好きな歌を歌い続けたい、夢を持ち続けることが大事ですね
- 中村 美律子さん/歌手
- 1950年大阪府出身。86年「恋の肥後つばき」でデビュー。
89年「河内おとこ節」が大ヒット。
92年以降、紅白歌合戦に過去12回出場。
93年の「壺坂情話」をきっかけに盲導犬育成支援の会を発足。
05年、第8回まちかどフィランソロピスト賞受賞。
「雲の上の青い空~中村美律子物語」ほか舞台にも多数出演。
08年9月新曲「女の旅路」発表。
歌で人気者だった 「お風呂屋のみっちゃん」
36歳でデビューして今年で22年になりますが、小さいころから歌一筋の人生でしたね。とにかく歌うことが大好きで、いまだに街で買い物しながら、つい歌を口ずさんでしまうんです。子どもから「恥ずかしいからやめて」って言われますけど(笑)。好きな歌をずっと歌い続けられて、本当に幸せだなと思います。
子どものころから、歌手になるっていうのが夢だったんですけど、私の歌好きは、父親の遺伝かもしれませんね。父は銭湯のボイラーマンで、いつもお風呂を焚きながら、ラジオをかけて鼻歌を歌ってました。私も掃除のお手伝いをやらされてましたから、よくお風呂で歌ってたんですよ。お風呂の中で歌うと、天然エコーがかかったみたいで上手に聞こえるんです。それが気持ち良くてね。ラジオから流れてくる歌を聞くと、すぐに覚えて歌ってました。きょうだい5人もいるのに、なぜか私だけ。よっぽど歌が好きだったんでしょうね。
母も同じ銭湯に勤めていて、脱衣所の掃除をしたり、赤ちゃんを連れたお母さんのお世話をしたり。優しい気性で、みんなから「おばちゃん、おばちゃん」って慕われてました。銭湯が終わるのは夜の12時。だから、両親は毎日遅くまで働いて、私が朝学校に行くときにはまだ寝てる。すれ違いの生活でしたけど、いつも近所にいるという安心感はありましたね。
東大阪の下町でしたから、そのころの銭湯はご近所の人が集まって井戸端会議をしたり、コミュニケーションの場だったんですよ。そのお客さんの前でいつも歌ってたんですけど、そのうち「お風呂屋のみっちゃんは歌がうまい」って評判になって。近所を歩いていると、「18番聞かせて」って呼び止められて、みかん箱の上に乗ってよく歌ってました。当時貴重品だった卵とか、飴玉とかお駄賃をもらって、結構稼いでましたけど(笑)。
「河内音頭」で鍛えられた喉
小学校2年のときに、父が応募したのど自慢コンクールに出場して、優勝したんです。そのときに伴奏していたアコーディオンの先生が、自分の歌謡教室にレッスンに来ないかと誘ってくださって。そんな余裕は家にはなかったんですけど、月謝も安くしてもらって、それから歌のレッスンに通い始めました。私は若い人が歌う歌謡曲より、美空ひばりさんとか島倉千代子さんとか演歌が好きでしたね。誰にも教えられなくても、こぶしがコロコロ回ってましたから、生まれつき演歌を歌うようにできていたんだと思います。
そのころから、父は私を歌手にしたいと思っていたらしく、当時はものすごく高かったテープレコーダーを買ってくれました。ほかのきょうだいからは「なんでみっちゃんだけ?」って言われて大変でしたけど。父にとって私は自慢の娘で、どこに行くにも私を連れて行きましたし、歌を誉められるとうれしくてしょうがなかったみたい。そんな私たち一家に突然の悲劇が襲ったのは、私が中学校3年のときでした。母が急な病で亡くなり、きょうだい5人、別々に暮らすことになったんです。姉は親戚の美容室に住み込みで働きに行き、弟妹3人は京都のおばさんの家に引き取られ、私は近所の歌好きなおじさんのところで面倒を見てもらうことになりました。
そのおじさんは、河内音頭が大好きで、夜になるとおじさんが太鼓を叩いて、私が歌う。毎晩宴会が始まるの(笑)。盆踊りでも、やぐらの上で、初めて歌わせてもらいました。でも当時は、女性がやぐらの上で歌うなんて不良だと思われていたんです。そのうち、プロの歌手と一緒に河内音頭を歌うようになって、夏になると一晩で3~4カ所も盆踊り会場を回るんですよ。女性で珍しかったのか、私が歌い始めると、お客さんたちは踊りをやめて、歌を聞きに集まってくるんです。河内音頭の口上に自分なりのアレンジをちょっと入れて。伴奏は太鼓だけですから、最初の一声で自分のキーを決めなくちゃいけない。でも、私の後に歌う人は、みんな男性ですから、キーが合わなくて泣いてましたね(笑)。申し訳ないと思いながらもおかしくて。楽しい思い出です。
キャバレー回りから「紅白」出場へ
高校を卒業したころに父がうどん屋を始めて、また一家で一緒に暮らせるようになりました。私はとにかく歌い続けたいと思い、ヘルスセンターやキャバレーを回って歌っていました。そのころは、コピーもなく、手書きの譜面が財産でしたから、もうボロボロになった譜面を持ち歩いて。キャバレーでは、お酒を飲みに来たお客さんの心を引きつけないといけないし、単なるBGMでは歌いがいがない。だから、「無法松の一生」とか迫力のある男歌を歌うようになったんです。キャバレー回りで、歌の心などずいぶん勉強になりましたね。
でも、30歳を過ぎてこのままいったら、私には歌う場所がなくなってしまうんじゃないか、とだんだん不安になってきたんです。歌手としてメジャーデビューすることも、もうあきらめかけていたし。それで、浪曲の勉強を始めたんですよ。浪曲師ならずっと歌い続けられる、そう思って紫綬褒章を受章した春野百合子師匠に弟子入りしたんですが、これがまたものすごく難しかった。浪曲は三味線一つで、何役も演じ分けるわけですから、いわば一人ミュージカル。浪曲を勉強したおかげで、表現力も幅広くなった気がします。ところが、不思議なもので、やっと浪曲師としてやっていけるかなと思ったころ、メジャーデビューすることになったんです。私の噂を聞いた大阪の音楽事務所の人から、ぜひレコードを出したいと。その事務所では、演歌を扱うのが初めてで、絶対ヒットさせたいと必死だったんですね。それで、なんと私のために「演歌一夜」というテレビ番組まで作ってくれて。深夜12時から30分枠。最初はほんの米粒ぐらいだった視聴率が、ジワジワと上がってきて、結局5年半も番組を続けることになりました。番組の視聴率と同時に、私のレコードもだんだん売れ始め、3枚目の「河内おとこ節」が大ヒット。
最初に「河内おとこ節」をいただいたとき、石本先生が本当に私のために書いてくれた歌詞なんだと思って、すごくうれしかったんです。この曲で絶対全国区になるぞっていう、意気込みはありましたね。でも、関西から全国区になるには、川の流れを遡るようなものですから、時間がかかるんですよ。いつの間にかNHKの「のど自慢」で歌われるようになって、気が付いたら、「紅白歌合戦」にまで出られるようになっていたんです。
この曲で、「紅白」に初出場したときはホントにうれしかった!全国のみなさんに大きな名刺を渡したような気分でしたね。父は残念ながら、もう亡くなっていましたけど、きっと天国の特等席で見てくれていたと思います。
まちかどフィランソロピスト賞」受賞
一時は歌手デビューもあきらめていた私が、まさか「紅白」に出られるなんて、夢にも思っていなかったですから、本当に皆さまが応援してくださったおかげだと、感謝の気持ちでいっぱいでした。その感謝の気持ちを何かお返しできないかなと思って始めたのが、盲導犬育成ボランティア。
「紅白」の翌年、「壺坂情話」という曲をいただいたんですが、これが目の不自由な夫を支える妻の気持ちを歌った歌なんですよ。それで、何か形にするなら盲導犬が1番いいんじゃないかということになって。でも、1頭の盲導犬を育てるのに、300万もかかるんですね。最初は続けられるかなと思ったんですけど、平成6年から盲導犬の寄付を始めて、もう29頭育ちました。
3年前に、この活動を認めていただいて、「まちかどフィランソロピスト賞」をいただいたんです。受賞のお電話をいただいたとき、「それ何ですか?」って思わず聞いてしまいましたけど(笑)。
盲導犬のユーザーの方からお手紙をいただいたり、コンサートに来てくださったりすると、すごくうれしいですね。皆さまへの感謝の気持ちで始めた活動ですけど、それが自分の励みにもなっているんですよ。これからも、もっともっと歌い続けていきたいですから、そのためにも頑張らないと。
「瞼の母」のステージで「雪が見えた」
最近は、歌だけでなくお芝居の舞台もやらせていただくことが多くなりました。最初は台本を覚えるのも大変だったんですよ。でも、1回舞台に出ると、もっといろんなことにチャレンジしてみたいっていう欲が出てくるんですね。
お芝居をさせていただいたおかげで、歌に対する姿勢や表現の仕方も変わったような気がします。ただ歌詞だけを追うんじゃなくて、自分の中でストーリーを作りながら歌うようになりました。
「瞼の母」という曲の中に「雪が散る」という歌詞があるんですけど、ある日、コンサートの後にお客さまが「みっちゃん、今日、雪がすごい降ってるのが見えたよ」って言ってくださって。飛び上がるほどうれしかったですよ。自分の中でイメージしていると、お客さまにもちゃんと伝わるんですね。
舞台は、声の出し方も歌とは違いますし、体力もいりますから、だんだんハードになってくるんですよ、年齢とともに(笑)。それで、6年前からトレーナーの方に教えてもらって、シェイプアップ体操を続けています。三日坊主ですけど、これだけは続いてますね。続けていると、少しずつ変化が見えてくる。何事も続けないとダメですね。歌も同じ、ずっと歌い続けてきたからこそ、いろいろな人との出会いがあって、ここまで来れたんだと思います。歌が好きだから、やめようと思ったこともないし、辛いことも我慢できた。人は誉められると伸びるって言いますけど、私の場合悔しい思いをしたときのバネはもっと大きかったと思います。何があっても歌い続けたい、その信念があれば、へこんでなんかいられませんから。
何でもいいから、夢を持ち続けることが大事だと思います。そうすると不思議と夢に向かって動いていくんですね。私は休みの日でも前の日からあれこれ予定を立てるんです。みんなから「休みぐらいじっとしてて」って言われますけど。子どものころから元気が取り得でしたから、これが私のリズムなんでしょうね。
私の歌を聞いたり、舞台を観てくださったお客さまから、「ものすごく元気をもらったわ」って言っていただくと、本当にうれしい。そういうファンの方から、私も元気をもらうんです。長生きして、120歳まで現役で歌い続けること、それが目標ですね(笑)。
(大阪市西区のファンクラブ事務所にて取材)
(無断転載禁ず)