私にとって、音楽は『祈り』なんです
- 城之内 ミサさん/作曲家
- 東邦音楽短期大学音楽部作曲楽理科に在学中よりテレビドラマ、映画音楽の作・編曲など、プロとしての活動を始める。
1989年から、国立パリ・オペラ座管弦楽団および国立パリ管弦楽団との共演によるレコーディング。
1990年、フランスにてフランス映画音楽界の大家ジャン・クロード・プティ氏に師事。 アルバム「華」「華Ⅱ」は全米ニューエイジチャート上位にランクイン。
2002年作曲の大阪シンフォニー交響楽団委嘱作品「空華Ⅱ」は国内をはじめ、ルーマニア、中国、マケドニアなど海外のオーケストラで各国初演。
2004年2月11~16日ベルサイユ祭・フランス公演で自作曲を指揮。また、直前のプレイベントでは、パリ・オペラ座管弦楽団のコンサート・マスター、アラン・クズネツォフ氏、同楽団の弦のトップ奏者たちと、城之内自らのピアノによる共演を予定している。
私にとって、音楽は自分の心の中を自問自答し、自分と対話する手段
私は小学校のころから、作曲家になるのが夢でした。もともと絶対音感があったらしく、5才でピアノを習い始めたのですが、いつも好きなように曲の伴奏を変えて弾いていたんです。そんな私を見て、作曲の方が向いていると思った先生は、譜面の書き方を教えてくださり、私が一つ曲を作る度に「すごい!」って誉めてくれたんですよ。曲といっても落書きみたいなものですが、誉められるのがうれしくてまた曲を作る。今から思うと、とても育て上手の先生だったんですね(笑)。
その先生から教えられたのは、情景を音楽で表現すること。例えば花を見て美しいと思ったら、言葉の代わりに音で表してみる。そして、なぜ美しいのかを考える。私にとって、音楽は自分の心の中を自問自答し、自分と対話する手段でもあったし、絵日記のようなものだったんです。だから学校の先生に怒られて頭にきた曲とか(笑)、毎日の出来事の中で、作曲を楽しんでいました。
両親からは、特別に教えられたことはないのですが、いつも周りの人やすべてに感謝しなさい、と言われました。その感謝の気持ちを音楽に託したら、と。私の曲が「癒し系」とよく言われるのも、この両親の影響が大きいのかもしれません。そして、15才のときに映画「シェルブールの雨傘」の音楽で知られる、ミッシェル・ルグランのコンサートに行き、もう大感激!舞台のスクリーンを見ながら自作の曲を指揮し、ピアノを弾き、歌も歌い、エンターテインメントとしての姿を見て、私もこんな風に何でもできる音楽家になりたい、と夢はさらに膨らみました。
ほんの偶然から、劇伴作曲家としてデビュー
そんな私が、初めて劇伴(映画やテレビドラマで流れる劇の伴奏音楽のこと)の仕事を手がけたのは18才のとき。ピアノの先生のお宅にレッスンで伺っていたときのこと、その先生に急な仕事の依頼があり、たまたまそこにいた私にお鉢が回ってきたのです。
それは、テレビドラマの中で使うために、モーツァルトのコンチェルト「戴冠式」を、ピアノ用にアレンジしてほしいという依頼でした。それもたった1日で…。でもとっさに「面白そう!」と引き受けてしまったのです。私にとっては、憧れのミッシェル・ルグランへの第一歩だったし、無茶な依頼だから失敗しても文句は言われないだろうと(笑)。幸い、この仕事はうまくいき、自分の奏でた音楽が映像とリンクしていく心地よさを初めて味わいました。当時、音大生だった私は、自分の進路に迷っていました。劇伴にも興味はありましたが、そのころの劇伴は、ベテランの作曲家が手がけることが多く、もっと勉強した方がいいと周囲からは反対され、シンガーソングライターとしてレコードデビューの話もあったし、一体何を選択すべきなのかと。結局、ジュリアード音楽院へ留学することに決めたのです。
ところが、ちょうどそのころから劇伴の依頼が殺到し、悩んだ挙げ句、留学を断念し、劇伴を中心に作曲活動をすることになりました。
大失敗から学んだプロの仕事
一番最初に劇伴をオリジナルで作曲したのは、2時間のサスペンスドラマでした。36曲を3日で仕上げるというハードな依頼。何とか徹夜で書き上げたものの、譜面家さんに出すために乗ったタクシーの中に置き忘れてしまったのです!気づいた瞬間、自殺しようかと思うぐらいショックでした。うろ覚えの曲を現場で熱を出しながらも書き続け、譜面家さんにやっと間に合わせてもらって…。もうボロボロの状態でした。何しろ、この番組のプロデューサーは、ユーミンを主題歌に抜擢して大ヒットさせたという人物。その人からの依頼というプレッシャーもあったんですが、仕事が終わり、何とこのプロデューサーがすごく誉めてくださったんですよ。「プロの仕事をしたね」と。うれしかったですね。
この番組が18%という高視聴率をとったこともあり、その後、劇伴の仕事がどんどん増えていきました。若いせいもあって、現場でバカにされたり大変なことも多かったのですが、出演した俳優さんや視聴者の方から、誉めていただくとうれしくて、その度に1つ1つ階段を上ってきたような気がします。
大ファンだった小野寺昭さんと一緒に仕事をさせていただいたときは、打ち上げで「すごくいい音楽でしたね」と握手までしていただいて…。やっててよかったと思った瞬間でした(笑)。
劇伴は、ドラマのシーンに合わせて感情を盛り上げていく音楽ですが、例えば、殴るシーンでもどんな気持ちで殴っているのかを考える。その行間を読むことが大事なんですね。私の曲は、ほかの作曲家にはない味があるとよく言われますが、多分、子どものころから音楽を通して感情と向き合ってきたことが、役立っているんだと思います。
パリ・オペラ座との幸運な出会い
そして、ある日私が歌った番組の主題歌へのリクエストが届き、それならアルバムを作ろうという企画が持ち上がったのです。プロデューサーから、オーケストラと共演したら?と提案され、学生時代からフランスに心酔していた私は、迷わず「パリ・オペラ座管弦楽団と共演したい」と答えました。私の身のほど知らずに苦笑していたプロデューサーに、「じゃあスコアを送ってみれば」と冗談で言われ、私はさっそく実行したのです。すると、何と「OK」の返事が来たのです!最初は絶対に信じなかったレコード会社も、資金を出してくれることになりあれよという間に、世界に名立たるオペラ座のオーケストラと共演できることになりました。その上、映画『シラノ・ド・ベルジュラック』などの楽曲を手がけたジャン・クロード・プティ氏が、私の曲にタクトを振ってくださったのです。彼は独特の表現で、例えば「シャンパンの泡がはじけるような音を」なんて言うんですね。そうすると、本当にスパン!という音をオーケストラが奏でる。まさに、「本物」の芸術を目のあたりにして、その迫力に目の覚める思いがしました。
そんなオペラ座の人たちが、なぜか「ミサの曲が好きだ」と、とても気に入ってくれたのです。「こういう曲はミサしか書けない、すごくオリエンタルな曲だ」と。私としてはフランスのカフェに似合うようなフランスらしい曲を作ったつもりなのに…。やはり、私のDNAの底にあるのはアジアなんだとあらためて気付かされました。
オペラ座との共演は8年間続きましたが、彼らから、「今度は、もっとミサのアジアを代表する音楽を演奏したい。自分の内面を追求して戻っておいで」と言われたのをきっかけに、いったんオペラ座との活動をストップすることにしたのです。その後8年ほど、自分らしい音楽とは?一体何を書いたらいいのか、と試行錯誤しながら、曲を書きつづる日々が続きました。
アジアとヨーロッパの懸け橋になりたい
そして、1998年。あるプロデューサーからのオファーを受け、アジアの音楽を書くことになりました。どんな曲にしようかと、部屋で地球儀を回していたら、ふと「ヨーロッパとアジアの懸け橋になる音楽をやるべきなんだ」とひらめいたんです。
いかにもアジアという音楽ではなく、ヨーロッパの響きと混じりあったオリエンタルな音楽。それこそが、私の音楽なんだと。地図でいえば、中央アジアからヨーロッパへといたるシルクロードの上の「草の道」。その地域をイメージした曲を作ろうと思いました。とはいっても、実際に世界で起こっている紛争や貧困などの現実を見れば、とても音楽に表せる状況ではありません。でも、音楽はドキュメンタリーではなく、私にとってはもっとロマンチックなもの。レクイエムでもあり、祈りでもある。今音楽にできることは、ただ「祈ること」だけだと思っています。だからこそ、写真も文献も見ないで、心の中のイメージを大切にしたいと思ったのです。それぞれの国の人々に畏敬の念を込め、「華」というアルバムを作りました。
これは、アメリカでヒットチャート上位にランクされるなど、海外で高い評価を受けました。その後、仏教で「心の目で見れば、見えない世界が見えてくる、空に華を見るように」という意味を表す「空華」というシンフォニーを書きました。この「空華」は、中国やルーマニアなど世界各国で演奏されたのですが、特に印象的だったのはマケドニアでのコンサートでした。「空華」の意味はことさら説明しなかったのですが、演奏を聞いてくださった方が涙を流し、「亡くなった兵士へのレクイエムに聞こえた」とおっしゃってくださったのです。
再びパリ・オペラ座へ
海外で作品が評価され自信を得た私は、今こそ私らしい作品を持って、パリ・オペラ座に戻るタイミングだ!と思ったのです。そして、2003年6月、「空華」「ユーラシア大陸」と2つの曲を、国立パリ・オペラ座管弦楽団の演奏でレコーディングすることができました。
その後、パリのユネスコ大ホールで「華」を演奏し、「ドビュッシーの再来だ」とサイン攻めにあいました。このとき、本来は中国楽器・二胡のパートを、オペラ座のコンサートマスターである、アラン・クズネツォフ氏がバイオリンで演奏してくださったんですが、不思議なことに全く雰囲気の違うフランス風の素敵な曲になったのです。
私は、いつもどんな国のどんな民族楽器であれその演奏者が納得するような曲を作りたいと思っています。以前、海外の演奏者から「ミサさんは私たちよりも楽器のことをよく知っている」と言われました。これは作曲家として何よりうれしい言葉ですね。今年2月には、ベルサイユ祭で、奈良をテーマにした「大和路シンフォニー」を演奏しますが、こうして、フランスをはじめ、世界のトップの音楽家たちと一緒に仕事をさせていただき、本当に幸せだなと思います。日本では、芸術家というとナーバスなイメージがありますが、世界で超一流の人ほど仕事を楽しんでいます。超一流になればなるほど、謙虚でどんな小さなこともバカにしない。とても教えられますね。劇伴もオペラも、オーケストラも、どんなジャンルであっても、人の数だけある喜びや悲しみに音楽を投影していくという基本は同じ。これからもいろいろなことにチャレンジしながら、聞いてくださる方々の心に染みる音楽を奏でたい、と思っています。憧れのミッシェル・ルグランには、一生かなわないかもしれないけれど…(笑)。
(東京都中央区銀座 源吉兆庵にて取材)
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