Ms Wendy

2008年8月掲載

『自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の言葉で紡ぎ出せる子どもを育てること』
-それが世の中を変えると思います

山根 基世さん/「ことばの杜」代表

山根 基世さん/「ことばの杜」代表
1948年生まれ。
71年、早稲田大学文学部卒業後、NHKに入局。大阪局勤務を経て、東京アナウンス室に在籍。
「関東甲信越小さな旅」「はんさむウーマン」「土曜美の朝」「ラジオ深夜便」など数々の番組を担当。
2000年、第26回放送文化基金賞受賞。
05年、NHK初の女性アナウンス室長に就任。
07年、NHKを退職後、有限責任事業組合「ことばの杜」設立。
CS放送のチャンネル銀河「郷土料理が呼ぶ 二泊三日 女二人旅」出演中。著書に『であいの旅』(文春文庫)『「ことば」ほどおいしいものはない』(講談社文庫)ほか多数。

昨年、NHKを退職するまで、36年間ずっと言葉に関わる仕事をしてきましたが、私は最初からアナウンサーになりたいと思っていたわけではないんです。とにかく働いて、経済的に自立しなければと思っていたので、それならNHKがいいだろうと。とても不純な動機なの(笑)。

なぜか、小さいころから自分の将来の姿は仕事をしているイメージしか浮かばなくて。きれいな花嫁衣装を着て、お嫁さんになりたいなんて1度も思わなかったですね。それは、女性でも仕事を持ったほうがいいと考えていた母の影響が大きかったのかもしれません。

「悪ガキ」から「いいお姉ちゃん」に大変身

私が生まれたのは四国の山の中。ちょうどそのころ、公務員で土木技師だった父は四国でダムを作っていたんです。私はとても体が弱くて、何度も死にかけたらしく、母はいつも私をおぶって、町の小さな病院まで通ってくれたそうです。

ある日のこと、高熱を出して、お医者さんから「もう今日が峠です」と言われたんです。炎天下を病院から帰り、汗だくになった母は川でオムツを洗い、家に戻ると座敷に寝かせていたはずの私がいない。真っ青になって探すと、なんと隣室のちゃぶ台の上にあった水薬を、仁王立ちになってグビグビ飲んでいたんですって。まだ、ハイハイしていた1歳のころですよ。おかげで、すっかり蘇ったらしい(笑)。

よく「三つ子の魂百まで」っていうけど、私の場合は「一つ子の魂60まで」ですねえ。

その後、3歳で山口に引っ越したんですが、いたずらばかりする悪ガキに成長して。男の子を川に突き落としたり、タクシーに石をぶつけたり。運転手さんがすごい剣幕で怒ってきて、思わず母の後ろに隠れたのを、今でも覚えています。

ところが、7歳のときに妹が生まれて、突然いいお姉ちゃんに大変身。妹のオムツを替えたり、離乳食を作ったり。誕生日に犬のぬいぐるみを作ったりしたことも。今も妹とはとても仲が良くて、お互いに頼りにしていますね。

私は父に肩車してもらうのが大好きで、山口の言葉で「びんぶく、びんぶく」っていつもせがんでました。そうすると父はわざと私のボーイフレンドの家の前に行こうか、なんていじわるを言ったり。父には1度もしかられたことがないし、子煩悩で優しい人でした。

理想の母親像とかけ離れた母との確執

その後、大学は早稲田に入学。経済的にも国立でなければダメだと言っていた母も、1年浪人して、国立は無理と悟って早稲田入学を許したわけ。東京に出たときは本当にうれしかった。

実は、私は1刻も1秒でも早く実家を出たいとずっと思っていたんです。

私にとっては、家は帰りたくない場所だった。それは、母親との確執が大きかったですからね。

母は、おしゃれで外交的で、外から見れば「魅力的で素敵なお母さん」。でもいわゆる「良い母親像」とはかけ離れていた。例えば、お饅頭が家族4人分あるとすると、真っ先に1番大きいのを取るような母だった。妹が結婚して子どもが生まれても、なかなか会いに来ようとしない。そのころは地元で俳句の会の会長をしていたので、子どもや孫のことより自分の生きがいが大事だったのかもしれない。  第三者から見れば「面白い人」で済むかもしれないけど、自分の母親となるとそれは許せないんですよ。まあ「岸壁の母」とまではいかなくても、自分の身を削っても子どものために尽くすのが母親なんじゃないかって。

心の中で母を責め、いつも苦しかった。

それは母も同じで、もしかしたら、母も私たちを愛そうと努力していたのだと思いますよ。私が小さいころは、婦人会で勉強してきたケーキを焼いたり、遊びに行く前の日には徹夜で洋服を縫ってくれたり。私も親孝行な面もあって、大学時代、なけなしのお小遣いで買ったカーディガンに刺繍をして、プレゼントしたこともあったし。それでも母に対しては、愛憎ともに深くて、あのときこう言われたとか、長い間の心の葛藤からいまだに自由になれないですねもともと母は、毛利家の家老に匹敵する家柄に生まれたんですが、当時は男尊女卑の考え方が強く、男の兄弟は大切にされたのに、末っ子の母はひどい扱いだったらしいんです。その話を聞いたのは、私が40歳を過ぎたころ。そのとき初めて私は、母の原点が分かったような気がしました。子どものころの悔しさや世の中に対する怒りが、ずっと心の中に渦巻いていたんだなって。  だからこそ、母にとっては、仕事をしている私の姿が生きがいでもあったんです。でも、それが私は嫌だった。たまに山口に講演の仕事で帰ると、母は必ず聞きに来たがる。でも私は「絶対来ないで」といつも大喧嘩。もしかしたら、似た者同士でお互いにわがままなだけかもしれませんが(笑)。

昨年、父が亡くなって母もすっかり弱ってしまいましたが、その母の面倒を今いとこが見てくれているんです。彼女は「親子じゃないからできるのよ」って言ってくれますが、本当に有り難いなと思います。もし彼女がいなければ、私も東京で仕事を続けることはできなかったですから。

演劇の道から アナウンサーへ

早稲田には稲門会という出身地別の校友会があるんですが、当時山口の防府から女性で早稲田に入ったのは、私一人だけだったんです。防府稲門会では、私は女王様だったの(笑)。そして、その会の先輩から勧められて、演劇部に入ることに。でも、当時は不条理演劇の全盛期で、芝居もさっぱりわけが分からないものが多かったのですが、私はチェーホフとかオーソドックスな芝居をする劇団に入ったんです。1年ほどの間ですが、みんなで本読みをしてセリフの意味や演技について語り合う、その時間がすごく楽しかったですね。

本当は演劇の道に進みたかったんですが、演劇をしていると授業に出られず卒業もできない。親にも諭され、泣きの涙で演劇をやめました。そして、女性が定年まで働ける職場を、と考えてNHKに入局したわけです。

ところが、アナウンサーになったら、これがまた大変でした。何しろ専門能力も技術も何もないのに、入ったその日からアナウンサーの肩書きがつくわけですから。数行のコメントを読むだけで何回もとちるし、やっとできたと思ったら「下手だねえ」と吐き捨てるように言われて。もう情けなくて、悲しくて。アナウンサーが死にたくなる気持ちはよく分かるの。それに、テレビ画面に映るときは、普段の自分より1オクターブテンションを上げて、明るく元気な「ふり」をしているのが大変なんです。特に私は、若いころ感情の起伏が激しかったから、なおさらでしたね。

女性初のアナウンス室長 として組織改革

それでも10年ぐらいたって、やっと技術が身に付いてきたなと思ったら、今度は男性社会という組織の壁が立ちはだかってきて。NHKは、給与など制度上の男女差別はほとんどないんですが、私が入局した当時はかなり差別意識がありましたね。女性は実況研修に行けなかったり、採用数も男女比が全然違う。やっと昨年、女性の採用が3割を超えたぐらいですから。

そういう中で、2005年、女性初のアナウンス室長に就任しました。最初にお話をいただいたときは、まさに青天の霹靂。それまでは、さまざまな管理職を経た男性陣が室長になるのが通例でしたけど、私は何の経験もない。でも、若いころからNHKの中でアナウンサーたちが正当に評価されていないという憤りがあったので、それを変えていきたい、という思いもあって引き受けたんです。

アナウンス室長の大きな仕事の一つに、全国に約500人いるアナウンサーたちの人材配置があります。組織を活性化するために、それまでほとんど異動がなかった女性たちにも地方に出てもらったり、インタビューの場数を増やすためにインタビュー番組を新たに作ったり。さらにアナウンサーを解説委員や海外特派員に出す仕組みを作ったり。自分で言うのもおこがましいけど、2年間である程度納得のいく結果を出せたと思っています。

それはもちろん私一人ではなく、周りの人たちのサポートがあってできたこと。新しい仕組みを作るためには、今どう動けばいいのか、教えてもらったら素直に、即行動しました。逆に何も知らないからこそ「ダメもとでやってみようよ」なんて、挑戦する気になったんだと思います。初めてのことばかりでしたが、面白かったですね。

子どもたちの 話し言葉を育てたい

昨年、NHKを定年退職し、有限責任事業組合「ことばの杜(もり)」を立ち上げました。そのきっかけは、アナウンス室長時代のこと。ちょうど2005年ごろのNHKでは、いろいろと不祥事が重なり、受信料収入もどん底の状況でした。私も室長としてNHKの信頼回復のために何をすべきなのか、真剣に考えました。その同じころ、少年犯罪など子どもたちの事件が度重なり、その背景を探ると、自分の気持ちを言葉で表現できず、周囲の人とのコミュニケーションがうまく取れない、言語能力の欠落が指摘されていたんです。

それなら、NHKのアナウンサー集団が蓄積してきた話し言葉のノウハウを生かして、「子どもたちの言葉を育てる」ことが、大きな社会貢献になるのでは、と考えたわけです。そして、その活動を、私の定年退職後も外から支える場として「ことばの杜」設立の準備を始めました。

それに今までNHKを退職したアナウンサーの活躍の場は、日本語センター以外はごく限られていたんですが、ゆくゆくは「ことばの杜」が定年後のアナウンサーの受け皿にもなればと思っています。やはり定年後も同じ目的を持って、仲間がつながっていられるのは心強いですよね。今、同じく定年退職した広瀬修子、宮本隆治、松平定知の4名が一緒に活動していますが、みんなであれこれ話していると、まるで青春に帰ったような感じなの(笑)。

「ことばの杜」では、年4回、詩や小説などを朗読する「朗読会」を開いたり、子育て層や子どもたちを対象にした「話し言葉教育」など、さまざまな活動を展開しています。未就学児に絵本の読み聞かせをしたり、学校の授業で話し言葉を教えたり。納得できる話し言葉のテキストも作りたいと思っているんです。

言葉は猫のように変わり続ける

最近は、朗読ブームなど言葉に対する関心が高まっていますが、私は「美しい日本語」を使うというのは、実は二の次だと思っているんです。それよりも大切なことは、「自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉を紡ぎ出す」こと。それができる子どもを育てることが今1番大事なことだと思います。借り物の言葉で、既製の価値観でものを考えていたら、いつまでたっても世の中は変わらない。

だからといって、即効的に効く薬はないから、今ここから百年の計で、スタートするしかないんです。言葉で伝え、言葉で他者との関係を築くノウハウを気長に子どもたちに伝えていく。それを家庭だけでなく社会全体で教えていく時代なんだと思いますね。

よく言われることだけど「言葉は猫のようだ」と。犬のように人間の思い通りにはならないし、言葉は人気投票。昨日まで間違いだった言葉も、今日みんなが使い始めればそれは正解になる。絶対正しい言葉なんてないし、言葉は変わり続けて生きているんです。

だから、他人の間違いに目くじら立てるよりも「自分は」美しい言葉を、と心掛けることが大切。「言葉を育てる」ことは、結局は自分を育てること。悪戦苦闘しながら、自分を縛っている固定観念の紐を1本1本切っていき、最後に自由な境地に至れるかどうか。あり合わせの言葉ではそこまで至らない気がします。言葉にはすごい力がある、だからこそ、自分の言葉を大切にしてほしいと思いますね。

(東京都渋谷区「ことばの杜」事務所にて取材)

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  • 山根 基世さん

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