「ぶれない」生き方を体現した母は、理想の女性
- 太田 治子さん/作家
- 1947年、神奈川県小田原市生まれ。明治学院大学文学部卒業。1986年、『心映えの記』で第1回坪田譲治文学賞を受賞。NHK『日曜美術館』初代アシスタント、NHK『ラジオ深夜便』の“私のおすすめ美術館”を共に3年間務める。主な著書に『絵の中の人生』(新潮社)、『恋する手』(講談社)、『小さな神さま』(朝日新聞出版)、『石の花 林芙美子の真実』(筑摩書房)、『明るい方へ』(朝日新聞出版)など。近著は『時こそ今は』(筑摩書房)。
自分に九州の血が入っていることで、心明るい気持ちに
この7月、中日新聞で3月から続けた、明治の洋画家・浅井忠の人生をつづった連載を終えました。直後に、娘と2人アメリカに旅し、数日前に戻ってきたばかりです。娘とはこんな風によく一緒に旅しますが、生きていれば母とも一緒に旅していたかもしれません。
私の母は、太宰治の作品『斜陽』の主人公/かず子のモデルといわれています。その太宰との間に生まれたのが私ということになりますが、この『斜陽』は母の日記をもとにしています。
母と私、昔はまったく性格が違っていたのですが、今はずいぶん似てきたなと感じます。母は単純明快、とってもシンプルな性質で裏表も腹蔵もない。私にとって理想の女性です。
母方が先祖代々大分県ですが、医者の祖父一族が、風水害のない日本の真ん中、穏やかな場所に移りたいと、本家分家揃って、縁もゆかりもない滋賀県で開業し、大分を離れました。ですから母の出身地は滋賀ということになっていますが、実は九州の熱い血が流れているということになります。
私自身は、九州の血が入っていることにほっとするところがあります。生まれたのは神奈川でも、ずっと戸籍は大分でした。今もそうです。
九州人は気質がぱっと明るくて開放的、私にもその血が濃くあると思うと、心明るくいられます。母も目が大きくて情熱的な、まさに九州の顔立ち。とっても明るい人で、大好きでした。
母のおかげで少しは世渡り上手に
小説家を目指していたお嬢さん育ちの母でしたが、やはりそれで食べていくことはできず、40歳になってはじめて食堂で働き始めたのです。それまでちゃんと働いたことはなかったので、動作はのろいしおっとりしてる。ずいぶん職場の人にも注意を受けていたようです。
ですが、注意されて普通はすみませんと謝って済ますところを悲しくて大声で泣いてしまう。自分の気持ちを抑えることができない人でした。
自宅と学校の中間に母の職場があり、下校時に職場に寄ると母が声を上げて泣いている。私が頼りにしているたった1人の人が、子どものように大声で泣いているんです。母がそんな風だから、娘の私は、しっかりしなくてはと、自然に思うようになりました。
母よりも、誰にでも愛想のいい私の方が、親戚には断然受けがよかった。そういう私に対して母は「あなたは人に気を遣いすぎる」と厳しくみていました。
今でも忘れられないエピソードがあります。大病を患った後、しばらく親戚宅にお世話になっていた母。病み上がりなのに、その家に気を遣って、薪割りなどの手伝いをしていました。5歳の私は子ども心にそんな母をかわいそうに思い「大人になったらママに100万円あげるからね」と。母は大喜びしてくれましたが、私は「これは大人が喜ぶ魔法の言葉だ」とばかりに、親戚や大家のおばあちゃんにまで同じことを言い回った。それを聞いた母は激怒。
自分だけに言ってくれた優しい子だと思っていたのに、いろんな人に気に入られようとしているあなたは性格が悪い、大人になったら大ウソつきになる、と、5歳の子どもに向かって(笑)。その母の激怒ぶりは、今でもはっきりと記憶に残っています。
母は自分の信念で未婚の母になりましたが、だからこそ、誰の手も借りずにちゃんと働いて、女手ひとつで子どもを育て上げ、男の人を頼ることは一切なかった。そこが偉いと思う。
OLから一転、NHK「日曜美術館」アシスタントに抜擢
大学卒業後、有楽町にある親戚の事務所で、お茶くみなどの雑用の仕事をしていました。それからしばらく後に職場が移ることになりましたが、ここにある日国税庁の査察が入った。土地でお金を儲けようとしていたらしいのですが、土地は公共のものという司馬遼太郎先生の考えに共感していた母からは、そんな会社はすぐにやめなさいと言われ続けて。でも母と違って勇気のない私は、次の職場が決まらないと辞められない。
そんな気鬱な日々のなか、渋谷にあった社宅の帰途に見えるNHK。明るく輝くその大きな建物を、こんなところにお勤めできたらと、叶わないと思いつつもマッチ売りの少女よろしく、憧れをもって眺めていました。
ところが、奇跡というものは人生に1度や2度は必ず起きるものですね。ある日、母の年下のお友達のご主人がわが家に訪ねていらした。その方のお勤め先がNHK。憧れの場所だと話したら、1度遊びにいらっしゃい、ご案内しますと。その翌日に電話があり、今度始まる美術番組のアシスタントに、素人で絵の好きな若い女性を探してる。だめだと思うけど、1度オーディションにいらっしゃいと。
それで私も本当に見学に行くつもりで、力みもなく、NHKの食堂で担当の方たちと話をした。その力みのなさがよかったようで、後日あなたに決まりましたと連絡がきたんです。それが、今も続く「日曜美術館」という番組。27歳のころでした。
それから3年間出演を続けることになるきっかけですが、晴天のへきれき、本当にラッキーでした。それまで朗読を学んだことがあったので、ナレーションだけは褒められましたが、あとは本当に全くの素人。第1回目の放映を見るともう目があちこち動いてそれはひどいものでした。
10万部売れた本の内容は“女版フーテンの寅さん”!?
番組出演の傍ら、雑誌などに文章を書いていました。NHKの3年間が終わり、新たな収入の道を得なければと考えたときに、ある雑誌に連載していた『風のわすれもの』というロマンス小説を1冊にまとめたいと思い立ち、新潮社の方に相談しました。
そうしたら、いまどきそんなタイトルは売れない、『青春失恋記』だったら出してもいい、と。そんなダサいタイトルは嫌だなと思ったんですが、背に腹はかえられない。
当時、番組は教育テレビの中では視聴率も高く、アシスタントの私を好意的にみてくださる視聴者の方もいらっしゃったのです。私はかねてから、フーテンの寅さんのファンでした。よし、どうせこのタイトルなら、“太田治子が女フーテンの寅さんの心境で書いた失恋小説”、これでいこうと決めました。
この本は、私のこれまでの著作の中で最も売れた本になり、このおかげで何とか、以降も文章を書くことができるようになりました。
70〜80歳の美術ファンの方には今でも声をかけていただくことがあります。ありがたいですがその方々には、いまだに、作家・太田治子という認識はあまりないようで、そこが残念(笑)。
自分が母親になったことには感謝
20数年ほど前、母が病気で69歳で亡くなりました。その後3年間は、母の部屋は生きているころと同じ状態にしていました。それだけ、母の死を信じたくなかったんですね。でもある日泥棒に入られてしまい、1人暮らしに怖気づきました。そのころ私の前に現れた、気立てのよさそうな男性と結婚し、女の子も生まれましたが、結局離婚。今は娘と2人暮らしです。けれど、普通の結婚ということにこだわっていた私に、その普通を経験させてくれた彼には、今も感謝しています。
林芙美子を追った本『石の花』と、太宰という宿題
3年前に、作家・林芙美子さんの生涯を追った『石の花 林芙美子の真実』という本を書きました。私が尊敬する作家です。とことん調べ込んで書いた、3年がかりの連載でした。
大学を卒業するまでずっと、ちっとも勉強していなかった私が、初めてしっかりと学んだのがこのとき。人生は勉強したいときが青春だと思っていますが、それでいくと、私の青春はそれからも続いています。
幸いだったのが、当時住んでいた世田谷の図書館に、昭和史を書く資料がそろっていたこと。資料の山に囲まれ、この時は夢中で昭和史を学びました。
『石の花』を執筆中のその3年の間、赤の他人である林芙美子さんのことを考え続けていたわけですが、その連載が終わったときに、自分の父のことを考えたんです。同じ小説家であり私の父である「太宰治」、自分はこの人から逃げていた、そう思いました。
太宰とは関係のない文章を書いているのに、いつまでも「太宰の娘」だと言われ続けているのは、とても嫌でした。けれどこのときに、自分はこういう生まれ方をしたことをきちんと受け止め、私の「宿題」をやり終えなければいけないのでは、と考えたのです。ここらで、父・太宰治と母・太田静子を客観視してみたいと。それまで、父と母、2人の恋愛は自分にとってはどうでもよくて、今のこの時代をどう生きるかが私には大切だと常に思っていました。
『明るい方へ』。タイトルに込めた思い
太宰は私が生まれたころに亡くなっていますし、私は太宰の子というよりも「母の子」だという強い思いがありました。その母が世間に誤解されている部分がある、きちんとした事実を母のために書いておきたい。
しかし、いざ書こうと思うと心が重くなった。書くからにはきちんと書かなければいけないと、それまであえて触らずにいた母が書き残したものなどを、奮起し、読み始めましたが、太陽のように明るく見えていた母が「苦しい、太宰の奥様に申し訳ない」と私がお腹にいるころからつづっていた。父も母も、やはり古い道徳のなかで苦しんでいた。だったら私の生まれてきた意味はなんだったのだろう、と、いっそう重い気持ちになったのです。
そんなときに、大学生だった娘がこう言いました。「2人はママにとって他人、ママは1人なんでしょ、ふだんから自分でそう言っているじゃない」。親の歴史がどうあれ、生まれてきたからには1人の個人。そう思っていましたが、あらためて娘の口からその言葉が発せられたときに、ああ、本当にその通りだと。
太宰も静子さんも他人と思ったらなんでも書ける。そうして客観的にみたらこんなに面白い人たちはいないと、途中からすごく楽しんで書けたのです。
『明るい方へ』というこの本のタイトルは、書く前は暗い方向に流れがちだった心を少しでも明るく持っていきたいと願い、つけたものです。私が大好きな詩人、金子みすゞさんの詩から取りました。草も虫もみな明るいほうへ行く、という内容です。
「ぶれない」人に惹かれ続けてきた
この2冊の執筆を通してあらためて気づいたことは、だんだんと母に似てきたということ。そして太宰治の言動のいい加減なところは、過去の私に似ています。
「ぶれない」人に私は惹かれます。林芙美子、明治の洋画家・浅井忠、そして母・太田静子。ぶれない生き方はいわゆる不器用な生き方。世の中の流れに合わせたほうがどんなに楽か。だからこそ、そうした生き方を選んだ人に対し、私は尊敬の念を持っています。これからはできるだけそちらの生き方をしたい、そう強く思っています。
(川崎のご自宅で取材)
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