人間50、60、70才からでも『やろう!』と思ったら何でもできるんです
- 内館 牧子さん/脚本家
- 1948年秋田県生まれ。武蔵野美術大学基礎デザイン科卒。
13年半に及ぶOL生活を経て、88年脚本家デビュー。
代表作にNHK朝の連続テレビ小説「ひらり」「私の青空」、大河ドラマ「毛利元就」など。
第1回橋田寿賀子賞受賞。
2000年より女性初の日本相撲協会横綱審議委員を務める。
03年、東北大学大学院文学研究科修士課程の社会人特別選抜を受験し、合格。“大相撲”を研究テーマに宗教学を専攻し、06年に修了。
05年より東北大学相撲部監督を務める。
著書に「養老院より大学院-学び直しのススメ」(講談社文庫)「女はなぜ土俵にあがれないのか」(幻冬舎新書)など多数。
4才から大相撲にぞっこんだった理由
生まれは秋田市。「種蒔く人」などプロレタリア文学発祥の地で、祖父は同人でした。私は大家族の中でとてもかわいがられて育ちました。 その後父の仕事で新潟に移り住み、入った幼稚園ではいじめられっ子になってしまった。それまでかわいがられていた分、社会性がなくてお手洗いにも行けない子だったの。手がかかり過ぎるからと、半年で幼稚園は強制退園させられた。とにかく、病的に内気な子どもでしたね。いまの私を知ってる人は、みんな嘘だと言うけど(笑)。
そういう私を、いつも助けてくれた男の子がいました。すごく身体が大きくて、後になって思うと力道山に似ていた。その子の影響で私に「身体の大きい男は優しい」って刷り込みができてしまったのね。以来、4才のころから“優しい身体の大きい男たち"のいる大相撲にのめり込んでしまったんです。
幼稚園をやめた後は、父の大きな机の下に入り込み、誰とも顔を合わさずにひとり遊び。広告紙の裏に力士の物語を創作したり、相撲かるたを作ったり、紙相撲を作って戦わせて自分で星取表を作ったり。難しい漢字も全部力士の四股名で覚えましたね。
おかげで小学校に入ったら勉強は楽で楽で。「吉葉山」とか「鏡里」なんて難しい漢字は書けるし、10勝5敗とか星勘定で鍛えられたから、15までは暗算ですよ。先生はビックリして、「内館さんはすごい!」。級友たちは私の机を囲んで、ノートを見て「キレイ!」「すごーい!」と大騒ぎ。それですっかり自信がついちゃって、それ以来明るい言いたい放題の子になっちゃった。新潟では“神童"の名をほしいままにしましたよ。いまの私を知ってる人は嘘だって言うけど(笑)。
その後東京の小学校に転校し、すごいカルチャーショックを受けました。新潟では下駄履きで登校していましたから、初登校前、母は下駄を新調してくれたの。で、嬉々としてそれを履いていったら、みんな運動靴や靴下を履いてる!上履きなんてもの、初めて見ました(笑)。慌てて母は靴下や靴を買いに走りましたね。
中学高校の部活は水泳部。父は早稲田大の水泳部員で、オリンピック候補といわれていましたが、果たせなかった。その夢を私に託したの。私を“木原光知子”にしたかったのね。でも、私には競泳の才能はゼロでした。
父から厳しく教え込まれた“3か条"があって、『食べ物を一切残すな』『絶対まずいって言うな』『寒いって言うな』。本当に一切、残しちゃいけないのよ(笑)。おかげでいまでも私、魚の食べ方なんかすごい上手ですよ。弟は中国に赴任したとき、出された猿の脳みそとかサソリとかの料理を全部残さずきれいに食べちゃったそうで、現地スタッフたちから「お前は今日から仲間だ。困ったことは言え!」と感激されたとか。弟は「親父の家訓、役に立ったよ」なんて言ってましたね。
土俵を守るべく、大学院にチャレンジ
私の人生の二大失意は、「早大の受験失敗」と「暗黒のOL時代」。
早大失敗はやっぱり色あせてませんよ、いまでも。しつこいけど(笑)。高校時代の私、ほとんどワセダ病でしたから。ものすごく勉強もしましたし。武蔵美に入ったのは早大と別ジャンルの大学に行きたかったから。ほかの総合大学なら、絶対に早大と比べて落ち込むと思った。でも、結果として武蔵美は私の視野を広げてくれましたね。それまでの私は「勉強のできない人間には価値がない」と思い込んでいましたが、能力とか才能って偏差値とは別物だと分かった。もしもストレートで早大に入っていたら、挫折知らずのイヤな女になって、暗黒のOLにもなってなくて、当然、シナリオライターにもなってなかったでしょうね。
50代になったとき、大学院で相撲を研究せねばと焦りました。きっかけは、大阪の太田房江知事を中心とした「女を土俵に上げないのは男女差別だ」という主張。土俵は1699年から女人禁制を守っています。
私は男女平等には賛成だけど、何にでも「男女平等」を当てはめるのは反対。正面から反対するにはこちらも理論武装しないといけない。武蔵美の卒論テーマも、相撲の所作をデザイン記号論で解くものでしたが、今度は土俵を守るという切羽詰まった思いで1年半受験勉強したんです。そして東北大学大学院宗教学研究室を受験しました。
学科試験は難しかったけど、口頭試問で「女を土俵に上げちゃいけない」という自論をぶち上げた。その迫力で合格させてもらえたかも(笑)。
大学院生になったその間、シナリオの休筆を決めました。大学院は仕事と両立できるようなスケジュールではなかったから。当時54才。仕事も脂が乗っていてずいぶん周囲に反対されたけど、仙台に移り住んで勉強に打ち込みました。でも、よく考えてみたらバカですよね。土俵を守るために、そこまでして。そのうち、東北大学相撲部の監督まで引き受けたりして、何か私の行くとこ行くとこ、相撲が待ち受けている(笑)。
大学院での学生生活は人生80年のうちのたった3年間ですが、私にとって大きかったですね。世の中高年たちは「いいわね~。若い学生たちといると若返るでしょ」と言うけど、そんなこと言ってるようじゃダメね(笑)。もし若返ったとすると、若い人といたからじゃなくて、日常生活と全くかけ離れたことを学ぶから。だって「ヘレニズム」とか「ヘブライズム」とかが日常会話で出てくるのよ。こんな言葉、早大受験以来ですよ(笑)。それまでの私だったら視聴率が気になる生活だったし、普通の奥さんだったら職場や近所のお付き合いで悩む日常だったりするわけでしょ。そこにはアレクサンダー大王は出てこない。その点学生になったことで、自分の目線に広がりが出てきた。これは私にとって大変な刺激でした。
それと、私はすごい短気で、段取りが悪かったら張り倒してやるってくらい気が短い。でも学生生活を経て、少し治りましたね。だって学生ってすごく段取り悪いわけ。そこで、何かカッカすることがあっても「今日はきれいな青空が見られたからいいか」「朝顔がきれいに咲いてたから、怒るのよそう」とか、小さな喜びをもって怒りをおさえこむことを覚えました(笑)。
ひとつ手にしたら、ひとつ捨てること
4才のときから、ずっと私の人生にかかわってきた相撲。その1番の魅力は1300年以上もの歴史があって、その伝統をいまも守ってきているところですね。
いまでも親方衆から当たり前に「奈良時代の天覧では」なんて言葉が飛び出す。そのくらい、歴史と共にある。いま、いろいろ相撲で問題が起きると外部の識者たちは「相撲は変わらなくちゃいけない」と言う。でも、絶対に変わっちゃいけない部分もある。外部の意見に迎合して伝統を捨ててしまうと、昔から受け継がれてきた大切なものが根こそぎなくなっちゃう。守るべきものと、変えるべきものを冷徹に見つめる必要を感じます。
自分の生活の中で考えていることは「ひとつ手にしたらひとつ捨てる」ってこと。よくいるでしょ、「私って欲張りなの。妻もやって、母にもなって、仕事もやりたい」っていう人たちが。できる人もいるでしょうが、私はそういう「欲張り」は好まない。大学院に受かったときに仕事を捨てたのは当然でしたね。
改めて思うんだけど、50になっても60になっても70になっても「やろう」って思ったら何でもできるんですよ。私も次は博士号を目ざしたいって考えています。そのときは60でも70でも、もう1回東北大に行きます。
先を憂えず、そのときそのときに勝負をすればいい。そう、「人生、出たとこ勝負」という感覚が、私には1番面白いですね。
(東京都港区の事務所で取材)
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