モンゴル人と日本人「似ていて非なるもの」 異質さを愛でる
- 小長谷 有紀さん/文化人類学者・モンゴル研究者
- 国立民族学博物館名誉教授。中部大学創発学術院客員教授。国際モンゴル学会会長。専門分野はモンゴル・中央アジアの遊牧文化。1957年大阪生まれ。京都大学文学部卒業。79年、モンゴルに日本人女性初の留学。87年より国立民族学博物館に勤務し2007~19年センター長。19年3月に退職、現在名誉教授。13年紫綬褒章受章、22年モンゴル国より北極星勲章。『モンゴル草原の生活世界』(朝日選書)ほか著書多数。佐賀県に26年春開学予定の武雄アジア大学(仮称)学長に就任予定。
最大のモテ期は幼稚園時代
生まれ育ったのは大阪です。市内のど真ん中ではなく北摂(ほくせつ)地域と言われる、ちょっと出かければハイキングにも行けるようなところで育ちました。わが家は会社員の父、専業主婦の母、3歳下の弟と父の会社の社宅で暮らす昭和の典型的な家族でした。
幼い頃、腸炎にかかったこともあってか私は同い年の子にくらべてとても小柄で、かわいらしく見えたようでモテたんです。幼稚園の男子全員が「ゆきちゃんをお嫁さんにする!」と言っていたとか。この時代が、わが人生最大のモテ期でした(笑)。
小学校は1日も休まず元気に卒業し、中学校は大阪教育大学附属池田中学校へ。1年の時に父の転勤で東京へ引っ越し、同じ国立の東京学芸大学附属竹早中学校に転入して東京で中学、高校時代を過ごしました。
中学生の時、私は通信教育で早稲田式速記を学びました。費用は親に出してもらっていたのですが、中学生なりに「手に職をつけて、さっさと家を出て働こう」と考えていたのでしょうね。
高校時代、母が腎臓病で自宅療養をしていた時に家族の食事を私が3食作っていた時期がありました。今で言えばヤングケアラーということになるのでしょうが、当時はそんな言葉もありませんし、なんとも思わず普通にやりこなしていました。この頃から、キュウリの輪切りを1万本はやったので、今でも目をつぶって切る自信はあります(笑)。
高校3年の時、ユネスコの新聞広告が目に留まりました。高校生を対象に美術館や博物館を巡るスタディツアーの募集でした。私は親に、「絶対に私立大学には行きません。浪人もしません。だから旅行費用を出してください」と学費のかからない大学への現役合格を条件に交渉し、初めての海外旅行が実現しました。この時、「本当にやりたいことならたとえ可能性が低くても『やるぞ』と決めて自分から動くことが大事なんだ」と実感しました。今になって思えば、ヤングケアラーの私に、親が精一杯のチャンスを用意してくれたのかもしれません。
大学受験のタイミングで父の転勤でまた大阪に戻ることになりました。もう国公立しか選択できないので目標を関西方面の大学に絞り、京都大学文学部史学科へ現役合格して、無事に約束を守ることができました。
2年がかりで実現した留学
京大文学部で「西南アジア史学科」を選択する予定だったのは、社会に漂う閉塞感から「日本とは真逆の、だだっ広いところへ行きたい!」という漠然とした思いがあったからかもしれません。
それがモンゴルに変わったのは、大学3年の時でした。大阪外国語大学の先生が夏休みに一般人を対象に1カ月かけて行うモンゴル語講座があり、その勉強がモンゴル留学へとつながる最初のきっかけでした。
秋に、さっそく文部省(当時)の留学試験を受験しようとしましたが、当時のモンゴルは「女性が1人で行くには危険」という理由で受験自体がかなわず、翌年ようやく女性にも門戸が開かれ2名が合格。私は2年がかりで日本初の女性留学生となりました。当然、親は心配です。その後、モンゴル語講座で知り合った男性と学生結婚をすることになりましたが、その時ももちろん心配です。私がやるといったら止められない性格であることは、両親がいちばんよく知っていたと思います(笑)。
留学中はスパイ容疑で捕まったり、ルームメイトとケンカしたり、大変なこともあったけれど、世界中から来た留学生同士の交流など楽しいこともたくさんありました。
留学で実感したのはモンゴル人と日本人は顔がそっくりなのに文化や価値観がまったく違うこと。そしてその「似ていて非なるものの面白さ」でした。この時「異質さを愛でる」というスタンスで自分が書く側、情報を発信する側に回りたいと思って帰国しました。留学して初めて「研究者になりたい」という気持ちが芽生えたのです。
大学院生時代 企画会社の立ち上げ
とはいえ、1989年のベルリンの壁の崩壊まではまだまだモンゴルは社会主義国でしたから、大学院生時代にモンゴル研究で生きていけるかどうかは微妙でした。就職できるかどうかも全く分かりません。
そこで私は大学院生時代に意気投合した仲間たちと3人で企画会社を立ち上げました。私にとってビジネス活動は研究を続けるための経済的なリスクヘッジのひとつでしたが、学生起業のはしりのようなものでしょう。
企業のコンサルティングや学習塾のカリキュラムや教科書作成、自転車レース「ツール・ド・フランス」の雑誌記事を作ったこともありました。ビジネス活動はあくまでも研究生活の副業でしたが、どれも試行錯誤しながら真剣に取り組みました。
面白かったのはフリーランスのプレゼンターの仕事です。依頼主の企画をプレゼンする成功報酬の仕事で、やりたいことを理解してもらう伝え方を実践で学びました。このスキルは学術でもビジネスでも同じことで、その後も大いに役立ちました。
当時、国立大学の教員は兼業禁止。京大の助手になった時に会社は諦めて畳むしかありませんでした。もし続けていたらまったく違う人生になっていたでしょう。
人事を尽くして天命を待つ
同じ頃、私は大阪府吹田市の国立民族学博物館(民博)初代館長の梅棹忠夫先生を訪ねています。文献研究のひとつとして「未整理の中国内モンゴル自治区での調査資料を見せていただけないでしょうか」とお願いしてみましたが、けんもほろろに追い返されてしまい、訪問はその一度限りとなりました。
ところがその後、梅棹先生は失明され、資料整理について思案されたのでしょうね。私のことを思い出してくださったのです。1987年に民博に就職し、2019年まで勤めることになりました。たった一度の訪問が後に実を結び、人生を決定づける大きな分岐点となったのです。
自分の努力がいつ実るかは自分にも分からない。だからこそ、人はその時その時にベストを尽くすべき。そんなわけで、私の座右の銘は「人事を尽くして天命を待つ」。私の人生を貫く考えです。
歴史の激変を記録する
民博に就職してからもずっとモンゴルと関わっていくわけですが、社会主義が終わり、新生モンゴル国となった1992年は私にとっても大きな節目でした。すぐに現地へ向かうと、棚が空っぽでモノが何もないスーパーマーケット、路上でタバコを立ち売りする赤ん坊を抱えたお母さん…、その光景は、まさに経済破綻のどん底でした。その状況から再生が始まるまで3、4年ぐらいかかったと思います。
民主化によってインタビューも自由になったので、私はかつて社会主義を進めた政治家たちと、彼らによってパージ(追放)された側と、双方の当事者にインタビューすることに挑戦しました。国中が大混乱で誰もがその日を生きるのに精いっぱいという経済破綻状況下での取材は、まさに私のような外国人の第三者にしかできない仕事だと思いました。
社会主義時代のエリートたちにとって国をつくること=自分の人生をつくることでした。民主化によって紙くずになってしまった社会主義の理想を信じて懸命に頑張ってきたことがよく分かりました。その一方で当時の権力闘争に敗れた側にも才能にあふれたユニークな人がいて、刑務所の中で商売を始め、その後ビジネスマンとして成功した話など、もう今となっては決してできない貴重な証言を残すことができました。
遊牧と相性がいい最先端技術
民主化後に生まれた今のモンゴル国の若者たちは、チャンスを求めて自由に外へ出られる世代です。何かを極めるために外へ出ていけることは幸せだと思います。
また、国内のことを考えてみても太陽光発電や携帯電話など、21世紀のインフラは遊牧世界と相性が良いので、いろいろなテクノロジーを享受しながら遊牧生活を続けていくことができると思います。彼らは新しい技術が大好きですし、親の世代が経験に頼っていた家畜の管理もGPSやドローンを使いこなしてやっていく。そんな新しいスマート遊牧民がどんどん出てくると思います。
次世代育成に尽力したい
2019年に民博を退職し、現在、ご縁あって佐賀に新しくできる武雄アジア大学(仮称)の開学の準備をしています。地域に貢献する人材の育成を目指す大学で、講師陣には地方創生のプロフェッショナルたちが集まりました。ゆくゆくはアジアからの留学生も受け入れたいと思っていますが、まずは日本国内からの募集がメインとなりますので、今、各地の高校を訪問して説明会を開いています。
次世代の若者のためにセカンドライフのエネルギーを使えるのは本当に幸せなこと。親からもらった健康な体に感謝しながら、今後はご縁のある土地に居を定めて、大学づくりの仕事を続けていきたいと思っています。
(都内にて取材)
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