まず自分から『平和』を始めよう!人は変えられないけど、自分は変えられるんです
- アグネス・チャンさん/歌手
- 1955年、香港生まれ。
72年「ひなげしの花」で日本デビュー。一躍アグネス・ブームを起こす。
上智大学国際学部を経て、カナダのトロント大学(社会児童心理学)卒業。
89年米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学。94年教育学博士号(ph.D)取得。
98年、日本ユニセフ協会大使に就任。
05年「ペスターロッチ教育賞」受賞。
06年春、全米歌手デビュー。
著書に「みんな地球に生きるひと/Part1~Part3」「アグネス流エイジング薬膳デトックス」ほか多数。
35周年のテーマは「平和」
2007年、今年はどんな年になるのでしょうか?私にとっては、日本でデビューして35周年という、記念すべき年になりました。
昨年の12月1日からスタートした「来日35周年プロジェクト」のテーマは「平和」。今まで世界を回って、本当に平和の大切さを実感しました。だからこそ、今1人でも多くの人たちと、平和を愛する気持ちを共有したい。そして、今年は自分でも平和をテーマにした曲を作りたいと思っているんです。曲を口ずさみながら、自分も平和について考えなきゃって、そう思ってもらえるような曲ができたらいいなと思っています。
今まで多くの方々に応援していただいて、これからはその恩返しをしたい。今年は全国を回って、ファンの方々と再会できるのがとても楽しみなんです。私と同世代の方が多いので、「みんな元気かな」なんて、まるで同窓会のような気分なんですよ(笑)。
ずっと応援してくださった方と一緒に、若い人たちにもたくさん来てほしいですね。
35年前、香港から初めて日本に来たときは、なんて豊かな国なんだろうと驚きました。でもそのときは、こんなに長く日本で活動できるとは思ってもみなかったんです。
ボランティア活動から歌手にスカウト
私は、1955年、香港で生まれました。父は香港生まれの広東人で貿易会社を経営していました。母は中国の貴州生まれで、看護婦をしていたときに父と知り合い結婚したのです。
私は、6人兄弟の4番目の三女。上の2人の姉は美人で頭も良く、ものすごく優秀でした。私はその姉の影に隠れて、目立たない子どもだったんです。
ミッションスクールに通い、中学のころからボランティア活動を始めました。毎週いろいろな施設に行って、身体の不自由な子どもたちと一緒に遊んだり、歌を歌ったり。このボランティア活動のおかげで、性格がずいぶん変わりましたね。
それまでは、姉たちへのコンプレックスを抱えて悩んでいたけど、子どもたちのために活動しているうちに、自分の悩みなんて小さなものだと思えるようになったんです。そして、募金を集めようとチャリティーコンサートで歌っているうちに、だんだん評判が広がって、TV局からスカウトされたんです。もうびっくりしましたね。
でも、父は猛反対。それでも勉強と両立すること、80点以下に成績が落ちたらやめることを条件に許してもらいました。実は、それまで80点なんて取ったこともなかったんですけど、芸能界に入ってから、一生懸命勉強して、父との約束は守り続けました。
デビュー後は思いもかけず、あっという間にアイドルになり、香港で「アグネス・チャン・ショー」というTV番組まで作ってもらって。そして、その番組に作曲家の平尾昌晃さんが出演してくださったのをきっかけに、日本でのデビューが決まったのです。
アイドルとして悩んだ日々
日本では、デビュー曲「ひなげしの花」もヒットして、いろんな賞をいただきました。もう寝る間もないぐらい忙しく、ただ歌と勉強だけの日々。友達を作るひまもなく、3年ほどたったころ、だんだんこれでいいのかなと悩み始めました。
そんなとき、突然日本に来た父は、私の生活を見て怒りました。「このままでは頭でっかちになってダメになる。お金や名声は流れてゆくものだけど、知識は一生の宝。カナダへ留学して、頭を冷やしてこい」と。
そしてデビュー4年後、芸能活動をやめてカナダのトロント大学に留学。以前から勉強したいと思っていた児童心理学を専攻しました。大学生活は本当に楽しかった。でも、留学した翌年、父は病気で亡くなってしまったのです。
卒業後は、芸能界にカムバックすべきかどうかすごく悩みましたね。迷いながら復帰はしたものの、活動の方向性も見えてこない。
そんなころ、母の生まれ故郷である貴州を訪れたことが、大きな転機になりました。
歌で人をつなぐ架け橋になりたい!
貴州は、交通の便も悪く、中国の中でも貧しいところです。母は、香港に移住してからずっと生地に戻れなかったのですが、1984年に香港返還が決定し、その年私は初めて、貴州を訪ねることができたのです。
初めて会う親せきと最初は何を話したらいいのかも分からず、緊張していた私を歓迎して、子どもたちが歌を歌ってくれました。曲は、「帰ってきたツバメ」。
なんと、私が以前台湾で録音した曲でした。母がこっそりと荷物の中に歌のテープを入れて送っていたのです。親せきの子どもたちは、いつか私が帰ってくる日のためにと、その歌をずっと練習してくれていた…。私は感動で涙が止まりませんでした。
そのとき、私は歌を通して、人と人との架け橋になりたい!そう心に誓ったのです。
歌は国境を越え、政治的なしがらみもすべてを越えて、人の心をつなぐことができる。そんな歌を仕事にできるなんて、自分はとてもラッキーだと思います。だからこそ、平和のために歌い続けよう、そう思ったんです。そして、その翌年北京で2万人のチャリティーコンサートが実現しました。もうあれ以上感動的なコンサートはできないだろうと、今でも思います。
「アグネス論争」からアメリカ留学へ
1985年は、「24時間テレビ」でエチオピアを訪れたり、プライベートでも大きな変わり目でした。ずっとマネージャーをしてくれていた夫との結婚。でも、母や親せき、友達からは、日本人というだけで猛反対されたんです。
ちょうど中曽根元首相が、靖国神社に公式参拝した年で、反日感情が高まっていた時期。結局、母は許してくれましたが、中国と日本の歴史の重さを感じました。
その後、長男が誕生し、「アグネス論争」で世を騒がせる(笑)ことに。あのときは正直とてもつらかったですね。なぜ、仕事場に子どもを連れていくだけで論争になるのか、理解できなかった。
その「アグネス論争」はアメリカの雑誌にも掲載されました。そして、その記事を目にしたスタンフォード大学の教授から、同大の博士課程に留学しないかと勧められたのです。
ところが、留学を目前に2人目の子どもを妊娠していることが判明。断ろうと思い、教授に電話したら「大丈夫、入学しても産めますよ」と。3才の長男も連れての留学は私にとっては、とても決心がいりましたが、アメリカでは、自立した自由な女性の生き方を学ぶことができました。
アメリカは、大学の中に保育園があったり、社会人が学べるよういろんなサポートシステムが充実しているんです。学生の年齢層も実に幅広い。最近は、日本の大学もかなり変わってきましたが、これも私の影響?なんて(笑)。母親は、子育てで国の活力に貢献している大事な存在だから、もっとサポートが必要だと思います。母親や子どもを大切にする社会基盤がないと、少子化は止まらないでしょうね。
3人の息子とともに
「アグネス論争」を巻き起こした長男も、もう20才になりました。今はアメリカの大学に留学しています。17才の二男もアメリカの高校に。1番下の息子は10才で、日本のインターナショナルスクールに通っていますが、上の2人の子どもは手が離れて、ちょっと寂しいですね。
子どもには小さいころから自立しなさいと言い続けたせいか、早く自立しすぎて。私の方がまだ子離れしていないみたいで(笑)。夫も子煩悩で、「僕が抱いたら泣き止んだ」とかよく自慢してたほど。でも、子どもに関しての最終決定権は私が獲得したんです(笑)。まあ、ほとんど相談しながら決めてますけど。子どもにはインターナショナルな生き方を身に付けてほしいと思いますね。
日本ユニセフ協会大使として世界を視察
9年前、日本ユニセフ協会大使に任命され、タイ、スーダン、東西ティモール、カンボジア、イラク、レソトなど9ヵ国を視察しました。そこでは、児童買春、人身売買、エイズ、児童労働、戦争、貧困など、信じられないような悲惨な状況を見てきました。
世界では、今も毎年1100万人の子どもたちが5才まで生きられず、尊い命を落としています。1億3千万人の子どもたちが学校にも行けず、2億4千万人の子どもたちが強制労働をさせられている。大人たちが引き起こした問題で、1番犠牲になるのは、弱い子どもたちなのです。 その子どもたちを守るためには、何よりも平和が必要です。世界を平和にするにはどうしたらいいのか?私は、まず自分の心を平和にすることが大切だと思います。
平和にするためには必要なことが2つあります。1つ目は「お互いの違いを認め合うこと」。宗教や民族、すべてが同じでなければいけないと思うと、そこに争いが生まれます。だから、違いを認め許し合うこと。
そして、2つ目が「人に優しくすること」。難しいかもしれないけど、私は言いたい、まず自分から「平和」を始めようよって。人は変えられないけど、自分は変えられる!政治家に任せるのではなく、日本も中国もアジアも世界も、みんな仲良くなれるような関係を、私たちが築いていこうよって。
私も、世界の子どもたちを1人でも多く幸せにしてあげられるように、もっともっと頑張りたいと思います。でも、私はいつも全力疾走だから、周りの人たちはきっと大変でしょうね。多分、この性格は一生直らないだろうなあ(笑)。まだまだやりたいことがいっぱいあるし。毎日毎日、今日が1番大事、今日しかないって思いながら、自分にできることを一生懸命やってきた気がします。
歌とボランティアと家族、この3つの柱があったから、今まで頑張ってこられました。以前は、大勢の人の前で歌うのは苦手だったんですよ、本当は。でも最近、やっと人前で歌いたいと思えるようになりました。たくさんの人と心からつながりたい。そんなふうに変わった今の自分が、1番好きですね。
(渋谷区広尾の事務所にて取材)
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