童謡は、美しい日本の財産。ずっと歌い続けていきたいですね
- 由紀 さおりさん/歌手
- 群馬県桐生市生まれ。小学生時代、ひばり児童合唱団に所属。
童謡歌手として活躍。
1969年「夜明けのスキャット」でデビューし、爆発的なヒットとなる。
NHK「コメディーお江戸でござる」朝の連続ドラマ「ファイト」など女優としても活躍。映画「魂萌え!」(07年1月公開予定)にも出演。
1986年より、姉(安田祥子)と始めた童謡コンサートが20周年を迎え、2006年11月21 日、2000回記念コンサートを渋谷オーチャードホールにて、12月には大阪にて開催。
( www.yuki-yasuda.com)
音楽のジャンルを超えて、生まれたハーモニー
姉と2人で童謡コンサートを始めてから、今年で20周年を迎えました。ここまで長く続けてこられたのは、お客さまに本当に感謝ですね。
もともと、姉も私も小さいころは合唱団で歌っていましたので、ほんの思いつきでコンサートを始めたように思われることも多かったんです。でも、誰もが歌わなくなった童謡の素晴らしさを、きちんと認めてもらいたい、そう思って頑張っているうちに、気が付いたらもう20年、そんな感じかしら。
でも、音楽のジャンルも性格も全く違う2人が同じステージに立つというのは、想像以上に大変だったんですよ。
クラシックで喉を鍛えた姉にはマイクは必要ないし、ドラムやギターの伴奏に慣れていた私にとっては、ピアノだけで歌うことが、丸裸にされたような気がして。ようやく、2人のハーモニーが調和してきたのは、3年目ぐらいからですね。
童謡は、人それぞれに思い出もすべて違うし、百人百様の聞き方がある。だから、最初にディレクターから言われたことは「歌に自分の色を塗り込めないこと」。自分の思いや感情が入ると、歌のイメージが小さくなってしまうので、それを引き算して歌う。難しいですけど、あくまで主役は楽曲ですから。
スランプから始まった手作りの童謡コンサート
実は、姉と2人で最初に歌ったのは、1982年のことですが、それは童謡ではなく、クラシック対ポップスという姉妹バトルだったんです。
当時、私はなかなかヒット曲に恵まれず、歌手としてスランプの時期だったんですね。そこで、何とか自分の世界を探したいと思って、フルオーケストラの生演奏をバックに歌うコンサートを企画したの。でも、1人じゃとても荷が重いなと。
そのとき、母の「お姉ちゃんと一緒に歌ったらどう?人を感動させるのに、音楽のジャンルは関係ないんじゃない」という一言で、心が決まりました。母にとっては、姉妹が同じステージに立つのは夢だったんでしょうね。
そして、姉はクラシック、私はポップスと、全くジャンルの違うお互いの歌を、コンサートでぶつけ合ったんです。その中で、共通の世界だった童謡を何曲か歌ったら、その反響がとても大きくて。2人で歌う童謡のレコードが欲しいと、皆さんから言われたんです。
でも、そのころは童謡が音楽のジャンルとして認められず、アルバムを作りたくても教材を作る部署でしか扱ってくれない。そんな時代でした。それで、ついに母がレコード会社の社長に直談判し、「私の棺おけに入れるCDを1枚作ってちょうだい」と、すごい殺し文句で説得(笑)。それでも、CDが完成するまでに3年はかかりましたね。
最初は、枚数もわずかしか作ってくれなくて、「自分たちで売りますので、たくさん作ってください」とお願いし、アルバムを売るためのキャンペーンとして、姉と2人の童謡コンサートを、1986年から始めることになったわけです。
姉に導かれ、歌の世界へ
そもそも私が歌を始めたのは、歌が好きというより、姉の影響が大きかったですね。姉は幼稚園のころから、「将来は歌の世界に進んだら」と言われるほどの美声の持ち主。それで、「ひばり児童合唱団」に入団したんですけど、そのころまだ小さかった私は1人で留守番もできず、姉と一緒に稽古に通うことになったんです。だから、もしそのとき姉がバレエを習っていたら、私はバレリーナになっていたかもしれません。
姉とは小さいころから性格も正反対。姉はのん気でおおらかで、私はどちらかというと神経質で臆病。本当は逆でしょ?ってみんなに言われるんですけど。でも、ひょうきんで、いつも面白がられていたから、コメディアンとしての素質は、もともとあったのかもしれませんね(笑)。
両親は、世間一般の常識に捉われず、自分たちのスタンスや考え方を大事にする主義でしたし、子どもに対しては、いつも捨て身でサポートしてくれました。兄が行きたかった高校が家から遠かったので、母は偽装離婚の形で住所を移してまで、越境入学させたこともありました。
両親は、まず子どもに何をやりたいのかを聞いて、「こういう方法もあるけど、どうするの?」と最後の選択は子どもに任せる。私が中学生のときに、母から「自分の道を決めなさい」と言われて、私は歌の世界で生きることを選びました。両親は、自分で人生を選択させることで、責任と自信を持たせようと思っていたようです。
母との二人三脚で歩み続けたプロの世界
私も姉も、小学生のころから童謡歌手として歌い、雑誌のモデルなどの仕事もしていましたから、母は仕事に関しては、ものすごく厳しかったです。
高校生のときに、NHKの番組で歌のお姉さんをしていたんですが、ちょうど収録の日と、修学旅行が重なってしまったんです。私は、「学生時代最後だからみんなと行きたい」と、ダダをこねて。でも、母は「もしあなたが休んだら、ほかの人にチャンスを与えることになる。それでもよければ行きなさい」と。そして、「1年間の番組をきちんと全うするのが、仕事を請けた責任でしょ」と。私はぐうの音も出ず、結局、行かないことに決めました。
母からは、プロとしての意識や厳しさを徹底的に教えられましたね。「お客さんからお金をいただいて、次もまた来たいと思っていただけるように何倍もお返しをしないと、あなたの仕事は成立しない」と、よく言われました。そのおかげで、芸能界の厳しさを乗り越えてこれた気がします。
1969年に「夜明けのスキャット」で本格的にデビューしてからも、母は私の事務所の社長として、ずっと私を守り、支えてくれました。ステージ上の言葉使いから、立ち居振る舞いまで、いつも厳しくチェックされましたね。コンサートでも母からは褒められたことは1度もないんです。80点を取るのは当たり前で、「満足したらそれでおしまいよ」と言われて。
厳しい反面、スタッフにも誰にも分け隔てなく優しくて、まるで春のように、すべてを包み込んでくれた母。そんな母も、7年前に他界しました。母が亡くなってから、あらためて母のすごさを実感しています。ずっと母との二人三脚でしたから、母には本当に感謝しています。
1回1回のコンサートでベストを尽くしたい
最近は、ドラマや映画などにも出演することが多くなり、来年1月封切りの映画「魂萌え!」にも出演するんです。今回はあまりセリフがない役なんですけど、原作の桐野夏生さんから「すごい存在感だね」とお褒めの言葉をいただき、うれしかったですね。
セリフを言わなくても、ただそこにいるだけでオーラを感じるような、そんな役者に魅力を感じますし、パンドラの箱のようなテレビや映画の画面に映るわけですから、若い人たちにはない何か、自分にしかないものがないと生き残れない。その何かとはいったい何だろうって、日々考えています。
いつも輝いているためには、まずお客さまの前に立ち続けること。ステージって、たとえ1週間でも離れると怖いんですよ。何となく皮膚感覚が変わるというか、第一声を出すまでは不安です。
続けていくためには、体調管理が1番大事ですね。食生活と睡眠、身体をうまく休めること。何しろコンサートだけでも1年で100回、3日に1度の割合ですから。その中で、いかに1回1回のコンサートで、その日のベストを尽くすか。最後に万来の拍手で、お客さまに大満足していただければ、それが最高だと思います。
海外でも歌い継がれる日本の歌
童謡は、何年歌い続けても飽きることがないんです。それは作者の真摯な心があるからだと思いますし、だからこそ、時代を超えてもずっと歌い継がれ、残っているんでしょうね。
15周年を迎えたときに、童謡のワールドツアーを企画し、1年かけてアメリカやフランス、オーストラリアなど世界各国を回りました。国によって反応もさまざまですが、不思議なことに、海外に住む日本人の方が、より日本的な感じがしますね。
ブラジルでは家父長制がまだ残っているし、日系3世、4世の子どもたちがちゃんと日本の歌を歌える。まるで私の子どものころの家庭環境を見ているようでした。
逆に、今の日本の方が生活のマナーとか、日本らしさが失われているんじゃないかしら。よく私たちのコンサートに、子ども連れのお母さんがいらっしゃるんですが、コンサート活動がスタートして2年目ぐらいまでは、子どもが騒いでも平気なお母さんもいたんです。童謡といっても、とてもクラシカルなコンサートですから、「静かにしてほしい」とお願いすると、「子どものためのコンサートなのに」って途中で帰ってしまったり。
どんなに小さな子どもでも、例えば胎教で童謡を聞かせたり、お母さんが歌っていたら、コンサートに来ても、じっと聞いているものなんです。気持ち良くて、寝ちゃったりね。今は、マナーはしっかり守られるようになりました。
童謡から育まれる日本人のアイデンティティー
私はよく思うんですが、21世紀の主役となる子どもたちに、美しい日本の歌をきちんと歌ってほしいと。そんな思いも込めて、5年前から、「手づくり学校コンサート」を始めました。これから、インターナショナルになればなるほど、自分自身のアイデンティティーが必要になります。国籍を書いた証明書を携帯する時代が来るかもしれない。
そのとき、自分の国の文化をきちんと相手に伝えられるかどうか。そのためには、日本のことをもっともっと知る必要があると思います。
童謡は、季節の移り変わりや家族への思い、日本の習慣や文化などが美しい日本語で歌われています。だからこそ、この大切な日本の財産をずっと歌い継いでいかなければいけないと思うのです。
これから先、姉と2人でどこまで続けられるか分かりませんが、やれるところまで、その限界まで挑戦したい。それが今の夢ですね。
(東芝EMI溜池本社ビルにて取材)
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