私にとって引越しはデトックス。マンションも今年が買い時かもしれませんね
- 辛酸 なめ子さん/漫画家・コラムニスト
- 本名:池松江美。1974年埼玉県出身。
武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。
94年GOMES漫画グランプリでGOMES賞を受賞(審査員は吉本ばなな氏)。
アート、漫画、エッセイ、TVなどさまざまなジャンルで活躍中。
著書に「消費セラピー」(集英社)、「開運修業」(講談社)、「片付けられない女は卒業します」(メディアファクトリーから6月文庫化)ほか多数。
公式ブログ「女一人マンション」。
地味で目立たない小学校生活でした
子どものころから漫画はよく描いていましたね。ストーリー仕立てにしたものをホッチキスで止めて本にしたり。今よりずっと長編漫画で、ヨーロッパ貴族の恋愛ものとか。でも、両親とも教師だったのでしつけがものすごく厳しくて、「小学○年生」という学年誌の漫画しか見せてもらえなかったんです。その上、子どもに見せたくない記事には墨が塗られ、テレビのドラマでもラブシーンが始まると、両親がテレビの前に立ちはだかる。情報が制限された分、逆に妄想力はかなり鍛えられました(笑)。
父の仕事の関係で引越しが多くて、幼稚園で1回、小学校で2回転校。
もともと内向的な性格だったので、転校ばかりで友達もあまりできず、いつも家の中で本を読んだり、漫画を描いていたんです。そのころは、住んでいた埼玉の気質なのか、体力至上主義みたいなところがあって、運動ができる子がクラスでも1番の人気ポジション。運動がまるでダメな私は、地味で目立たない小学校生活でした。
このまま埼玉の中学校に行けばいじめの対象になると思った私は、私立の学校に行きたいと親に頼み、受験勉強を始めました。泳ぐことも苦手だったので、プールのない学校を選んで。小学校の高学年から塾に通い始め、漫画を描くことも親から禁止され、勉強ばかりしていましたね。そのころ、友達と交換日記をしていたんですが、その日記にも「勉強の邪魔をしないで」と親が勝手に書き込んだりしたことも。それでも腹が立つより、とにかく埼玉の学校に行きたくないという一心だった気がします。
中学校時代は、同級生にはお金持ちの家の子が多くて、何となく格差を感じることが多かったんです。お小遣いの額も全然違うし、学校の帰りに寄るのも表参道とか原宿のカフェ。友達は高い飲み物も平気で頼んでいるのに、私はお金がなくて水だけ。でも、そのときの体験が今のセレブを見る庶民的な視線につながっているのかなと思いますけど。
グラフィックデザイナーに憧れたものの…
高校生のころ、なりたいと思っていたのはグラフィックデザイナー。横尾忠則さんに憧れて、デザインの仕事を軸にいろんなアートの活動に関わっていけたらなって。本当は、中学受験でも美術系の学校を候補に入れていたんですが、親は「美大に行って、将来どうするの」と大反対。いい学校に行って、いい企業に就職することを両親は期待していたんです。そこで、自分で作った文化祭のパンフレットや修学旅行のしおりのイラストや、仕事の実績を見せながら2年がかりで親を説得し、やっと美大受験の予備校に入ることを許してもらいました。
高校の授業が終わってから、夜間の予備校に通い始めたんですが、基本的に親は反対なので、お小遣いもなくなり画材代も払ってくれなくて。予備校でデッサン用のモチーフを設置したり片付けたりするアルバイトをしながら、なんとか画材代を捻出していました。
やっとの思いで武蔵野美術大学短期大学部デザイン科に入学。
ところが、当時はまだパソコンもそんなに普及していなかったので、デザインの仕事はほとんど手作業。ミリ単位で文字を動かしたり、ムラなく色を塗ったり。緻密な作業が苦手な私には、グラフィックデザイナーは向いていないことを痛感。
短大に通う一方、家にあったマックのハイパーカードというソフトを使って、簡単なゲームやアニメーションの作品を作ったり、漫画やイラストも描いていました。父がパソコンマニアで、私が小学生のころから家にはパソコンがあったんですよ。高校3年生のとき、父が仕事でケガをして、そのお見舞い金で当時まだ高かったマックを買ったんです。でも父はゲーム用にしか使っていなかったので、私が使わせてもらって。パソコン通信とかで月々の電話代がかなりかかって大変でしたけど。
そんなころ、学校内に張ってあった募集チラシを見て、フリーペーパー作成のお手伝いを始めることになりました。すでに活躍し始めていた村上隆さんや立花ハジメさんなどアーティストの方にインタビューをして、原稿を書いたり。そのうち、自分の作品をプロの方に見てもらえる機会があって、少しずつ仕事が増えていきました。
「辛酸なめ子」が生まれた理由
その後、高校のときから愛読していたパルコのフリーペーパー「GOMES」の漫画賞に応募して、GOMES賞を受賞。それを機に、雑誌の連載などいろいろと活動が広がっていったんです。Webサイトで「女一人日記」も作り始めたり。まだブログなんて名前もないころ、簡単に作れるソフトもなくて、知り合いの人にインターネットのつなぎ方を教えてもらって。まだマルチメディア自体が新しい媒体だったから、私の作品も面白がられたんでしょうね。
「辛酸なめ子」というペンネームを初めて使ったのは、高校生のとき。友達と「小西新聞」という新聞を作っていて、私はその中で針金のアート作品を作るコラムを担当していたんです。結構自由な校風で、学校の印刷機も好き勝手に使わせてもらえました。廊下に棚を作って、誰でも持ち帰り自由。受験が近くなって自然消滅しちゃいましたけど。
「辛酸なめ子」は「辛酸をなめる」の慣用句からの思いつき。高校時代、いつも見た目が薄幸そうだって言われていたんですよ。顔色が悪くて、友達のお母さんからも「あの子大丈夫?」なんて言われたり。学校の活動の1つに「あしなが育英会」の募金活動があったんですが、駅前に立っているとなぜか私のところだけ、いっぱい募金が集まって(笑)。知らないおじさんが、「これでおいしいものを食べなさい」ってお金をくれたり。そう見られるのなら、それをペンネームにしてしまおうと。今思えば若気の至りです(笑)。
格安マンションから始まった一人暮らし
26歳のとき、思い切って中古の格安マンションを購入し、念願の1人暮らしが始まりました。実家では妹と同じ部屋だったので、夜遅くまで仕事ができないし、仕事場への通勤ラッシュもだんだん体力的に厳しくなって。埼玉から東京に引越したいとずっと思っていたんですが、当時は収入も少なくてとても高額な家賃は払えないし、5万円ぐらいの家賃では、ボロボロのアパートに住むしかない。そう思っていたある日、雑誌でマンションの特集記事を読み、女性でもマンションが買えるんだと勇気が湧いたんです。
そこで、不動産屋さんに1000万円以下のマンションを探してもらい、720万円の物件を購入。安い分、部屋の間取りが北向きで、駅からも遠いという不便さはあるけれど、やっと自立できてうれしかったですね。
ところが、狭い部屋にだんだん書類や荷物が溢れるようになり、足の踏み場もない状態に…。精神的にも殺伐となって仕事にも集中できなくなってきて。ちょうどそのころ、たまたまふらっと入ったマンションのモデルルームを気に入って、購入を即決。厄年を機にすべてを清算したい。古い部屋から新しい部屋に引越したいと思ったんです。一種のデトックスですよね。
でも、引越しがまた大変。誰も呼べないほど汚い部屋なので手伝ってくれる人もなく、1人で詰めた荷物が段ボール40箱。おまけに不要品を処分しようと業者の方に頼んだら、処分代だけでなんと20万円もかかってしまって。それでもやっと「片付けられない女」から卒業できて、今はとても快適な毎日です。
最近は、不況の影響で新しい物件を購入することをためらっている方も多いと思いますが、低金利で不動産価格も下がっている今年は買い時かもしれませんね。こういう状況だからこそ、いい物件が見つかるかもしれません。中古マンションを購入するときは、建物だけでなく、駐輪場が荒れていないかなど、管理が行き届いているかどうかも要チェック。購入する前に、よく調べることが大切だと思います。
好きなのは、性格の悪いセレブ系(笑)。
今は月に連載が20本ぐらい、その間に単発の仕事もあって、いつもワーカホリック状態。休みたいという欲求もないし、時間があったら1つでも仕事を終わらせないと、という感じですね。気分転換はアロマやマッサージ。疲れがたまったら行くんですが、マッサージにはかなり投資しています。
記事のネタ探しのために、新聞や雑誌、電車の中の中吊り広告なんかもいつもチェックしてますね。取材ノートとデジカメも持ち歩いて。
10年くらい前、アイドルグループ「SPEED」にものすごくハマった時期があって、雑誌にアイドルについてコラムを書いたら、だんだんそういう仕事を頼まれるようになって。アイドルについてはかなり辛らつなことも書いているので、時々罪悪感にかられることも…。私自身ずっと女子校だったので、自分の中の男性目線で書いている気がします。中学生男子のくだらない突っ込みみたいな感じで(笑)。異性関係に厳しかった親の影響で、いまだに男性の気持ちはよく分からないんですけど。
個人的に好きなのは、性格の悪いセレブ系(笑)。
以前、パリス・ヒルトンを取材したときも、何時間も待たされたのに、逆にパリスらしいなんてうれしくなったりして。日本人ならすぐに謝って恐縮してしまうのに、パリスは少しも悪びれず堂々としている。自由でいいなと思いましたね。
そんな私ですけど、読者の方から「絵を見て癒された」とか言われると、自分でも意外だけどうれしいですね。少しでも世の中の役に立っている気がして。独特の感性とよく言われますが、小さいころから漫画や情報のインプットが少なかった分、誰かに影響されることもなく、それがかえって良かったのかもしれません。
ただ、子どものころからいつも図書館に通って、本は手当たり次第読んでいましたね。中学、高校のころはフランスの恋愛小説に憧れ、好きな作家は川端康成とかボーボワール。近代までの小説の方が内容も濃厚だった気がします。最近の本は軽い感じがしてしまって。私自身も小説を書いているので、偉そうなことは言えませんが。
最近、片桐はいりさんを主演にしたミニドラマの脚本、監督をしたんですが、それがすごく楽しかった。たった15分の作品なのに、朝8時に現場に入って、撮り終えたのは夜中の2時。つくづく、ドラマや映画の業界の人たちはすごいなと尊敬の念が湧いてきました。
これから、そういう初めての仕事にもどんどんチャレンジして、仕事の幅を広げていきたいと思います。出版業界の不況もなんとか乗り越えたい。そんな気持ちで、今は仕事が続けられるだけでありがたいと思いますね。
(東京都千代田区の松本楼にて取材)
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