一人前になるまで数十年、楽しまなければ続かない仕事です
- 南 登美子さん/有職美容師
- 1928年京都府京都市生まれ。
日本髪結髪師の第一人者であり、京都三大祭りの葵祭での斎王代や、時代祭の婦人列などの髪結いや着付けなどを長年担当。また、伊勢神宮御斎主装束着付も拝命されている。
京都美容組合教育委員、講師、宗師、京都美容文化クラブ会長を兼任。平成6年度には各分野で活躍する女性を表彰する「京都府あけぼの賞」を受賞。
最近では滋賀県土山市「あいの土山齋王群行」功労賞。京都市観光協会「櫛まつり」文化功労賞等を受賞。
ミナミ美容室三代目として、81歳にして現役で活躍している。
私の遊び場は、いつも母たちの仕事場でした
美容師の仕事を始めておよそ60年。髪を後ろに垂らして結う垂髪や、芸舞妓さんが結う島田や勝山など日本伝統の髪型を結いあげる、数少ない有職美容師として、今も仕事を続けています。つらいことも時にはありましたが、80歳を過ぎてこうして元気でいられるのも仕事のおかげ。
京都の葵祭や時代祭のほか、伊勢神宮さんや全国の祭事に毎年呼んでいただけるのは、この仕事一筋に、努めてきたからだと思っています。
葵祭の斎王代さんや時代祭の婦人列は、先代が携わって私もそれを手伝い、20年ほど前に先代が亡くなってからは、私が指揮をとらせていただいております。何もかも先代が道をつくってくれたものですが、「日本髪の歴史を守り伝えていく」ためには、まだまだ私もがんばらなければいけません。そのためにも、有職美容師を目指す人たちに、時代髪の基本や、櫛祭の指導をしております。次の世代へつなぐことも、私の役目ですから。
私の父は名のある画家として活躍していたと聞いています。戦後の貧しい時期を過ごすため、3つのときに、祖母の家であるこの「ミナミ美容室」に預けられ、暮らし始めました。祖母は、明治時代に花街・祇園に近いこの場所で美容室を開き、祇園の芸舞妓さんやお庄屋さんの奥さま方の丸髷を結っていたそうです。
私がここへ来た昭和の初めは、祖母と父の姉にあたる伯母(私の養母であり先代師匠でもある南ちゑ)の2人を中心に、5、6人のお弟子さんがいて、店は大変繁盛していました。
預けられた当初は、「家に帰りたい」と泣いたこともあったようですが、物心ついたころにはすっかり祖母と伯母になじみ、いつしか伯母のことは母と思い、そう呼ぶようになっていました。私を娘として迎えてくれたのもこのころでした。母のそばにいたかったからか、私の遊び場は、いつも母たちの仕事場でした。 1番のお気に入りは、和紙のはたき(塵はらい)を女性の髪に見立てて結う、髪結さんごっこ。祖母や母のしていることをしてみたかったのでしょうか。忙しい二人を見ているから、1人遊びが上手になったのかもしれませんね。
親であり師匠でもあった母
学校を卒業してからは、家のお手伝いをしながら、お茶やお花、お針のおけいこにも通いました。お嫁に行くには、一通りのことを身に付けておくべきだと、祖母も母も思っていたようです。祖母は私を「ミナミ美容室」の跡取りとは考えず、母の手伝いになればというぐらいに考えていたのでしょう。
終戦後、店を再開するとき「そろそろ本格的に仕事を見習いなさい」と言われ、家の手伝いを始めたのですが、最初の5年間は何をやっていたのやら。今思いだしても、ただバタバタと日々を過ごしていただけのように思います。そしてそのときから、母は母である以上に、師匠という存在になりました。甘えたいけれど、もう甘えられない人になったのです。
お手伝いをする中で、パーマなどの技術を身に付けるために美容学校にも通いました。けれど、半年後の国家試験にあっさり受かってしまって。結局そのあとは、学校にも通わずじまい。学校よりも、祖母や母のそばにいるほうが、身に付くことが多かったのでしょうね。
日々、忙しい母のそばにいて、手伝い見習う。次々と髪を結っていく母に、あらかじめ手入れし揃えておいた櫛やヘアピンなど道具を渡すのが私の役目。もし順番を間違えようものなら、「何を見てたんや」と母に厳しく叱られます。
この仕事は、私には向いていないのだろうかと思ったこともあります。けれど、小さいころからなじみ、何の疑問も持たずについた仕事。ほかにしたいと思うことは何一つありませんでした。母を手伝い技術を磨き、気が付くと30年以上の月日が流れていました。驚かれると思いますが、私が初めて1人で日本髪を結ったのは、50代になってからのこと。当時病に臥せていた母が、おぶわれて仕事場に姿を見せ「上手に結えてる」と言ってくれたことは忘れられません。母に褒められたのは、それが最初で最後でした。
習う身から教える身
そのころから美容組合などで人に教えることも始めました。経験があれば肩書きはどうでもいいと思っていた私に、「資格を持つことは自分にとっても励みになる。今までやってきたことを試す機会でもあるし、人に教えるなら資格があるほうがいい」と、母は資格を取ることを勧めてくれました。それならと奮起して、最高位の宗師まで取得しました。宗師の資格は、今も全国で 6、7名しか持っている人がいないのではないでしょうか。技術があれば資格は必要ないとも思いますが、自分のためには資格を取ることもまた修業。勉強するいい機会です。
時代祭や櫛祭などの指導をしてあらためて感じるのは、教えることの難しさ。最近の若い方は、叱られることに慣れていないのでしょうね。叱るとすぐにくじけてしまうように思います。でも、つらいことや悲しいことも経験しなければ、なにも成し遂げられません。自分が選んだ道なら、時には辛抱も必要。私自身も、つらいこと悲しいことを知っているから、人に教えることができるのだと思っています。
髪結いの亭主と言われたつらさを乗り越えて
仕事を続けることは、ちっとも苦ではありませんでした。けれど、仕事を辞めたほうがいいのだろうかと思ったことはあります。それは、主人との結婚を決めたときのことでした。
26歳のときに、科学技術系の企業で研究員をしていた主人と結婚することになったのですが、主人の両親に「髪結いなんて」と猛反対されたのです。
当時は、髪結いと結婚した男性は「髪結いの亭主」と言われ、下に見られる時代でした。結婚後も、私が仕事を辞めなければ、主人の出世はないと会社の方から言われ、ほんとうに悔しかった。ところが主人は、「お母さん(先代)は、美容師会の理事を務め、伝統を次の時代に残していかれる立派な人、登美子はその意志を継ぐべきだ」と言ってくれ、それを理解できない会社は辞めると退職してしまったんです。母や私の仕事を大切に思ってくれる気持ちはうれしかったけれど、主人が職をなくしたのが、自分のせいだと思うとほんとうにつらかった。人生で1番苦しいときだったかもしれません。
その後、ご縁があって主人は京セラに入り、研究を続けることになりました。けれど、57歳という若さで十二指腸癌を患い亡くなったのです。いろいろと気苦労をかけてしまったからではと、今も申し訳なく思っています。
妻となり2人の子どもを育てながらも仕事を続けられたのは、私の仕事を理解し、見守ってくれた主人のおかげと、感謝でいっぱいです。
小指を折りながらも務めを果たしたパリ巡業
平成10年に、京都の友好都市パリで、時代祭を開催することになり、私も江戸時代の髪型担当として、同行しました。日本らしい華やかな巡行を、パリの皆さんも見にいらして喜んでくださり、ほっとしたものです。気持ちも張って少々疲れてもいたのでしょうか、装束や髪飾りなどを、ルーブル美術館に展示し終え床に座ったときに、足の小指を反対側に曲げてしまったんです。「痛い」と思いましたが、我慢してホテルに帰りました。言葉が通じないと思うと億劫になり「帰るまでには痛みもおさまるだろう」と病院へも行かず、そのまま。テープで固定して過ごし、なんとか務めを終えて帰国しました。
ところが、家に帰ると、小指が、紫色に腫れ上がっているではありませんか。急いで病院へ行くと、なんと小指の骨が折れていたんです(笑)。パリにいるときはお役目大事という気持ちがあったからそれほど痛みも感じなかったのでしょう。
いつもそうですが、仕事を受けたら一生懸命やる。そして結局は、それが、自分の力になると信じています。ただ、今になって思うのは、長く働くためには、働き蜂みたいに働きっぱなしではいけないということ。休めるときは休んで、自分を癒すことも必要です。そうして若々しく生き生きとしていなければ、仕事を任せてはいただけません。
技を時代へ継いでいくために
もちろんうれしいこともたくさんあります。確かな技術で、思うように髪が結えたときの喜びは、ほんとうに大きい。81歳の私が、日々元気でいられるのは、その喜びを繰り返し感じられるからです。
昭和60年に、伊勢神宮祭事で池田厚子御祭主様の結髪、装束を担当させていただいたときの晴れがましさは今も忘れられません。また、何代にも渡って葵祭の斎王代さんの装束を担当させていただいていることも、私の生きがいの一つです。
有職美容師の仕事は、普通の美容師とは違って、日本の歴史上の髪型を、すべて頭に入れ、それを再現できなければいけません。私が時代祭や櫛祭で担当する江戸時代だけでも、髪型は150種類。今は、そのスタイルをすべて写真にしたテキストもありますが、私の時代にはそんな便利なものはありません。自分の記憶と、母が残してくれた一部の雛型だけが頼りでした。
若い方のなかには、弟子になりたいと言ってくださる方もいらっしゃいます。ありがたいことですが、この仕事は何十年という月日をかけなければ一人前にはなれない仕事です。つらいことも、きっとたくさんあります。嫌々ではなく、仕事を楽しまなければ続けられない。また、どこへいっても負けないためには、誰よりも勉強する必要もあります。
妹の節子がそばにいて、すべての技術を見習い、覚え、助けてくれます。私自身、まだまだ結い続けたいと思いながらも、次の世代にこの仕事をつないでいかなければと思っています。
いつかは、妹や若い人たちに仕事を任せ、ゆっくりできるときがくればと思います。したいことはたくさんあるし、温泉にも行ってみたい。
でも、やっぱり無理かな。仕事が1番楽しいし、死ぬまで勉強して成長したいですからね。
(京都市東山区 ミナミ美容室にて取材)
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