元宝塚星組トップスター 5度の組替え、15年目でトップに就任
- 香寿 たつきさん/女優
- 1965年生まれ、北海道出身。86年、宝塚歌劇団に入団。96年、日本初演の『エリザベート』ルドルフ役、『ベルサイユのばら2001』アンドレ役など、芝居・歌・ダンス3拍子そろった男役として活躍。2001年、星組トップスターに就任。03年、『ガラスの風景』『バビロン-浮遊する摩天楼-』にて退団。以降は舞台を中心に活動。主な出演作品に、『天翔ける風に』『モーツァルト!』『エリザベート』『ラブ・ネバー・ダイ』『ハリー・ポッターと呪いの子』など。10年、第35回菊田一夫演劇賞受賞。
ビブラフォン奏者の父 家族との思い出
私は北海道札幌市の出身です。ビブラフォン奏者の父、母、姉と妹がいます。姉妹のなかでは1番大人しく、内向的で、2人が外に遊びに行っても、私は家で1人、しんしんと降る雪を見つめながら詩的な感傷に浸っているような子どもでした。
その家にはよく父の生徒さんが来ていて、絶えず音楽が流れていました。子煩悩な人で、家族旅行や外食に連れて行ってくれ、ホテルで演奏の仕事があると、ホテルのケーキをたくさん買ってきてくれました。その上、愚痴を一切言わず、楽しいことがあったときしかお酒は飲まない主義。娘の私から見てもダンディですてきな男性だったと思います。2011年に他界しましたが、その分、母には長生きしてほしいと思っています。
ドラマを見てクラシックバレエの虜に
小学2年生ぐらいのとき、『赤い靴』というドラマを見たのがきっかけでバレエを始めました。プリマドンナを目指す少女の物語ですが、本物のバレリーナが主演だったこともあり、その世界観に引き込まれ、親に頼んでバレエ教室に入れてもらったのです。
バレエでは自分が鳥になったり、水や風の精になったりします。その動きを曲に乗せて表現するうち、自分の感情が解き放たれていき、踊ることで内向的な性格がどんどん外向きになっていきました。
初めてトーシューズを買ってもらった日はうれしくて、抱いて寝たことを覚えています。
ダンス三昧から一転 宝塚音楽学校を受験
高校の3年間は札幌のバレエ団と放送部をかけもちし、NHK杯のアナウンス部門に出場、優勝も経験しました。「バレエで身を立てられなかったら、アナウンサーかジャーナリストになりたい」と思うほどのめり込みました。特に“感情を込めて読む”のが好きで、これはのちの女優業にも役立ったかなと思います。
バレエに関しては、毎年夏休みになると2週間、ひとりで上京。叔母の家に泊めてもらい、札幌のバレエ団と懇意にしているバレエ団のレッスンに通いました。
当時は『フラッシュダンス』や『サタデー・ナイト・フィーバー』がはやり、日本のダンスブームに火が付いた頃。私はアルバイトで貯めたお金で、ニューヨークから来ていたプロのダンサーが先生のレッスンにも通い、ダンス三昧の生活を謳歌(おうか)していました。
そんなとき出会ったのが宝塚音楽学校の本科生の方です。同じダンスレッスンを受けるうちに仲良くなり、「これだけ踊れるなら、一か八か宝塚を受けてみたら?」とすすめられたのです。宝塚音楽学校を受験できるのは、15歳~18歳まで。私にとってはラストチャンスでした。その頃になると、自分の実力で東京のバレエ団に入るのは難しいことも分かってきました。
「たしかに、これまでの経験を生かして踊りを仕事にするとしたら、宝塚か劇団四季以外ないのかもしれない…」。それで背中を押されるように、宝塚音楽学校の受験を決めたのです。
まさかの一次試験合格 二次試験の結果は?
しかし、すでに高3の夏休み。私は楽譜もろくに読めなかったので、むしろ合格したら奇跡です。両親から「受験は反対しないが、甘く見るな」と言われるなか、付け焼刃の歌のレッスンを受け、一次試験に臨みました。
するとまさかの合格!続く二次試験のため、私は単身、大阪まで行きました。運よく、父の知り合いをたどって宝塚歌劇団の先生に歌のレッスンをお願いすることができ、先生のお宅へ。ところが、「あなたは譜面も読めないし、これでは箸にも棒にもかからない。私のところに来たからといって、合格するなんて思わないでね」と非情な言葉をもらうことになったのです。
そこまで言われたらあきらめもつくというもの。せめてものあがきで、課題曲は自分の振り付けで踊って歌いました。
そして迎えた合格発表当日。学校の門の外からそっとのぞいてみると、ないはずの自分の受験番号があってびっくりしました。そこにもう1人、合格に驚いている受験生がいました。それが「紫吹淳」さんです。いずれトップスターになる同期2人の抱き合う姿がアサヒグラフの表紙を飾るという、思いがけない出来事とともに、私の宝塚人生はスタートしました。
1年目からダンスで抜擢されたものの…
音楽学校卒業後に宝塚歌劇団に入団。最初に配属されたのは花組で、奇しくも紫吹淳さんと同じ組でした。「ダンスの花組」と呼ばれるほどダンスの名手が多く、私も彼女もダンスが得意だったので、1年目からダンスで抜擢され、ニューヨーク公演の際は、出演者への振りうつしの助手までさせていただきました。当時の男役トップスター・大浦みずきさんのもと、夢のような毎日が過ぎていきました。
でも、心のどこかで思っていたのです。「大浦さんがいなくなったら、私はどうすればいいんだろう?」と。研究科5年生になり、大浦さんが主役の『ベルサイユのばら』‐フェルゼン編‐の新人公演で、私がフェルゼン役をやらせていただいたときには、「もう十分踊った。大浦さんが退団されるときは私もやめよう」と決め、両親にも伝えました。そして、退団後は、まったく違う職業に就こうと思っていました。
組替えで進退に悩み慶應義塾大学を受験
ところが大浦さんが退団を発表する直前、「芝居の雪組」と呼ばれる雪組に突然組替えになったのです。
別名、「和物(時代劇)の雪組」とも言われ、今までよりダンスをする機会が減ってしまいました。しかし私は4人のスター候補生の1人に。新人公演では主役の源義経や大石内蔵助役を演じることができるようになりました。トップスターへの可能性が出てきたことで、やめることが遠退いていきました。
どんなことにでも精一杯頑張りましたが、また進退に悩み始めた私は、「これから大学に入り直せば、かつてやりたいと思ったアナウンサーやジャーナリストの道も夢ではないかもしれない」と考え、慶應義塾大学の社会人入試を受験することにしたのです。ところが、です。慶應に無事に合格して、「よし、今度こそやめよう」と決めた矢先、再び花組に戻ることになったのです。
そのときのトップスターさんは、真矢みきさん。下級生の頃から新人公演等でいろいろ教えてくださった真矢みきさんの下で、「もう一度ここでがんばってみよう」と思いとどまりました。
5度の組替えの果てに待っていたトップの座
しかし、またまた1年ちょっとで再び雪組へ。今度は2番手スターとしてです。この時は、さらにやる気も出てきてやめるという文字は頭の中から消え去っていました。
しかし5年が経ち、2番手スターとして板についてきたときです。歌劇団の新しい制度、5組目の宙組が誕生し、その結果各組の2、3番手スターは全員専科に集められることとなってしまいました。本当にトップスターへの夢は手の届かない場所へ行ってしまったようでした。
そのときの気持ちを正直に言えば、「あのときなぜ慶應に行かなかったんだろう?私はとんでもない人生のチョイスをしてしまった…」。でも、今さら嘆いても仕方ありません。今後は自分のなかで「男役としてこれが極みだ」と思える作品に出合ったらやめようと心に決めました。
そして、まさにその作品に出合い、次の公演を最後に退団しようと思っているとき、突然「次期星組のトップスターに」と言われたのです。
宝塚に入団して以来、退団を決意するたび、必ず別の道が用意されてきました。でも、15年目にしてまさかこんなうれしい結末が待っていたなんて。もしも神様がいるとしたら、「やめてはいけない。お前の天職はこれだ」と、私に何度も教えてくれようとしたとしか思えませんでした。
大きな羽を背負ったスターが輝く理由
星組のトップスターでいた期間は、実は1年余りです。「ここまで辛抱強く待ったのに」と思われるかもしれませんが、引き際は必ずあるのです。
その代わり、組子の皆さんひとりひとりにセンターに立たせていただける感謝の気持ちを注ぎ、心を1つに、お客様を夢の世界へ連れて行く作品をつくりあげることが私のトップとしての務めだと考えました。
トップスターは、ステージの最後に大きな羽を背負って大階段を真ん中から降りてきますが、組子の皆さんが心からトップスターを尊敬する気持ちがあればこそ、見つめる目がキラキラ輝き、そしてその光を受けてトップスターとして輝けるのです。その空気感が、お客様の心を感動で満たすのだと今も思います。
癒やしの時間は愛犬と戯れるひととき
今となっては、宝塚での在籍期間よりさらに長い時間を女優として活動していますが、役に対する情熱は少しも衰えていません。もちろん壁にぶつかって悩むこともあります。でも、役者は自分で決めない限り引退がないので、そのときまで努力し続けるつもりです。
プライベートでは肩の力を抜いて、食事とお酒をゆっくり楽しむ時間を大切にしています。今の1番の癒やしは愛犬と過ごすこと!
メルモ(愛犬の名前)は保護犬で、推定3歳のとき私のもとにきました。最初はふれあうことが難しく、どうしたら懐いてくれるか、あの手この手を試しましたが、つい最近5年目にしてやっと腕枕で寝てくれるようになりました(笑)。この癒やしを心の栄養にして、これからもがんばります。
(東京都内にて取材)
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