『夢は見るものではなく、実現するもの』これが母の教えです
- うつみ 宮土理さん/タレント・作家
- 10月1日東京生まれ。
実践女子大学英文科卒業後、朝日新聞社「ディス・イズ・ジャパン」編集部勤務を経てタレントに。
TBS『さんまのスーパーからくりTV』など、テレビの情報番組やバラエティ番組に出演するほか、著書に、小説『紐育マサオ』『晩鐘』『人の物語』などがあり、テレビドラマの原作なども手掛ける。
私は年齢なんて意識したことないんですよ。
よく人から、「若さを保つ秘訣は?」って聞かれるんですけど、私は年齢なんて意識したことないんですよ。
昨年、ある番組で肉体年齢を測ってもらったら、なんと32才!「驚異的な若さ」って言われましたけど、20年ぐらいずっとジムに通って、筋肉トレーニングを続けているので、当然といえば当然かなって。見た目では分からないけど、これでもすごく筋肉があるんですよ。
あと、最近の私の元気の素といえば、やっぱりイ・ビョンホン。ヨン様をきっかけに韓国ドラマが好きになり、ハングル語も習い始めました。
そうしたら、昨年思いがけないことがあったんです。友人の美川憲一さんから「今、隣にイ・ビョンホンさんがいるんだけど、声聞きたい?」って電話がかかってきたんですよ。広島で偶然お会いしたらしくて。
電話口から、「もしもし、イ・ビョンホンです。お元気ですか?」って聞こえてきたときには、うっすら失神しましたね(笑)。片言の韓国語と英語で3分ぐらいお話して、電話を切ったあと、もうドッと汗が出ました。でも、うれしかったなあ。
母のほめ言葉で優等生に
今はこうして元気に明るく毎日を過ごしてますけど、実は子どものころは劣等生で、性格も暗い子でした。信じられないでしょ?(笑)。
そんな私を明るい優等生に変えてくれたのが、後妻として育ててくれた母でした。
実は、私には2人の母がいるんです。本当の母親は、私が10才のときに亡くなりました。本当に突然に…。夏休み、友だちと遊んで家に帰ると、母は「寒い、寒い」と体を震わせ、そのまま息を引き取ってしまったんです。まだ小学4年生だった私にはどうすることもできなかった。
その日から、弟と妹と合わせて4人きょうだいの面倒を見てくれたのは、母の姉にあたる伯母さんでした。伯母さんは戦争未亡人で1人で娘を育てていたんですが、そのうち1番下の弟がなついてしまい、私にとっては2人目の「母親」となりました。
その母は本当に明るくて、素晴らしい人でした。いつも私たちを抱きしめて「私の子どもになってくれてありがとう。母さんは幸せだよ」って。その母の姿を見て、私もとっても幸せだった。
母は、「幸せになるには大きな声を出しなさい。声は顔だよ」といつも言ってました。だから、「ただいま」って小さな声で帰ると、もう1度やり直し。「ただいまーっ!」って大きな声を出すと、「本当にいい声だね」って拍手をしてくれた。
母はすごく「ほめ上手」でしたね。私は、本当の話、クラスで1番ビリの成績だったんです。でも、母は「私の子どもはみんな天才なんだよ」って言いながら、勉強を教えてくれました。そのうち、私はもしかしたら天才なのかもしれないって思い始めて(笑)。
ある日母から、「国語の書き取りは、100回練習すれば100点取れるよ」と言われ、その通り一生懸命練習したんです。そしたら、本当に100点が取れたんですよ!今でも忘れられないんですが、先生がみんなの前で拍手をしてくれて、うれしかったですね。
家に帰って母に見せると、母はその答案用紙を仏壇に上げて、「ご先祖様、お集まりください。100点取りました。天才でした」と。
その瞬間、その一言で、私は変わりましたね。こんなに自分のために喜んでくれて、私を愛してくれてる人がいる。それなら、この人のために、この人を喜ばせる人生を送りたい。そう思ったときに、私の固かった脳みその皮がパリッと破れて、そこから光がさしたような感じになって。
それからは全部100点でした。すごいですよね、子どもって。私も弟も必死になって、勉強しましたよ。そして、小学校の卒業式では、総代の生徒と並んで、私は努力賞の総代に選ばれました。
両親の教えが道しるべ
母はまた、礼儀作法にも厳しくて、「お礼は必ず3回言うこと」と。たとえば人にご馳走になったら、3回お礼を言う。そうすれば、人はご馳走して良かったと思うからねって。
それと、「天網恢恢、疎にして漏らさず」。この言葉は大きく部屋に書いてあったんですけど、「お天道様はお見通しだから、うそはついちゃいけない」と。
私にとって、母は人生の道しるべみたいな人でした。もう亡くなって17年もたつのに、今でも、迷ったとき「母さんだったら、どうするかな?」って考えると、答えが出るんです。
父は造園業を営んでいたんですが、本当に花が大好きで、いつも花に話しかけてましたね。父は、「命あるもの、みんな耳と口と目を持っている。植物ですら、ほめてあげると美しい花を咲かせる。まして、人間は」と。
その父の教えの通り、私はいつも街で子どもと目が合ったら、必ず「かわいいね、いい子だね」って声をかけてあげる。きっと、そういうほめ言葉で、子どもは自信を持って生きていけると思うんです。
『ロンパールーム』の先生から芸能界へ
芸能界に入って、もう40年近くになりますが、こんなに長く続くとは自分でも思っていませんでした。
最初はテレビの世界には、全然興味がなかったんですよ。大学を卒業して、朝日新聞に入社しました。なんとなく、ものを書く男性にあこがれて、素敵な出会いがあるかもしれないという不純な動機で(笑)。
同期で入社したのは、今多方面で活躍している下村満子さん。本当は下村さん1人だけ採用のはずが、面接での好感度が良かったらしく、私も採用してもらえたんです。
入社後、「ディス・イズ・ジャパン」の編集部に配属されたんですが、なぜか論説委員や政治部のオジサマたちにかわいがられて。毎日、10時、12時、3時、夕方になるとお茶や食事に誘われるんです。ほとんど席にいなかったので、編集長から叱られていました。
1ヵ月ぐらいたったときに、『ロンパールーム』の2代目の先生の募集があって、仕事で取材に行くことになったんです。そのために、一応履歴書を書いて応募しました。選考で3人残り、プロデューサーは本当はほかの2人の中から選びたかったらしいんですが、子どもたちが私にすごくなついてしまったんです。中には私じゃなきゃイヤだって泣き出す子まで現れて。子どもとオジサマたちに好かれるオーラが出ていたのかもしれない(笑)。
それで、2代目の『ロンパールーム』の先生になり、それからずっと芸能界ですから、この世界が合っていたんでしょうね。
「パートナー・オブ・ザ・イヤー」賞に選ばれて
その後、執筆業のもの静かな人と結婚したかったのに、なぜかよくしゃべる人と結婚することになって(笑)。
愛川と結婚する前に、母に紹介したら、「この人はバツイチだけど、うそはつかない人だから、母さん賛成だよ」と。これで、決まり!って感じでしたね。
その母の見立ては、やっぱり間違ってなかった気がします。
2005年に「パートナー・オブ・ザ・イヤー」賞に選ばれて、「うまくやっていくコツは?」なんて聞かれるんですけど、私はずっとキンキンが好きなんですよ。一瞬たりとも色あせない。
彼は、頭はいいし、勉強家だし、人間としての魅力があるんですね。細かいところにもよく気がつくし、慎重派。私は石橋を叩かないで渡っちゃう方だから、ちょうどバランスがとれてるんですね。
笑うツボも同じだし、温泉に行くのも好き。違うのは食べ物の趣味かな。彼はラーメンとかコロッケとか、庶民的な味が好きで、私はいつもグルメの友だちと一緒においしいレストランを探して歩くのが好き。でも、友だちを連れてワッと食事に行くのが好きなのは、共通ですね。
私が主婦として誇れるところがあるとしたら、インスタントものは食べさせたことがないということ。だって、作る時間はたいしてかからないし、鰹節を削るのだって、腕の運動だと思えばいい。そうすると家事は楽しいんですよ。ときどき、掃除に夢中になって、貧血起こしたりしてますけど(笑)。
努力すれば何でも叶う
7年前から舞台を始めて、今はコンサートにミュージカルと、歌ったり、踊ったりしているのが楽しいですね。稽古場で1人歌詞を覚えるのは孤独な作業ですけど、小説を書く苦しみに比べたらずっと楽しい。
でも、舞台稽古は肉体的にすごくハードなので、食事をたくさん食べないと、すぐに5キロ10キロやせちゃうんです。もともと39キロしかないから、これ以上やせたら大変。以前、舞台で瀕死のハクチョウを演じたら、ピッタリの役だって大ウケでした(笑)。
カチンカチン体操で、体質が変わってしまい、今は太れないのが悩みですね。
悩みといえば、最近は、うつ病や自殺をする人が増えてますけど、私には信じられない。死ぬ勇気があるなら、生きればいいのにと思う。生きたくたって生きられない人もいっぱいいるんだから、命を大事にしたい。
私の場合、竹を割ったような性格だから、オカマのお友だちから「男らしいわ」って言われるんです(笑)。もちろん、悩んだりもするけど、「絶望はしちゃいけない」っていうのが、わが家の教えだったから。
こんなに何でも自由にできる世の中で、うつになっていたら、もったいない。努力すれば、何でも叶うんですから。
「夢は見るものじゃなくて、実現するもの」これも母の教えです。だから、やりたいことにどんどんチャレンジして、夢を1つ1つ実現させていきたいですね。
(東京都港区赤坂にて取材)
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