東大出るも、5年で4度の転職…
- 川合 眞紀さん/猿橋賞受賞・化学者
- 1952年東京都生まれ。東京大学理学部化学科卒業、同大学院博士課程修了。理学博士。理化学研究所主任研究員、東京大学大学院教授、理化学研究所理事などを経て、2016年4月に自然科学研究機構分子科学研究所の所長に就任。18年度には女性初の日本化学会会長に就任。主な受賞歴に猿橋賞(1996年)、紫綬褒章(2017年)、日本学士院賞(20年)など。官民学の研究所で博士研究員を経験するなどユニークなキャリアを生かし次世代育成や研究環境づくりにも注力している。
引っ込み思案で内弁慶
東京生まれの東京育ちです。父と母と妹が1人。両親とも物理学の研究者だったので、小さい頃は朝、保育園に連れて行かれるのが嫌いでした。
小学校の入学式の時、自分の名前「眞紀」が「まさのり」と読まれたのか、私だけ下駄箱が男の子の場所になっていました。今思えば、何も気にすることはないのですが、それがトラウマになったのか「自分だけ他の子と違う」ということがすごく恐怖で、「周りのみんなと一緒だろうか」といつも気にしていた記憶があります。
引っ込み思案で内弁慶な私が元気になったのは3年生のころからでしょうか。担任の先生がクラスの雰囲気を居心地のいいものにしてくれたからだと思います。
その後、4年生から1年半ほど親の仕事の都合で一家そろって渡英することになりました。初めて乗った飛行機。空から地図とまったく同じ地形が見えたことに感動しました。特にノルウェー上空では、フィヨルドの地形を食い入るように眺めました。
イギリスの小学校に登校した初日、先生が私を皆に紹介して教室から出て行くと、クラスの子たちがワッと集まって何か相談を始めました。
英語が分からずポツンとしていた私は「何が起きるんだろう?いじめられるのかな」と怖くなりました。するとリーダー風の女の子が近寄ってきて「私の名前はアン」と、自分の胸を指差して私に言うのです。それに続いて周りの子たちも順番に自己紹介。どうやら「外国人の私をどうやってケアするか」を皆で相談していたようで、それからはいろいろ助けてくれました。
不安だらけのネガティブな気持ちが、一日で安心感に変わったことをよく覚えています。
スポーツにも親しんだ中高時代
中学では3年間軟式テニス部に在籍、高校でもテニス部に入ったのですが肩を痛めて陸上部へ。練習は全員に同じメニューを課すのでなく、個々の能力をそれぞれに合った方法で伸ばすものでした。私は短距離専門で、100メートル、200メートルと幅跳びに取り組みました。やはり私には個人競技のほうが性に合っていたようです。
理科系の傾向は中学校くらいからでしょうか。数学や理科で苦労した記憶はないのですが、国語が苦手で進路選択時には自然に理数系を選び、1浪して東大へ進みました。
オイルショックと就職難
浪人時代は友人たちとビリヤードやフルーツパーラーなど高校時代には行かれなかったような所へも行きました。いわゆる「社会勉強」も楽しんで充実していたのですが、成績はどんどん下がって(笑)。
秋の終わりくらいから、真っ青になって必死で勉強。無事に予備校を1年で卒業しました。
大学は理学部の化学科で女子学生は1割くらいでした。私たちの頃はまだ「四大卒の女子は採用しない」という企業の風潮も強く、さらに学部卒業の1975年はオイルショックの影響による就職難。ひとまずその後どの道に進むにしても学位は必要と思い、博士課程に進みました。
5年で4回の転職
結婚は25歳でその翌年に長男を出産、子どもは2人で2番目は長女です。
出産当時、主人は愛知県岡崎市で研究職に就いていたので、私は東京の実家で両親と同居しながらの子育てとなりました。保育園の送り迎えは当番表を作って手分けしながらの子育てでした。
学位を取得してからの5年間、企業や研究機関に応募し続けましたが、ことごとく断られ、通るのは有期雇用ばかり。5年で4回職場が変わるという不安定な状態が続きました。その後、たまたま理化学研究所の研究員の公募に通ってようやく安定したポジションに就くことができました。
職業替えで宇宙飛行士に!?
就職に苦労していた頃は毎年職場が変わっていましたから、最後は本当に研究職をやめて職業替えしようかと思ったこともありました。
「旅や飛行機が好きだし、英語や体力にも自信がある。スチュワーデス(CA)やツアコンにも案外向いているかもしれないなあ」などと、改めて自分の優位性について考えていた時、ちょうど宇宙飛行士の公募がありました。「これは案外、イイ線いくかも!」と、自分の中で希望がふくらみかけました。
家族に相談してみると、両親も夫も大激怒。「乳飲み子2人を抱えた母親が命をかけるような仕事をしたいなんて、考えられない!」と大反対されました。さすがに自分でもハッと我に返り、応募は断念しましたが、いまだに「あれはちょっと面白そうだったなあ」と思い出します(笑)。
女性研究者貧国・日本
私がずっと関わっている化学や物理の研究は、日本では理系の中でも女性の比率がとても低い分野です。女子学生の比率は今のところ10から20%くらいでしょうか。
医学や薬学など生命科学の分野では男女比がほぼ半々になっているのに、なぜこんなことになっているのか。それは日本社会の古くからの風習にあると思っています。
日本では昔から物理学や化学、工学といった分野は「男の仕事」と捉えられていて、女性がそれを目指すことは「男まさり」で「そんなことをしているとお嫁に行けませんよ」という意識がいまだに続いているのです。
また、理系の女性には親や周囲から「女性も手に職をつけなさい。資格を取りなさい」と言われて育った人も多く、それが医歯薬系に女子が多い理由のひとつになっているとも思います。
研究者の中で女性が占める割合はOECD(経済協力開発機構)37カ国中、日本がダントツの最下位です。国際的な水準からみてせめて3割くらいまでにはしたいですね。私は女性が研究にもっと関わることで、日本の科学のポテンシャルを引き上げることができると思います。
材料科学の未来
私が専門とする材料科学の分野は1980年代くらいから「超伝導体」などの新しい物質がたくさん見つかって実用化され、大きく様変わりしました。これからはAIやロボティクスとのコラボレーションで「次にどんな物質が出てくるか」という期待感があります。
AIは理屈になる前の、人間でいうと直感とか知恵といった感覚的な要素を結びつけて抽出することができるようです。すると「風が吹けば桶屋が儲かる」的な物事の因果関係が理屈できちんとつながって、科学的な意味を持つ可能性が出てきます。
過去の研究のなかには記録が鮮明に残っているものもあれば、断片的でまとまっていないために、それがいったい何なのかよくわからない、未完成のナレッジ(知識)が膨大に存在しています。
今までの成果は、形になった確固とした知識からしか得られませんでしたが、これからはAIの進化によって未完の知識からも何かが生みだされる時代になるのかもしれません。楽しみです。
マイノリティになるべし!
個人にとっても社会にとっても、子どもの教育は重いミッションです。そこで私から提案したいことがあります。
世の中には男女が同じ比率で活躍することを目指しながらも人材供給がその比率に達していない分野がたくさんあります。それが、女の子が「男まさり」「お嫁に行けない」などと言われ敬遠される理工系の分野です。もちろん本人が嫌なら無理に行く必要はありませんが、そういう分野は競争が少なく、良いポジションをとれる可能性が高いでしょう。
もちろん逆もしかりで男性が必要とされているのに圧倒的に数が少ない分野もたくさんあります。特に日本の場合は男女比の偏りが大きいですから、それだけチャンスもあるということです。
いずれにせよ、自分がマイノリティになる分野へ進んだほうが、未来は開けると思います。そもそもこの多様化の時代「男の子だから女の子だから」と狭く考えないほうがいいと思います。
「あの時の話」で笑い合いたい
日本人は本当に真面目です。「なにもかも抱え込んでパーフェクトに」と考え過ぎないで、もう少し気持ちを軽くして、と言いたいですね。
いい塩梅(あんばい)で「出来る範囲で生きていく」くらいの気持ちでいることも大事だと思います。まずはしっかり食べて、よく寝る。そして、コロナ禍が解決したら「あの時は大変だったね」と言って、笑い合いたいですね。
皆、去年からそれぞれたくさんのネタを持っているのですから「あの時の話」で楽に4時間くらいは喋れます。早くそういう日が来るといいなと思います。
(東京都江東区内ホテルにて取材)
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