Ms Wendy

2019年11月掲載

手塚治虫に見出され漫画家にセーラー服で単身上京、トキワ荘へ

水野 英子さん/漫画家

水野 英子さん/漫画家
939年、山口県下関市生まれ。55年、漫画家デビュー。58年3月〜10月「トキワ荘」に入居。代表作に『星のたてごと』『白いトロイカ』『ファイヤー!』など。2010年、第39回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞受賞。女手塚と呼ばれることも。トキワ荘に居住した漫画家の紅一点。「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ―線の魔術」は東京・京都・札幌・名古屋・静岡・松本、全6カ所を巡回。20年11月29日まで。
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人生の進路を決めた手塚治虫『漫画大学』

私は山口県下関市の生まれです。両親は当時の満州で出会って結婚したのですが敗戦の混乱で父は行方不明、母は40代前半の若さで病気で他界。それからは母方の祖母と兄の3人暮らしでした。兄というのは母の弟で正確に言えば叔父なのですが、12歳しか違わなかったので「お兄ちゃん」と呼んでいました。

小さい頃から本が好きで小学校に上がる前から字が読めていました。家の前の道路をはさんだ向かいが貸本屋さん。少年少女文学全集のような本は全部読破しました。

小学校3年生の時、その貸本屋さんで私の人生を決定づける運命的な出会いがありました。それが手塚治虫先生の『漫画大学』(1950年刊)でした。漫画の描き方を教える内容だけれど絵がきれいでかわいい。先生の作品もいくつか載っていたので借りて読んでみました。SFありミステリーあり、メルヘンあり。それぞれ違う雰囲気で、ひとつひとつが見たこともない面白さでした。私は腰が抜けるほどショックを受け、その瞬間「漫画家になろう」と決めたのです。

とはいえ、描くためにどんな道具をどこで買えばいいのか分からず兄に相談したのです。すると兄は協力してくれました。自分が学校で使っていた製図用具を譲ってくれたり、新たに買ってきてくれたり。2年くらいするとペンで描けるようになり、『漫画少年』という雑誌へ作品を投稿するようになりました。この雑誌が日本で唯一アマチュアの投稿を受け付けていて、その審査をするのが手塚先生でした。

中学の頃から投稿を始めましたが、入選には至らず、佳作どまりでした。

漁網会社で重労働

中学校を卒業すると、地元の漁網会社に就職しました。当時、高校に進学するというのはよっぽど出来が良いか家にゆとりがあるかのどちらかで、それ以外は就職するのが普通でした。漁網はとても重くて1本が40キロぐらいあります。網をかついで階段を上る重労働でした。

デビューを告げる「神様からの手紙」

漫画家デビューのきっかけになったのは一通の手紙でした。中学を卒業したばかりの3月、就職が決まってひと息ついていた私の元へ、「大日本雄弁会講談社(現在の講談社)」という、ものものしい名前入りの茶封筒が届きました。差出人は「丸山昭」と書いてあります。おそるおそる開封してみると、そこには「2、3点何か(マンガを)描いて送ってくれないか」とありました。お仕事の依頼です。

さらに私を歓喜させたのは、「手塚先生があなたにご挨拶の手紙を出すということでした」と書かれていたことでした。「青天の霹靂(へきれき)とはこういうことか!」と思いましたね。神様なんて気にもかけていない私でしたが、この時ばかりはそのお手紙をすぐ神棚にあげて拝みました(笑)。

お手紙には、それまで何度投稿しても佳作止まりで雑誌に載ることがなかった私に、なぜ面識もない丸山さんから声がかかったのかが書かれていました。

丸山さんは当時、手塚先生が『少女クラブ』に連載していた『リボンの騎士』の担当で、先生の部屋にしょっちゅう通っていたそうです。ある日、探し物を頼まれた丸山さんは膨大な先生の原稿の中に私の投稿原稿を見つけ、手塚先生に「この原稿は何ですか?」とたずねたそうです。すると「下関の女の子が投稿してきた作品だけれど、かわいい絵だから『少女クラブ』で育ててみてはどうか」とおっしゃったと。手紙にはその経緯が丁寧に書かれていました。

漫画家か開拓牧場か

この一件がなければ、私はデビューできていたかどうか分かりません。漫画家になれなかったら、開拓地の牧場で働きたいと思っていました。子どもの頃、兄と一緒によく見た西部劇が大好きで、カウボーイに憧れていましたから(笑)。その後も工場勤めと二足のわらじでマンガを描いていましたが、マンガの方が本格的になってきて、工場は2年でやめて、マンガに専念することになりました。

その後、中学時代のセーラー服姿で単身上京、後に伝説となる「トキワ荘」に入居したのは18歳の時でした。

「マンガは悪書」の弾圧を超えて

今となっては、信じられないことですが、私が子どもの頃から、マンガは「悪書」と言われ続けてきました。マンガ本を校庭に積み上げ、火をつけて「焚書(ふんしょ)」にされたことも一度や二度ではありません。マンガのすべてが叩かれ、「下の下の文化」として扱われました。

手塚先生ですら吊るし上げられたのですから、ひどい状況です。でも、私はマンガが悪いものだなんて一度も思いませんでした。手塚先生の作品は世界文学に匹敵する内容を持っていると思っていましたし、「なぜそれが悪いと言われなければいけないのか。私も先生のような作品を描きたい」という思いでした。当時の作家たちは皆、同じ思いだったと思います。

手塚先生は戦後、何にも染まっていない子どもたちに、未来への深い洞察と希望、そして警鐘のメッセージをマンガという形で送り、子どもたちはそれを受け取り成長していきました。子どもたちはどんなに禁止されても読み続けました。私もその1人ですが「子どもたちが読んだ」ことが重要だったのです。

当時、手塚先生を叩いていた大人たちは先生のマンガを読んでいないから、その素晴らしさを知らなかったのでしょう。どんな弾圧を受けても、マンガが発展したということは、日本のマンガがいかにメッセージにあふれ、面白かったかということの証明です。そこが外国のコミックスと違うところです。

『ファイヤー!』

漫画家としてピークの時期に描いたのが、ロックミュージシャンを主人公にした『ファイヤー!』(1969〜71年連載)です。泥沼化するベトナム戦争、東西冷戦で行き詰まった世界。社会に対する反発と、「ありのままの自分をもっとさらけ出そう」という、当時の若者たちの大きな思想の潮流が、ロック・ミュージックを媒介にして世界中に広がりつつありました。

そのメッセージに、私は共感しました。そして作品を描く前に、ロックが盛んな世界の都市を自費で回りました。イギリス、イタリア、北欧、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ…。夜中にミュージシャンが集まってガンガンロックをやりだす、本場のアンダーグラウンドの現場です。それは本当にスリリングで素敵で素晴らしい光景でした。それで私はますますロックにのめり込み、彼らの魂の叫びを、自分が見て感じたままマンガに描きました。

『ファイヤー!』の連載が終わってから、私は結婚せずに出産しました。後で思えば迂闊(うかつ)に…ということになるでしょうか(笑)。出産と子育てで漫画家としてのキャリアが中断したのは痛かったですが、反抗期もほとんどなく、素直で育てやすい子でした。

少しずつゆっくり、自分の体と向き合って

昨年、脊髄骨折をしてからは、仕事より体のケアに取られる時間が多くなりがちなのが悩みです。

注文した本がどさっと届いたのでとりあえずベランダに置いておいて後で片付けようと思ったら、雨が降り始めて。あわてて家の中に入れようとした瞬間に、グキっと(笑)。「これ以上無理をすると車椅子ですよ。気を付けてください」と医者から注意されていますので、コルセットは外せません。

今は息子と一緒に暮らしているので、買い物などをやってもらうことも多くなりましたし、家の中もぐちゃぐちゃのまま。だからといって深刻に捉えすぎるとうつ状態になりそうなので、できるだけ明るく過ごすよう心がけています(笑)。

ところが先日、病院へ行くと先生が、「潰(つぶ)れた背骨が再生しかけている」と言うのです。当初より少しだけ「マシ」な状態になってきているらしいのです。だから、焦らず、しばらく様子を見ようということになっています。

今、自分の骨が再生しようとしているなんて、人間の体って面白いなあと思います。

ミュシャ展、「トキワ荘」の復元

この夏、「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ—線の魔術」が始まりました。ミュシャという世界的なアーティストと並べていただけるなんて、光栄なことですね。私が『ファイヤー!』を描いていた1960、70年代にイギリスやアメリカで発売されたロックのレコードジャケットやポスターには、ミュシャがたくさん使われていました。この展覧会は東京から2年近くかけて全国を巡回するそうですので、ぜひ、ご覧いただきたいです。

今や日本のマンガは「manga」としてアニメも含め、世界中に広がっています。こんな時代が来るなんて、夢にも思わなかったことです。来年3月には東京・豊島区に、18歳の私が青春を過ごした「トキワ荘」が復元される予定なので、楽しみにしています。

私も自分の体と相談しながら(笑)、これからも頑張っていきたいと思っています。

(東京都新宿区にて取材)

  • 中学2〜3年の頃

    中学2〜3年の頃

  • 手塚治虫氏が住んでいた並木ハウス。水野さんが指しているのは自身の投稿原稿が入っていた天袋(2017年9月撮影)

    手塚治虫氏が住んでいた並木ハウス。水野さんが指しているのは自身の投稿原稿が入っていた天袋(2017年9月撮影)

  • 1964〜1965「週刊マーガレット」連載『白いトロイカ』©水野英子

    1964〜1965「週刊マーガレット」連載『白いトロイカ』©水野英子

  • 1969〜1971『ファイヤー!』執筆中。30歳頃

    1969〜1971『ファイヤー!』執筆中。30歳頃

  • 1969〜1971「週刊セブンティーン」連載『ファイヤー!』©水野英子

    1969〜1971「週刊セブンティーン」連載『ファイヤー!』©水野英子

  • デパートの催しで、トキワ荘のスタッフの人たちと。右から2人目が丸山昭氏。左から2人目が水野英子さん

    デパートの催しで、トキワ荘のスタッフの人たちと。右から2人目が丸山昭氏。左から2人目が水野英子さん

  • 水野 英子さん

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