Ms Wendy

2024年11月掲載

民藝入団から60余年 宇野重吉が育てた舞台に今も立つ

日色 ともゑさん/女優

日色 ともゑさん/女優
1941年生まれ、東京都出身。61年劇団民藝に入団、宇野重吉に師事し演技を学ぶ。NHKでは『若ものたち』『東京の女性』などのドラマで活躍後、67年に平均視聴率45.8%の大ヒット連続テレビ小説『旅路』のヒロインに抜てきされる。大河ドラマ『春の波涛』などにも出演。明るくやわらかな声色を生かして海外ドラマ『大草原の小さな家』ではやさしい母親キャロラインの声を演じた。趣味はラグビー観戦、米作り、洋裁、パッチワークなど。最新出演は12月に新宿で上演される劇団民藝公演『囲われた空』。
子どもの頃の夢は詩人になること

きょうだいは3人。千葉に2つ違いの姉、静岡に2つ下の弟がいて、今も3人とも元気です。「日色(ひいろ)」は父方の姓で、めずらしいです。

 

父は都(みやこ)新聞(現在の東京新聞の前身)で歌舞伎、軽演劇などを担当する文化部の記者でした。

 

母の実家は東京の本所で工場を経営。人力車で女学校に通っていたと母から聞いたことがあります。母は体が弱かったこともあってお嬢様として大事に育てられたようです。29歳の時に、お見合いで39歳の父と結婚。当時としてはどちらも晩婚ですね。

 

両親は子どもたちに「勉強しなさい」とは一切言いませんでした。成績が悪くても叱られたりしませんでしたし、とても自由に育ちました。両親はただただ健康で素直に育つようにと望んだのだと思います。

 

子どもの頃の夢は石川啄木のような詩人になること。父の影響もあって本を読んだり書いたりすることが好きで、小説家になって直木賞なんかを目指すとか(笑)。「物書き」の世界にも憧れがありました。

疎開と大空襲

終戦は3歳の時。父の実家の千葉に5年いました。生家は東京大空襲で全滅。終戦後すぐにその場所に父が行ってみましたが、すでに誰かがバラックを建てて住んでいたそうです。

 

戦後は本当に食べ物がなくて大変でした。食べるために母の着物が1枚ずつなくなっていくのが分かりました。もちろん甘いものなんて全然ありません。おかげで私の歯は全部自前です。今となっては良かったのかも…(笑)。

進路を決めたデモ行進

高校は姉と同じ女学校へ。卒業後は大学に行くつもりで勉強していましたが父が反対。父は進歩的な人でしたが「女が大学に行っても生意気になるだけ」という時代でした。反対されると私自身も大学に行って何を学べばいいのか悩んでしまって、迷っているうちに大学入試も就職試験もみんな終わってしまい、卒業してから何もすることがなくなっちゃって。

 

そんなある日、友人と銀座をぶらぶら歩いていた時に日比谷公園の角で「新劇人会議」と書いた横断幕を持って整然と歩く「すてきなデモ行進」に出くわしました。行列の先頭に目をやると、映画やテレビで見たことのある人たちでした。

 

「この人たちは俳優をしながら現実社会にもきちんと目を向けている。なんてすてきな人たちなんだろう!」と、心が一気に燃え上がりました。家に帰って父にそのことを話すと、「それは『新劇』というジャンルの人たちだよ。もし劇団に入りたいのなら新聞に出る公募を待つんですね」と教えてくれました。

民藝合格 「私の居場所はここだ!」

ある日「民藝という劇団が俳優教室という養成所の1期生募集をしているよ」と父が教えてくれました。

 

大急ぎで書類を送り受験。1次の作文が通って2、3次が面接でした。その場でもらった台本を練習なしでいきなり読む試験で、審査員の宇野重吉先生に「そんな小さな声じゃダメですね」と言われてしまいました。私は劇団に入りたいと思っていましたが、お芝居なんて学芸会でもやったことがなかったんです。

 

だから「その通りだな」って納得しちゃって。「試験には落ちただろうけどナマの宇野重吉さんに会えてよかったな」という感じで、それほど落胆もせず帰宅しました。それからしばらくして、合格通知が届きました。うれしかったですね。

 

私は、憧れの人たちと同じ空気が吸えれば裏方でも何でもよかったので、劇団に通ってさえいれば楽しいという毎日でした。衣装さんのお手伝いをしたり小道具を作ったりするのも楽しくて、「私の居場所はここだ!」と思えたんです。

 

受験番号が500番台でしたから500人くらいが受験して合格者は30人ぐらいだったのでしょうか。2カ月くらいするとそれが半分になり、10年後に女性で残っていたのは私ひとりでした。

NHK連ドラ出演で一躍全国区に

俳優教室に入ってすぐ「村娘の1」とか名前のないような役でお芝居に出る機会がありました。民藝は当時、自社製作の映画やテレビドラマも作っていたので、私が出た舞台を見て「彼女をヒロインに」と言ってくださった映画監督がいたんです。

 

それが俳優教室に入った年の9月。その後も舞台『アンネの日記』の主役に抜てきされたり。自分でもよくわからないうちに、ベルトコンベアーで舞台の真ん中に運ばれたような感覚でした。

 

最初の頃はそれがちょっとつらかったですね。姉や弟は小さい頃から歌が上手で学芸会ではいつもスター。私は人前で何かするのが恥ずかしくて、それがずっとコンプレックスだったんです。それなのに姉はさっさと結婚して家庭に入り、私がこんなに長く役者をやっているのだから不思議なものですね。

 

その頃、NHKによく出演されていた宇野先生を通じて朝ドラ『旅路』出演のお話がありました。放映が始まると、街でじろじろ見られたり電車に乗れなくなったり、びっくりすることばかりでした。

 

ずっと後になって当時のプロデューサーに私をキャスティングした理由を聞いてみたら、「この子は老け役ができると思った」と。確かに26歳で18から63歳ぐらいまで演じましたけど、そんなに老け顔だったのかしら(笑)。

夫婦でアクティブに

結婚は28歳の時。夫(建築家の中園正樹氏)とは劇団に入る前から付き合っていましたが、私は子どもの時から「職業婦人」(笑)になると決めており、彼が「家庭に入ってほしい」という条件だったので一度は破局しました。その後いろいろあって…、結婚するまでに9年近くかかりました。

 

結婚後は夫婦でスキューバダイビングやスキー、登山などアクティブにやっていましたが、ある程度大きな役をするようになってからは、危険を伴うアウトドアはやめました。

 

夫が亡くなったのは2018年の12月。私の舞台は全て観ていた彼はその少し前に、入院していた病院を抜け出して私が主演した『時を接ぐ』の千秋楽を観に来てくれました。お正月は仕事やダイビングでたびたび訪れていた沖縄で過ごそうと飛行機のチケットを手配していたのですが、残念ながらそれはかないませんでした。

恩師との別れ そして再出発

私は民藝で宇野重吉先生と一緒に全国を旅して芝居するのが楽しくてうれしくて仕方がありませんでした。ところがその先生が1988年に73歳で亡くなられました。この時「芝居はもういいかな」と思いました。役者を辞めようかと思ったのは後にも先にもこの時だけです。

 

そんな折、同じ劇団民藝に所属し大親友でもあった水原英子さんから「朗読劇に出てみない?」と誘われました。それは6人の女優たちで語る『この子たちの夏』という原爆で母を亡くした子ども、子を失った母たちの手記を中心とする朗読劇でした。

 

子どもの頃に見た新藤兼人監督の映画『原爆の子』が戦争の怖さ、平和の大切さを知った原点。以前、この朗読劇を見て「いつか出てみたい」という思いはありました。だからその時、「今は芝居をする気にはなれないけれどこの朗読劇なら」と出演したことで宇野先生を失った失望から立ちなおりました。これからは宇野先生が大事に育ててきた劇団の舞台を一所懸命演(や)っていこう…と、その後毎年のように全国公演を続け、今年は『泰山木(たいざんぼく)の木の下で』で全国46カ所を回っています。それが終わると12月には東京で新作『囲われた空』に出演します。この作品は、第2次世界大戦末期、ヒトラー体制下のウィーンを舞台にユダヤ人女性と彼女をかくまっている家族をめぐる物語です。

来年もやることいっぱい!

来年もポルトガルギターとマンドリンのデュオ〈MUZIC@NET/マリオネット〉さんとのコラボ『ほんとうのやさしさで』という朗読ライブをやる予定です。私が読むのは、戦後を代表する詩人の1人で、憧れの人でもある茨木のり子さんの詩です。かれこれ30年ぐらい前、私は朗読の許可をいただくためにご本人にお目にかかりましたが、もう本当に素敵な方で、クラクラしちゃった(笑)。

 

そして春には新潟で田植えがあります。その田んぼは、よく行っていた温泉地の青年たちが主催者になって子どもたちのために開く朗読会のギャラ代わりにいただいたもの。

 

毎年5月頃になると「田んぼのご用意ができました」って連絡がきます。田植えも刈り取りもやるようになってトラクターの運転もずいぶん上手になりました(笑)。農業のこと、何も知らなかったから楽しいですね。「ともゑ米」というのは彼らが名づけてくれました。そして今、農業がどれだけ大変かも、彼らとのお付き合いを通じて知りました。

 

来年もやることがいっぱい。健康管理もしっかりしたいですね。自宅にいる時は室内で自転車をこいだり内転筋をきたえるマシンを毎日やったりしています。旅先ではスポーツマッサージの先生から教わったストレッチ。

 

でもね、私、もし体に何か起こっても、年齢も年齢だからあまりうろたえずに受け入れたいと思っているんです。いろいろなことに対して、あっさりしている性分なのかもしれませんね。

(都内にて取材)

         
  • 3歳の頃の家族写真。右から2番目が本人。手前が母、奥が父

    3歳の頃の家族写真。右から2番目が本人。手前が母、奥が父

  • 25歳ごろ。『アンネの日記』でアンネ・フランク役

    25歳ごろ。『アンネの日記』でアンネ・フランク役

  • 45歳ごろ。宇野重吉先生と。「宇野重吉一座」のトラックの前で

    45歳ごろ。宇野重吉先生と。「宇野重吉一座」のトラックの前で

  • 40代の頃。夫婦でスキューバダイビング。トラック島にて

    40代の頃。夫婦でスキューバダイビング。トラック島にて

  •     
  • 57歳ごろ。トレーニングして登った山梨の高地で出合った「緋色トモエ草」

    57歳ごろ。トレーニングして登った山梨の高地で出合った「緋色トモエ草」

  •     
  • MUZIC@NET/マリオネットの二人と初めてのステージ。1999年、赤坂のノヴェンバーイレブンスにて

    MUZIC@NET/マリオネットの二人と初めてのステージ。1999年、赤坂のノヴェンバーイレブンスにて

  •     
  • 読売演劇大賞優秀女優賞を受賞した『蝋燭の灯、太陽の光』(2014年)

    読売演劇大賞優秀女優賞を受賞した『蝋燭の灯、太陽の光』(2014年)

  •     
  • 日色 ともゑさん

(無断転載禁ず)

Ms Wendy

Wendy 定期発送

110万部発行 マンション生活情報フリーペーパー

Wendyは分譲マンションを対象としたフリーペーパー(無料紙)です。
定期発送をお申込みいただくと、1年間、ご自宅のポストに毎月無料でお届けします。

定期発送のお申込み

マンション管理セミナー情報

お問い合わせ

月刊ウェンディに関すること、マンション管理に関するお問い合わせはこちらから

お問い合わせ

関連リンク

TOP