映画づくりは信頼関係を紡ぐことから 日本人が誇りに思える『日本』を撮りたい
- 河瀨 直美/映画監督
- 奈良市生まれ。
劇場映画デビュー作『萌の朱雀』でカンヌ国際映画祭新人監督賞を史上最年少で受賞。その後、『火垂』(2000年)を皮切りに映画祭での受賞を重ねる。カンヌグランプリ受賞作『殯の森』(07年)、『七夜待』(08年)を発表し、世界に評価される映画作家となる。
最新作は『朱花(はねづ)の月』。公式HP:http://www.kawasenaomi.com/
昨年11月公開のドキュメンタリー映画『玄牝(げんぴん)』は、サンセバスチャン国際映画祭にて国際批評家連盟賞を受賞。
川崎市アートセンター(1/29~2/11)、福山シネマモード(2/5~)、シネマ尾道(2/12~)など全国で公開中(詳しくはhttp://www.genpin.net/
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覚悟を持って命と向き合う
〝お産〟という、私たちにとって根源的で本能的な営み。その営みを四季の自然の中で描いたドキュメンタリー映画『玄牝(げんぴん)』が、昨年秋より各地で公開されています。舞台は愛知県岡崎市にある産科医院の吉村医院。院長の吉村正先生は、1961年以来50年間、2万例以上のお産に立ち会った、自然なお産の第一人者です。
2009年の春に撮影を開始し、産院の50日あまりの日々を記録。20キロを超えるカメラを自ら背負い撮影しました。その姿を見た6歳の息子いわく「ロボットかあちゃん」(笑)。
撮影は全編16ミリフィルムで行いました。16ミリの撮影時間は、最長でも10分間。撮れないものもあるかもしれない。でも「撮りたいものは絶対撮る」という覚悟で、対象と向き合いたかったんです。たとえ一瞬であっても、力強い映像は人を惹きつけるはずだから。昨今のドキュメンタリー番組には、そんな“作り手の覚悟”が足りないとも感じています。
撮影で忘れられないのが、吉村医院のご飯。妊婦さんたちが薪割りや炊事などの労働をする古屋と呼ばれる古民家があって、そこで作るご飯をいただいたんですが、そのおいしさといったら。自然光のもとで食べるから余計おいしい。竈で炊いたご飯と切干大根の煮物、お汁。それだけが「なんでこんなにおいしいんだ!」って感動しましたね。
私たち女性には〝母性〟がある。お産を通してその〝美しさ〟を感じてほしい。映画からそのへんが皆さんに伝わると良いなと思っています。
何事も信頼関係が出発点
私自身は助産師さんのもとで長男を自然分娩で出産しました。朝に生まれ、夕方にはもう家に連れて帰って、私が14歳の時に亡くなったおじいちゃんに報告。みんなに見守られて、お産の体験はとても幸せなものでした。
けれど、「病院主体で産まされた」ことによる、孤独で辛い出産体験だったという方もいます。同じ出産でも、喜びにつながるものとトラウマにさえなってしまうものがある。もちろん病院で幸せに出産されたという方もいるでしょう。ですから、いずれにしてもお産は女性の喜びだと思える事が大切で、そのひとつの選択として自然なお産もあるということを皆さんに知っていただけたらと思います。
「妊婦さんをはじめとした出演者との信頼関係が伝わってくる」と、よく言われます。撮影で心がけていたのは、心を開いて真正面から相手と向き合うこと。まず相手の立場に立つこと。それはどんな関係でもいえます。映画づくりでもお産でも日常生活でも、お互いの信頼関係が最初にあることが大切なのではないでしょうか。
宝物箱に胸ときめかせ
生まれ育ったのは、奈良県奈良市。両親は私が生まれる前に別居したため、子どものいなかった祖父の姉夫婦に引き取られ、育てられました。
親とのつながりを感じられない気持ちの不安定さがどこかにあったのか、私は物心つくころからとても怖がりで、特に男の人が怖くて近づいてこられると泣いていたそうです。唯一心を許した男性が養父です。私が独りでいると「遊ぶ人がいないなら、自分で遊びなさい」と金鎚と釘をくれて(笑)。日曜大工好きで、道具は何でもあったので、それでよく何かを作っていましたね。
それから、押入れの自分用の引き出しに宝物箱をしまっていました。それを時々取り出し、見返しては過去の思い出に浸る時間が大好きでした。箱の中身は、石とか葉っぱとか。見ていると、その石を見つけたときの過去の自分に出会えるんですね。その宝物箱はいまもまだありますよ。
幼稚園までは内にこもるタイプだったのですが、小学校からは活発な子になりました。勉強ができるといい子と言われるから、スポーツができれば褒められるから、頑張って優等生をやっていましたね。とにかく養父母のためにも、褒められたいという気持ちがありました。周りの人から「直美ちゃんはいい子だね」と言ってもらえるように。それができないと、自分はまたどこかに行かなくてはならないのか?という不安があったのかもしれません。
中学生のころに全然勉強しない時期がありました。自分の中のモヤモヤしたものを表に出したくなったのでしょうか、いわゆる反抗期ですね。
そんなとき、バスケットボールが私を引き戻してくれたんです。クラブ活動のコーチを担当していた先生への信頼をともなって、バスケの中で勝ち負けを決めよう、そこに情熱を注ごうと思うようになりました。高校もその先生の母校に入学、バスケット部の主将も務めました。1日に5食を食べ、頭の中はバスケットボール一色。まさに体育会系の少女でしたよ(笑)。
自分のルーツをテーマにする
高校卒業後は、皆で何か一つのものをつくる仕事にあこがれて、映画の専門学校に行きました。24時間、映画三昧の生活でしたね。フィルムを買ったり現像するお金を捻出するので、貧乏生活は当たり前。そんな生活を続けながら、つくることが楽しくて仕方がない時代でした。見るもの聞くものすべてを吸収し、自分が試されることが刺激的でした。
専門学校を卒業してからは、関西の映像会社に就職してカラオケビデオの制作をしていました。
その後、機会があって母校の映像学科の講師となりました。映像表現、作品研究、映像工学、映像に関わること全般を教えていました。学生たちが主体なので、彼らの想いを深くまで掘り下げて聞くことを大事にしていましたね。そんな毎日でしたが、1年に1本は自分の映画を撮ろうと思い、選んだテーマが私自身のルーツでした。
私の場合、父も母も家にいなかった。母には会ったことはあるけれど、父には会ったことはない。まず、自分の戸籍をもとに父の人生の軌跡をたどることから始めました。養母も、できる限りの情報をくれましたし、その道行きに同行してくれたり、一緒に話を聞いてくれた友人もいました。この映画を撮ることでいろんな人に支えられて自分があるということに気づくことができたし、そのことで生きている実感のようなものを得たのだと思います。これがなければ、今の自分はなかったですね。こうして23歳のとき、私の実質的な映画監督デビューとなるドキュメンタリー作品『につつまれて』が完成しました。これが私の映画づくりの原点です。
その後、劇場公開デビュー作『萌の朱雀』でカンヌ国際映画祭新人監督賞、2007年の『殯の森』でグランプリなど、数々の賞をいただくことになったとき、応援してくれた周囲の人たちや制作スタッフのみんなから「自分ごとのようにうれしい」と言ってもらえたことが、とてもうれしかったですね。奈良での映画づくりを通して、協力をしてくださる方がたくさん集まってくれたんです。地域に認識してもらえた、受け入れてもらえた、ということはとても大きな喜びです。
お風呂で読み聞かせしてもらう
息子とは仲良しです。朝と夜は一緒に食事をし、週末は仕事を入れないようにしています。保育園の送り迎えは基本的に私。息子はほとんどの時間を保育園で過ごすので、その保育園の先生と私が繋がっていないと、彼のすべてを理解してあげられないと思うからです。
息子には、のびのびと自由にさせてあげたいと思うとともに、時々不安を感じることもあります。私が仕事で離れていると、私がかつて持っていた孤独を彼にも背負わせてしまうんじゃないか、とか。
でも、あるとき保育園の先生にこう言われたんです。「あなたのお母さんはあなたのもとに帰ってこなかったけれど、あなたは息子のもとに絶対に帰る。それがあれば彼は孤独にならない」。そのときはハッとしましたね。仕事と家庭の両立は難しいけれど、ひとつひとつきちんと向き合っていきたいですね。
息子のリラックスタイムは、お風呂の時間。お風呂の中で、おとうちゃん(夫)が本を読んであげるんです。手塚治虫の『ブッダ』とか『ブラック・ジャック』とか、本のジャンルは漫画から普通の本までいろいろ。
1日平均3冊ほど本を読む息子は1カ月で100冊ぐらい読んでいることになります。寝る前の読み聞かせは欠かしたことがありません。私は小さいころほとんど本を読まなかったけれど、息子はものすごく本が好きみたいです。文字も知らないうちに読めるようになっていて、今は好きなことを好きなだけさせてあげたいなと思います。
自分の住む国が好きですか
今、日本人は日本を誇りに思っているのでしょうか。そこの大本となるのはやはり、自分の生きている場所に、ちゃんと“立ち位置”を持つことなのではないかと思うのです。自分の生きている場所が好きなら、そこを自然と誇りに思う気持ちがはぐくまれます。やがてその土地の良さを、自分の言葉で伝えられます。日本人が日本の良さや住む地域の良さを、外国の人に自分の言葉で伝えられることが大切ですよね。
日本人は世界に対してもっと開いて交流していけるといいなと思います。私はこれからの若者たちにそういう意味で期待しています。2010年第1回目のなら国際映画祭を開催したのも、住んでいる奈良の良さを奈良の人々にこそ再確認してもらいたいと思ったからなんですね。
次世代の若者が自分たちが生きている国、住んでいる場所を、誇りに思えるようにしたい。20年、50年先を見通して物事を始めたいですね。
2011年は映画祭のプレイベントとして、子ども映画教室を企画中です。私にとって映画づくりはなくてはならないものだけど、映画祭はまだ生まれたばかり。将来にちゃんとつなげていけるように、映画祭を通して未来の子どもたちに希望のある町として、この故郷を認識してもらえるよう尽力していきたいと思っています。
(東京都渋谷区ユーロスペースにて取材)
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