人類は『生命』と『文明』を探求する旅の仲間。まだまだ旅の途中なんです
- 鶴岡 真弓さん/多摩美術大学教授
- 芸術文明史家・ケルト芸術研究家。1952年茨城県生まれ。
早稲田大学大学院修士課程修了後、アイルランド・ダブリン大学トリニティ・カレッジに留学。処女作『ケルト/装飾的思考』(筑摩書房)で、日本でのケルト文明芸術理解の火付け役となり、第1回倫雅賞受賞。
立命館大学文学部教授を経て、現在多摩美術大学美術学部教授。
映画『地球交響曲第一番』(龍村仁監督)でアイルランドの歌姫エンヤと共演。NHK教育テレビ「人間大学」など出演。
著書に『ケルトの歴史』(河出書房新社)『黄金と生命』(講談社)『京都異国遺産』(平凡社)ほか多数。
利根川の洪水で目覚めた世界への憧れ
子どものころ、私は今ほど日本という国が好きにはなれませんでした。当時はちょうど高度経済成長期で、アメリカの工場のようになっていた、小さな島国。そんな風に感じていたんです。 19歳のとき、日本を飛び出してユーラシア大陸を横断し、ケルト文化に出会ったわけですが、その壮大な旅へと私を誘ってくれたのは、故郷の利根川でした。
私は茨城県の南端にある取手市に生まれ、利根川のほとりに住んでいたんですが、その向こう岸には祖母の家があり、渡し舟に乗ってよく遊びに行きました。利根川は私の大自然であり、日常の想像力を支えるライフラインでもあったのです。
ところがある日、大嵐で利根川が決壊し、一夜にして大きな海原のようになったんです。いつも見慣れた川が突如、太平洋のような大洋に変貌した。その光景を見た瞬間、今ここは世界につながっている。そう感じたんですね。この小さな国から抜け出して、世界に出て行きたい!と強く思ったのはそのときでした。
小学生の私にとって、それは、まるでカボチャがシンデレラの黄金の馬車になるような、強烈な出来事でした。それ以来水を見ると「世界につながっている!」という感覚になり、船旅が大好きになったんです。
父に翻弄された子ども時代から「日本脱出」へ
今から考えると、私の放浪癖は、父や母の影響を色濃く受けているような気がします。父は、貿易の仕事で若くして成功しましたが、いろいろなことに興味を持ち、今で言うベンチャー精神にあふれた人でした。よく言えばロマン主義、悪く言えば憧れや夢だけを追い続ける非現実主義者。
例えば、ある日家に帰ると、野球好きの人たちが宴会をしていて、突然父が野球チームを作ることを思い立ち、ユニホームもグローブもすべて揃えてあげてしまった。かと思えば、趣味のクレー射撃でタヌキを生け捕りにして来たり。
奇想天外で何が起こるか分からない日々の中で、1番苦労したのは母でした。体も弱い母が働き詰めで可哀そうで、私は夜寝床で泣いていました。
父とは対照的におとなしい母は、きれいな千代紙で人形や花などを作っていました。母は、自分の本当の母親と小さいころに別れ、ずっと探し続けていたのです。もしかしたら人形は自分の写し身だったのかもしれません。ようやく母は晩年に老人ホームに入っていた祖母と再会できましたが、父とはまた違うかたちで、母も生涯、不安な心の旅を続けていたんですね。
こんな両親のもと、私自身の心もいつも不安定で、友達に恵まれてはいたけれど、ハッピーな明るい少女ではありませんでした。そのせいか、だんだん現実離れした、芸術や哲学や文学に興味を持ち始めたのです。
ちょうど中学生のころにビートルズが来日して、ヒッピーとか反体制的な文化が花開いた時代でしたから、私もどちらかというとアンダーグラウンドな芸術やデザインに興味を持ちました。と同時に、より広い世界に出たいという衝動が抑えられないぐらい強くなっていくのを感じていました。
兼高かおるさんの旅番組の影響もあって、世界を旅する仕事をしたいといつも思っていました。そう、外交官のような仕事ではなく、自分の足で現地を歩き、世界の民族や文化を調べてみたい、そう熱望したんですね。
その夢が実現し、日本を「脱出」したのは19歳のとき。当時、ソビエト船が横浜から出ていたので、その船に乗ってナホトカに上陸し、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断、ヨーロッパから北アフリカへ、という壮大な旅を決行したんです。
横浜から津軽海峡を通って、一晩かかってナホトカに着いたときは本当に感動しましたね。「ユーラシア大陸に上陸」したのですから!アメリカまで行かなくても、こんな近くに雄大な大陸と、素晴らしい異国の文明がある。それがとても不思議に思えました。
ユーロ=アジアの「東の極み」、日本の魅力が 見えてきた
私がなぜ、ユーラシア大陸に行きたいと思ったのか。それは、地球上で、1番大きな大陸であり、文明の交流も1番ダイナミックに行われただろう、と考えたからです。
大陸の長い歴史の中で、戦争や交易によって、異なる文化が出会い融合してきた。もちろん戦争はいけないことですが、人間の体をくまなく血液が循環しているのと同じように、文明の血流がなければ新しいものは生まれません。
私の造語で「ユーロ=アジア世界」という言葉があります。大陸にはつながっていなくても、日本はユーロ=アジア世界の「東の極み」に位置し、透視図法的にユーロ=アジア文明のすべてを見通せるラッキーなポジションにあるんです。
そのことに気付いたのは、以前京都の大学で10年ほど教えていたときですが、京都も、私にとっては単なる日本の都ではなく、ユーラシアの中の一つの都。例えば祇園祭の山鉾に、ペルシャ絨毯やベルギーのタペストリーが飾られていたり。雅と思われていた京都には、最も異国的な装飾やデザインが降り積もっているんです。何百、何千年もかけて、交流してきた異国文化が、美しい粉雪のように降り積もっている都。そんなイメージですね。ユーロ=アジアという視点から見ると、それまで考えもしなかった日本の魅力がよく見えてきたのです。
「謎」を探求し続けるケルトに惹かれて
そして、そのユーラシア大陸の「西の極み」にあるのがケルト文化。ケルトとの出会いは、早稲田大学在学中のころ、ビザンチン美術を専門としていた恩師から、ある装飾写本を見せてもらったのがきっかけでした。そこには、『ダロウの書』と言われるケルトの渦巻文様が描かれていたんです。
始まりも終わりもないその渦巻文様を見たとき、ミクロの中に宇宙大のマクロの世界が開いているような不思議な感覚を覚えました。描かれた絵という空間の中に、ダイナミックにうごめく時間を感じたんです。直線的な時間ではなく、循環的な時間。大げさに言うならば、私たちはどこから生まれたのか? 我々は何者なのか? そしてどこへ行くのか? この3つの問いが、ケルトの文様から問いかけられているような気がしたんです。
人間の生命は長くても100年前後。宇宙の営みから見ればほんの一瞬。もがきながら、その3つの問いを抱えながら一生懸命生きていこうとする、だから価値がある。大事なのは、その答えが正解とか不正解とかということではなく、太陽のように命を燃え立たせている、そのプロセスこそが生きてる証なんだと思います。
科学は謎の本質を分析し、すべてを明らかに明示しようとする。けれども、芸術は謎は謎のまま、こんな素晴らしい謎があるんですよ、と暗示する。だからこそ、私は芸術に興味を持ったわけですが、謎のない人生、世界には魅力を感じないんです。
私は「探求」という言葉が好きなんですが、ケルトの渦巻文様も、単にグルグル回っているのではなく、自分たちの存在とは何か? 小宇宙と大宇宙の謎を探求し続ける営みが暗示されている。そこに強く惹かれるんですね。
『地球交響曲第一番』というドキュメンタリー映画で、アイルランドの歌姫であるエンヤさんと共演しましたが、そのときのインタビューで彼女が「私は現代ケルトの音楽家です」と語っています。どこまでも広がっていくエンヤさんの歌声はどこか懐かしい気持ちにもさせてくれます。ケルトの人たちは森や水、大自然を信仰し、西洋の合理主義とは全く違う世界観を持っていますが、ユーラシア大陸の東西の極み、ケルトと日本に同じような文化が息づいている。そこに思いを馳せることで、これからの新しい生き方が見えてくる気がします。 。
「黄金」は永遠の生命に憧れる 人類の希望
昨年、『黄金と生命』という本を出版しました。 以前だったら、「生命」という言葉自体何か恐れ多くて使えなかったと思いますが、親も亡くなり、自分自身の人生も後半に差しかかって、ようやく人間の生命は限りあるものだということを意識し始めたわけです。限りあるからこそ、人は永遠の生命を自然や宇宙の中に感じ、ケルトでは渦巻文様がそれを象徴しました。
そして古代の人々は何に生命の象徴を求めたのか?というと、それは「黄金」だったのです。
古代のインド・ヨーロッパ語族の人たちは、大地という生命の中から黄金が誕生してくる、という思想を持っていた。天上に輝く太陽のように、自ら発光し光り輝く黄金。そこに永遠の生命の輝きを感じた。だからこそ、決して枯渇しないエネルギーを与えてくれるものとして黄金の指輪やアクセサリーを身につけたわけです。それがいつの間にか金品となり数字に換算されるようになってしまったんですが、もともと人類は、黄金に永遠の生命を見ていたのです。それは人間の希望や祈りを託す最高の「生命」そのものだったのです。
そう考えると、黄金だけではなく、人間の生活を彩るすべての装飾やデザインは、永遠の生命のみなぎりを願い、それを活性化させるために創造されたのですね。つまり、言葉も芸術も生命の依り代、祈りなんだと思います。それがないデザインや表現は、すぐに廃れていってしまうのです。
私はアイルランドへの留学後、ヨーロッパのほか中央アジアやシベリアの文化も訪ね歩き、ユーロ=アジア世界を横断する「文明とデザインの交流史」をフィールドワークしています。中でも装飾的デザインは、生き物の生と死の節目節目に表現される、「生命デザイン」なんですね。
民族衣装や宗教的な装飾の中には黄金を使ったり、光を表現したものが多いのですが、生命の光を表現することがデザインの原点なんだと、今あらためて思います。命の光を何らかの形で表現し、次の時代に手渡していきたい、という切実な祈り。人間は暗黒の深さを知っているからこそ、光に憧れる。最初から光に包まれていたら、光そのものを感じることもできないと思います。
私自身、父親に翻弄され、暗い子ども時代でしたけど、晩年に差しかかった今、光のことを素直に語れるようになりました。エイジングが進んで酸化作用にも侵された今(笑)、ようやく黄金のように腐食しない生命という光の本質が見えてきた。
人生は皮肉なものだなと思いますけど、そうでなければ、私は大自然や人間のデザインの中で「光」が表現される真の価値を、実感として受け取れなかったと思います。
利根川の洪水から始まった私の旅。この地球上の人類も、まだまだ旅の途中。民族や宗教が違っても、生命と文明の道を、どこまでも歩いていく旅の仲間。その仲間とともに、「探求」の旅を命ある限り続けられたら、本当に幸せだと思いますね。
(多摩美術大学芸術学科鶴岡研究室にて取材)
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