうです。そのような動じないこころを、どのような状況下においても持ちたいものです。
また、先代からも本当に多くのことを学びました。晩年は外出の際に同行することが多く、テレビの収録などでスタッフの方々と食事をすることも何度かございました。そのようなとき、先代はずいぶんと作法を略して、カジュアルに食事を進めておりました。その後、楽屋に戻った先代は「一つだけ、作法を守り通していたことがある。何だと思う?」と。それは、汚れた箸先が同席者の目に入らぬよう、お箸の汚れを箸先3センチ以内にとどめる、ということでした。みなさまが気楽にお食事できるようにと、何も作法を気にしていないように振る舞いながらも、最低限、相手に不快感を与えないように心掛ける。これを礼の省略と申しますが、基本が身に付いているからこそ、できることです。
さて、礼法は堅苦しいと思われることが多いのですが、誰もが不快を感じないための一つの基準が作法なのです。あらゆる作法をすべて身に付けた上で、10 必要なときもあれば、7割程度にとどめておくことで相手に心地良い空気を与えることもある。状況に応じて、何が必要かを的確に判断することが重要です。そのためには、まずこころを磨くことが大事であると、指導しております。
こころが形に表れる。こころがないと形も存在する意味がありません。だからといって、その表現が自己流ですと、たとえ相手のことを思って振る舞ったとしても、その思いが伝わらない場合がございます。そのような誤解をなくし、コミュニケーションを円滑にするための一つのツールが礼法なのです。
「遠慮」とはまず先に相手にこころを馳せること
作法の基本の一つに「姿勢」がありますが、正しい姿勢は背筋を伸ばしながら、肩や首などに余計な力が入っていない、自然な美しさを重んじます。さらに表情も姿勢の一つ。初対面の場合は、長くても最初の15秒程度で印象が決まるといわれています。目元や口元も笑っているやさしい表情が相手を和ませますが、相手が素敵な笑顔ならば、それは自分も笑顔でいることを示す。つまり、お互いが鏡なのです。
さて、礼法の伝書を読むと、室町時代から、相手を大切に思う「こころ」はほとんど変わっておりません。武士は、一つの粗相でも自ら命を絶たなければならない厳しい室町時代、無礼講の宴席では、若い人も積極的に場を盛り上げるべきとも説かれています。このように、いつの時代であっても、臨機応変な振る舞いが礼法には欠かすことができません。
また、礼儀作法というと、下の立場の人から目上の人に対するものと思われがちですが、上の立場にある人の心構えも説かれています。最近は、男性もビジネスマナーを学ぼうと、入門する方が増えて参りました。もとは武士の礼法ですので、男性の方にも広めていきたいと思っています。企業や学校などでご指導する場合は、メールの書き方や訪問の心得など、身近なところからお伝えするように心掛けております。
ビジネスの場において、例えば海外の方との交渉の際、まず自分の意思を伝えることが大切だという声もよく耳にします。しかしながら、思ったことをストレートに伝えるのみではなく、相手がどう思うかを考えることにより、さらにこころの交流ができるのではないかと思えてなりません。
騎士道から生まれたプロトコール(国際儀礼)は、国と国とが円滑に交流できるようにと考えられたことです。したがって、海外においても「こころ」は存在いたします。お互いに人間関係を円滑にしたいと思うこころは、礼法と同様なのです。
例えば、あいさつの際、海外では握手、日本ではお辞儀をいたしますが、それぞれの理由は同じです。握手は手を差し出すことによって、武器を持っていないことを示し、お辞儀は自分の急所である頭を相手に傾ける。つまり、あなたには敵意がありません、という意味なのです。さらにお辞儀は状況に応じて深さが異なります。
さて、日本人の美しさの根底にあるもの、それは「慎み」だと思います。よく日本人は「イエス、ノー」をはっきり伝えないといわれますが、それは単に曖昧というわけではありません。「遠慮」という言葉は、「遠くをおもんぱかる」と書きますが、まず自分のこころを先に馳せ、相手にこころを傾けること、それによって遠慮は成り立ちます。相手のことを10思ったら、自己は6割程度に抑制しておく。それは決して我慢ではなく、相手を大切に思うことによって、最終的には、自分も幸せな気持ちになるわけです。このような慎みのこころが、日本の美をつくってきたのではないでしょうか。
しかしながら、残念なことに昨今はその気持ちが薄らいでしまう傾向にあり、自己中心的な人が増えているように思います。次世代の子どもたちの、本来手本となるべき大人たちの心が荒廃してしまっている。だからこそ、日本人の慎みや相手を思うこころと形を、一人でも多くの方にお伝えしたいのです。その思いで、今年はますます礼法の普及に尽力して参りたいと存じます。
(東京都千代田区の小笠原流礼法宗家本部にて取材)
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