「人と牛が死ぬこと以外悲しくない」 幸せが当たり前のスリ族に出会って…
- ヨシダ ナギさん/フォトグラファー
- 1986年、東京都出身。独学で写真を学び、2009年より単身でアフリカに渡り、アフリカ少数民族の写真を撮り始める。現在はアフリカやアマゾンの秘境やへき地で写真を撮りながら、講演やコラムで人間の美しさや面白さを伝える活動も行っている。写真集に『SURI COLLECTION』(いろは出版)、BEST作品集『HEROES』、『DRAG QUEEN-No Light,No Queen-』(共にライツ社)、著書に『ヨシダナギの拾われる力』(CCCメディアハウス)ほか。
「大人になったらマサイ族になる!」
独学で写真を学び、23歳からアフリカ各国の少数民族を撮影。彼らと同じ格好をして相手の懐に飛び込む撮影スタイルでも注目され、いつしか『フォトグラファー』と呼ばれるようになりました。
きっかけは、たまたまテレビで見たマサイ族の姿に一目ぼれしたこと。肌の色も白い歯も頭の形も衣装も、すべてがパーフェクトにかっこよくて衝撃を受けました。そのとき私は5歳。外国人という認識もなく、「大きくなったら、あの肌の色を選んで、あの姿になろう」と思ったのです。
夢が打ち崩されたのは10歳のときでした。母親に「あなたはアフリカ人にはなれない」と言われて、人生初の挫折を味わいました。
「パパとママ、離婚しました」
中学2年生の夏休み、両親が離婚。朝、リビングに呼ばれ、嫌な予感がしました。「パパとママ、離婚しました」と事後報告をされて、ヨシダ家はあっけなく解散。
家族ってバラバラになるものなんだ…というショックはありましたが、私は両親のことが大好きだったので、別れたほうがお互いに幸せなら仕方ありません。「わかった」と言って受け入れました。私と妹は父に引き取られました。
ただ、両親との生活を失った代わりに得たものもありました。それは「自分で考えて行動する」こと。それまでのヨシダ家は、母が一番強い存在であり、母の意見が絶対でした。離婚せず一緒に暮らしていたら、私はおそらく母に言われるまま高校を卒業して短大に行き、近所の町工場で事務をやっているか、小さな企業でOLをしています。アフリカに行くなんて許されなかったでしょうし、そこまで考えなかったと思います。
父は母とは真逆で、「みんなと同じことをする必要はない。人と違う生き方だってある」という考え方の人でした。小学4年生のとき東京から千葉に引っ越して以来、ちょっとしたことから目を付けられて女子のいじめが始まり、それが中学まで続いていたこと。また、どんなにがんばっても勉強が得意でなかったこともあり、「ここは私の居場所ではない」と不登校を決めました。
引きこもり生活からグラビアアイドルに
ちょうど一家に1台パソコンが入り始めた頃で、学校に行かないと決めた私は、家でパソコンをいじっていました。
あるとき、インターネットを通じて知り合った方にホームページをつくってもらったのがきっかけでスカウトされ、グラビアアイドルに。
父も「グラビアもみんなができることではないし、機会をもらったんだから、やってみたらどうだ?」と言ってくれました。しかし、いざ仕事を始めると肌が合わず、「ここも自分の居場所ではない」と、グラビアは20歳でやめました。
23歳で初のアフリカ 撮影は記録のため
その後、イラストレーターになりました。もともと絵は好きでよく描いていましたが、仕事にするつもりはなかった。案の定、すぐスランプになりました。
「これからどうしよう」となったとき、見えている世界が変われば新しいものも描けると思い、海外に行くように。その頃から、出会う人の魅力や美しさに気づいて、その人たちのことを忘れないために、一眼レフカメラを買ってポートレートを撮り始めました。そして、アジア圏などを回って23歳でとうとうアフリカにたどり着いたのです。
アフリカの少数民族を撮った写真を知り合いのカメラマンに見せたところ、「構図がうまい」「いい表情を撮る」と言われてうれしかった。ただ、ほかに見せる友達があまりいなかったので、ブログを開設して写真を載せるようになったのがきっかけで、WEBで「フォトグラファー」と呼ばれるようになりました。アフリカに通い始めて3、4年後のことです。
違和感があるから目を引くことができる
28歳のとき、オリジナルの演出方法を思いつきました。大自然の朝日や夕日を浴び、ヒーローのようなポーズを取るアフリカ少数民族。その美しく勇ましい立ち姿を逆光で撮影するのです。
ドキュメンタリーとはあえて異なる構図にしたのは、インパクトのある作品にすることで、興味のない人たちに彼らの魅力を知ってほしかったから。世の中の大多数の方は、私が撮る少数民族とは一生涯会うこともないでしょう。だからこそ、鮮明に記憶に残るカッコいい姿を届けたいと思ったのです。それが今では「ヨシダナギの写真」と言われるようになりました。
その後、『クレイジージャーニー』というTV番組で取り上げられ、番組クルーと一緒にアフリカに行ったのですが、その演出方法で撮影するのは実は2回目。イチかバチかの撮影がうまくいって、ホッとしました(笑)。
少数民族と同じ格好で「彼らの特別」になれた
そうはいっても、最初に訪問したエチオピアの少数民族の印象は、一般的には良くないものでした。あいさつする間もなく「マニー(お金を払って)」。私がカメラを構えても「早く撮れよ」と言いたそうな顔で突っ立っているだけ。彼らにとって私たち観光客の撮影は数少ない現金収入でしかなく、撮ったらさっさと帰ってほしい相手でした。
どうしたら仲良くなれるのだろう。でも、その答えは漠然とわかっていました。5歳で初めてマサイ族を見たとき「この人たちは同じ格好をしたらすぐに仲良くなれる」と直感していました。カメルーンで初めて同じ格好になってみて、その直感が確信に変わりました。私の行動が好意的に受け取られ、彼らにとって「特別な存在」になれたのです。
アフリカ・スリ族の幸せの概念
そうやって少しずつ彼らとの距離を縮めながら通ってきたアフリカでは、ホテルにシャワーがないなんて当たり前。屋根すらなかったり、エアコンの吹き出し口からイグアナが飛び出してきたりしたホテルもありました。
しかし、近代文明がアフリカの少数民族に与えた影響は大きく、ここ10年、彼らの生活はすさまじいスピードで変化しています。突然、部族全員が携帯を持ち始めたと思ったら、Wi-Fiが広まり、仮想通貨を使い出し、洋服を着始め…。いずれあの個性的な衣装や装飾品、顔や体に描いた色鮮やかな絵は「昔の姿」になってしまうかもしれません。
そんな中、エチオピアのスリ族は文明と距離を置き、昔ながらの生活を続けています。自分の誕生日も年齢も知らないおおらかな彼らに「幸せの概念」について尋ねると、「幸せ」という言葉を知りませんでした。「私たちは人と牛が死ぬこと以外は悲しくない。いつも楽しい」。つまり、彼らにとっては幸せが当たり前なので、特別な「幸せ」は必要ないのです。
多くの人は、自分にとっていいことが起こるのが「幸せ」として、幸せに価値を求めがちですが、もしかしたらそれは偏った考えだったかもしれない。私自身が、そもそも生きていれば幸せだったんだと思い出しました。
やりたくないことはやらない。学校にも行かない私は、日本では怠け者の扱いでした。楽観的な自分を否定的に捉えてもいました。でも、彼らと接して、そんな自分でもいいのだと肯定されたようで、楽になりました。
少数民族とドラァグクイーンの共通点
フォトグラファーと呼ばれて3年目ぐらいから、「少数民族以外の写真も見てみたい」と言われるようになりました。私は写真が好きというより、彼らに会いたいことがメインだったので、そこで一回壁にぶつかりました。しかし、これからも会いに行き続けるためには活動費用を稼ぎ続けなければなりません。それで、自分が少数民族と同じくらいカッコイイと思える被写体を探すことにしました。
数年後にようやくたどり着いたのが、ドラァグクイーンです。正直なところ、最初はドラァグクイーン=男性が派手な女装をするという認識でした。ところが、実際に会って撮影していくうちに、少数民族と同じ軸にいるカッコいい存在であることに気づいたのです。
共通しているのは「立ち姿」です。少数民族には、自分たちの長い歴史を背負っている誇りと、「自分が一番」という揺るがない自信があって、立っているだけでものすごいオーラがある。ドラァグクイーンもまた、それぞれ生き様のカッコよさがあり、自信満々に立っています。内側からにじみ出るその迫力、人間的なパワーに圧倒されました。
コロナ禍以前は、フォトグラファーの肩書なんていつ失ってもかまわないと思ったこともあります。けれども今、思うように彼ら彼女らに会えなくなって、初めて「作品を撮りたい」欲望に駆られるようになりました。少数民族とドラァグクイーンを追いかけつつ、この先、ヨシダナギの世界観を広げていけたらと思っています。
(東京都港区にある国際文化会館にて取材)
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