どんなジャンルでも、いい詩やメロディーは刺激になります。歌への興味は尽きないですね
- 都 はるみさん/歌手
- 1948年京都府生まれ。
63年、第14回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。
64年「困るのことョ」で歌手デビュー。同年「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーになり、一躍脚光を浴びる。
76年「北の宿から」で日本レコード大賞、日本歌謡大賞など受賞。
84年、人気絶頂期に「夫婦坂」で引退。
90年歌手復帰し、幅広く活動中。
2008年、デビュー45周年記念公演「好きになった人」(第二部コンサート)は、1月名古屋を皮切りに3月東京、6月3日~26日大阪松竹座で公演。
24年ぶりの座長公演で「母」の役を演じる
今年は、デビュー45周年の記念公演「好きになった人」で、お芝居に挑戦しています。24年ぶりの座長でプレッシャーもあるし、歌と違って芝居はチームワークが大切ですから、なかなか難しいですね。
このお芝居は、母と恩師・市川昭介先生が、いかに「都はるみ」を育ててくれたかを描いた、半自伝的な物語です。一昨年に市川先生が亡くなられ、母も3年前に他界していますから、その2人に感謝の気持ちをこめて、母の役を演じています。
正直、最初はちょっと辛かったんです。セリフの中に「ありがとうございます」「よろしくお願いします」がすごく多くて、母はいつも頭を下げていたんだなって。でも、1月の公演が終わるころ、母は私を通じて自分の夢を達成できた、これでよかったと思えたんです。そうしたら、次の舞台はずい分楽になりましたね。
日本一の歌手を目指し母から「うなり」の特訓
私の歌手への道は、もの心ついたころから始まっていました。生まれ育った京都では、6才の6月6日に習い事を始めると大成するという言い伝えがあって、その日から日本舞踊とバレエを習わされていたんです。でも、そのころの私は、近所の子どもたちの中でも1番のガキ大将で、いつも棒や2B弾を持って男の子と遊んでいるような子どもでした。男勝りで負けん気が強い反面、泣き虫で。そのころの性格は今も変わりませんね。
小学校5年には児童劇団に入り、6年生のとき音楽学院で歌を習い始めました。もともと浪曲師か歌手になりたいと思っていた母は歌がうまく、本気で私を歌手にしようと思っていたんでしょうね。そのうち音楽学院の生徒の中で1番目立つようにと、母はうなりを入れた独特の歌い方を考え、私に教え始めました。毎日、音楽学院から帰ると、母のレッスン。それが嫌で嫌で仕方がなかった。たまに音楽学院をさぼると、母は仁王立ちして待っている。ものすごく怖かったですね。よく叩かれました。
実家は西陣織の織屋でしたから、父と母が向かい合って反物を織っている織機の前で歌の練習をしたんです。どんなに大きな声を出しても外には聞こえませんから、ちょうどいい練習場でした。母は嫌がる私に、「10円やるから歌え」って(笑)。10回うなると10円。それにつられて渋々歌ってました。5人もきょうだいがいる中で、何で私だけっていつも思ってましたね。妹も一緒に日本舞踊を習っていましたが、歌は全然だめだったので、その分母は私に期待したのかもしれません。ただ1 つ、勉強しろと言われなかったのはうれしかったですけど。
それでも運よく高校に進学でき、1学期が過ぎたころ、大阪の三越劇場で催されたコロムビアのコンクールに出場することに。これもすべて母のお膳立てでした。優勝はできなかったんですが、うなりが面白いからと東京の決勝大会に出られることになったんです。
ちょうど15才の夏。日比谷公会堂での決勝大会で、「思い切りうなってこい」と母に背中を押されて。そうしたら、なんと優勝しちゃったんですよ!
本人以上に母は大喜びでした。そのときの審査員の1人が市川先生だったんですが、初めて私のうなりを聞いてびっくりしたそうです。
その年すぐに上京し、翌年16才で歌手デビュー。思いがけず「アンコ椿は恋の花」「涙の連絡船」と大ヒットが続き、多忙なスケジュールに追われる日々が続きました。学校にも行けず毎日毎日仕事仕事。その中でストレスが溜まり、ある日食事が不味いとお膳をひっくり返したら、母に思い切り叩かれました。気持ちが治まらず市川先生に電話すると、「お母さんが正しいよ」と。それからは2度としませんでした。普通なら歌手になった娘にちやほやするだろうけど、今思うと叱られてよかったと思います。
「都はるみ」の看板から解放されたい
私が引退を決めたのはちょうど20周年を迎えたときでした。実を言うと、若いときからずっといつか辞めたいと思っていたんです。表面的には歌手として成功したと言われても、心の奥底には自分の意志で選んだ道ではないという、わだかまりがあったんですよね。だから、年齢的にも36才という1番いいときに辞められるかなと。歌うことは好きだったけど、それが職業になってしまうと辛いことが多かったんです。
母に「今年で辞めるから」と言うと、何も言いませんでした。「北の宿から」であらゆる賞をいただいたとき、すでに母の夢は叶えられ、満足していたのかもしれません。でも、ごく最近知ったんですが、引退を聞いたとき母は「私ははるみに捨てられた」と妹に言ったそうです。
引退して、本当は本屋さんをやりたかったんです。本が好きだから本屋さんなら、新しい本を真っ先に見られるでしょう?(笑)。この計画は実現しませんでしたけど。
2年ほどたったころ、だんだん音楽プロデューサーという仕事に興味を持ち始め、全国を回ってオーディションをしました。新人を発掘して、歌の指導をするんですが、教えても、家で練習しないとすぐにわかる。思わず叩きたくなりますよ(笑)。ああ、きっと母もこんな気持ちだったんだなってよくわかりましたね。プロデューサーとして、客観的に見られたのもとても勉強になりました。
エディット・ピアフの歌で復帰を決意
そして、42才で歌手に復帰。そのきっかけは前年の大晦日、紅白歌合戦にゲストとして出演したことでした。NHKから、私がデビューした昭和39年の特集をするから、思い出を語ってほしいと頼まれて。でも、私は歌以外一切何も覚えていないし、無理だとお断りしたんです。困惑するディレクターに「それなら歌ってもいいですか?」と思わず言ってしまったんです。
それがなんて浅はかだったと気づいたのは、舞台の上でした。5年ぶりの大舞台。それまで緊張したことは一切なかったのに、心臓がバクバクして。歌っていても息が続かず、もう死ぬかと思いましたよ。歌手ってこんなに大変だったんだって、あらためて思いました。
年が明けて、歌ったことをものすごく後悔して悩みました。そんなときテレビでエディット・ピアフの半生を描いた番組を見たんです。さまざまな不幸に見舞われながらも、ピアフは「歌えなくなる前に命尽きることを願います」と言い切り、画面から叫ぶように「愛の讃歌」を歌う。その真剣な姿に心を打たれ、涙が止まらなかった。これが歌なのだ、そう思ったとき、もやもやが吹っ切れ、もう一度やり直そう。今度は自分で「都はるみ」という商品をプロデュースしようと思ったんです。
答えが出た途端、すぐに市川先生やレコード会社の人に電話をかけ、「復帰したい」と伝えました。自分でもつくづく単純な人間だと思いますね(笑)。
でも、復帰しても、もし誰も聞いてくれなかったら? もう母には頼れないし、引退したとき以上のことができるのかどうか、それもわからない。
それでも私はやろうと心を決めました。
歌の世界を広げる好奇心
あれから、もう18年。 今は母が道を作ってくれた、歌手という職業がやっぱり自分には1番合ってるんだなと思いますね。
1度引退したことで、歌に対する姿勢もまったく変わりました。ヒット曲を目指すのではなく、1つ1つの歌の質を高めることが大事だと思うようになりましたね。スタッフ側として、曲作りから関わることも多くなりました。
復帰後は、初めての野外コンサートにも挑戦し、平安建都1200年に当たる平成6年には上賀茂神社でも野外コンサートを開催しました。阿木燿子さんや、谷村新司さんにも歌を作っていただいたり、新しいイメージの曲もどんどん歌っています。
私は演歌というジャンルに枠組みされたくはないんです。デビューしたころは、演歌という言葉すらなかったんですから。もし、こだわるとしたら、ジャンルではなく「都はるみ」の歌。いくつになっても、こんな新しい歌も歌えるんだっていう発見があるんです。コブクロさんや浜崎あゆみさんとか、最近の若い人の歌もいい曲が多くて好きですね。ラップなんかも、よく聞いてると詞がすごくいいんですよ。
だから、いつも興味はつきない。それが誰であろうと、どんな詞でどんなメロディーで歌っているんだろうって、耳を澄ませる。それを吸収した上で、自分はその人と違う何ができるか、なんですよね。その好奇心がなくなってしまったら、多分先には進めない気がします。
これから、どれだけ自分に刺激を与えてくれる、詞やメロディーに出合えるか、それが私の1番の楽しみですね。
普段着のまま、さりげない歌を歌いたい
この間、少し休暇をもらってハワイに行き、クジラを見てきたんです。美しい海をゆったりと泳ぐクジラを見た瞬間、ウワーッ、でっかいなあと感激しました。私はとても単細胞というか、映画を見ててもすぐに泣くし、空や星がきれいとか、お酒が美味しいなとか、そんな小さなことでも感動する。そういう自分が好きだし、そんな単純さが私の財産だという気がします。
そして、もう1つ私の大きな財産は、いつもずっと応援し、支えてくださっているファンの方々。
16才でデビューしたころから同世代の方々が、一緒に年をとり、同じ思い出を積み重ねている。だから、コンサートでも思いが通じているようで、とても歌いやすいんです。お客さまには申し訳ないけど、うまく歌えない日があっても、許してくれるかななんて時には甘えてみたり。
私は、お客さまにこう聞いてほしいとか、押し付けるような歌い方はできないんです。自分が感じたままに歌い、ポンと投げかける。それをお客さまがそれぞれにイメージを広げ、1人1人全然違う受け取り方をしていながら、同じ空間で一つの歌を共有する。そうすると歌の世界がどんどん広がっていくんです。そういうコンサートが1番理想ですね。
まだまだやりたいことはたくさんあるのに、時間ってあまりないですよね。でも先のことは考えないで、1年1年を大切に充実させていければいいかなと思っています。
今は、毎日振袖を着てかつらをつけて、舞台狭しと走り回っていますけど、いつか着物を脱げるときもあるだろうなって思います。普段着のままふっと、素のままの自分で歌いたい。草原をそよぐ風のように、さりげない歌を歌えたら、もう最高ですね。
(新宿コマ劇場楽屋にて取材)
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