どれだけ面白がって演じることができるか、その感覚だけで長年やってきた
- 吉行 和子さん/女優
- 東京生まれ。1956年、舞台『アンネの日記』のアンネ役でデビュー。78年、『愛の亡霊』で日本アカデミー賞主演女優賞を受賞。2002年『折り梅』で毎日映画コンクール田中絹代賞を受賞した他、『佐賀のがばいばあちゃん』『おくりびと』への出演など、現在も映画やテレビに数多く出演。11月12日に映画『シェアハウス』が公開予定。
「いつまで生きていられるか」と母が心配したほどの虚弱児
私は、小さいころは本当に体が弱かったんです。2歳で小児ぜんそくを患いましたが、苦しくて横になれないものですから、布団を積み上げ、そこにもたれて眠る。記憶には残っていませんが、発作がひどいときは一晩中母が背負ってくれたようです。あまりの苦しみように、母は、この子いつ死ぬんだろう、とずっと思っていたと。
転地療養した先に、作家だった父(吉行エイスケ)が付き添い、面倒をみてくれていたのですが、四歳のときに心臓麻痺で亡くなってしまった。これから私の面倒は誰がみてくれるんだろう、と幼いながら不安な気持ちになったことを覚えています。
家族みんな、1人でいるのが平気な「不思議な一家」
母は、子どものやることに関しては、何も言わない人でした。自分の人生を語った本がドラマにもなった母(吉行あぐり)は、97歳まで現役で美容師を続けていましたが、自分の働く姿を見せることが親としての務めと考えていたのだと思います。実際に、仕事に一途に向き合う母の姿に教えられました。
学校の様子などもまったく聞かれず、貧血を起こして教室でよく倒れていましたが、そうしたことももちろん母は知らず、それには担任にも驚かれたほどでした。
遠足のおやつ代も、遠慮のような気持ちが生じて、言い出せませんでした。母が懸命に働いて得たお金、その大切なお金を使わせてもらうのがしのびなかったんですね。
親とそのように、ある程度の距離を保っていたのですが、兄や妹とも同様のスタンスで、互いに特に話すこともありませんでした。
この世界に入ってしばらくして、ある方に、「お兄さんはとっても妹さん思いなんですね」と言われたことがありました。11歳違いの兄(吉行淳之介)がエッセイのなかで、「妹の和子は体が弱いから(働きに出るのは難しいだろう)、タバコ屋の店番でもやるしかないのではないか」と心配して書いていると。
でも、だからといって、自分が妹の面倒をみてやろう、とかそんな視点ではないようなんですね(笑)。そこらへんがわが家らしいというか。ともかく、不思議な一家だと思います。家族がいても、皆それぞれが1人でいて平気でした。
それでも、兄が70歳で亡くなる数年前くらいから、電話で、世間話やくだらない話が気安くできるようになりました。互いに歳をとり、11の年齢差が縮まった感じでした。兄はどうやらバラエティー番組が好きだったようで、私がドラマに出ても特にコメントもないのですが、たまにバラエティーに出ると面白がってコメントをくれていました。
結局ガンで、告知後2カ月で亡くなりましたが、いなくなってしばらくは、どこかにまだ兄がいるような気がしていました。何かトピックがあると、まず兄に意見を聞こうと電話に手がのびかけ、ああ、そういえばもういないんだ、と。
幾つになっても続けていられるのが「女優」という仕事
母は、仕事を一途にやることを自分の背中で見せてくれた人。私が、仕事に対して真剣に考えるようになったのは、いわば自然の流れだと思います。女優は、幾つになってもその年代ごとの役があり、母が選んだ仕事のように、年をとってもずっと続けていられる。いい仕事を選んだと思っています。
でも実は、女優を始めたころは、あまりそうは思えなかったんですね。病弱で家にいることが多かった私は幼いころから本が大好き。本の中に誰か1人、自分の気に入った人を見つけて、想像の中でその人と遊ぶんです。中学3年生のころに初めて民藝という劇団の舞台を観に行き、驚きました。今まで自分が読んでいた本の中の人が実際に現れ、本のページをめくるように、話が進んでいく。
この世界に私も入りたいと強く思い、では自分にできることはなんだろうと。私は、リアリストだからかしら(笑)、最初から女優志望ではなかったんです。裁縫や絵が好きだったから、衣装や美術など裏方から入り込めるんじゃないかと。その思いを持ち続けながら、高校の3年間を過ごし、いくつか芝居を観ましたが、やはり最初に観た劇団民藝のことが忘れられなかった。
高校3年生のときに民藝の募集広告を見て早速応募。運良く入れ、入団2年目で、芝居『アンネの日記』のアンネ役に抜擢され、そこから女優人生が始まりました。
舞台だけでは劇団運営の費用が賄えませんでしたので、役者が映画や広告出演でもらったお金を劇団に入れるんです。劇団員皆で経営を支える。それで、劇団からの月給は2万円。これが30歳まで続きました。
華やかな映画出演も、当時は大して楽しくなかった。もっときれいな格好をして現場に入ってくれと言われたくらい普段着のままでいましたし、およそ女優らしい風ではなかったですね。
芝居の楽しさに目覚めたのはフリーになってから
33歳で劇団を辞めたのは、そのころあちこちで面白い芝居が始まり、刺激を受けたから。唐十郎、寺山修司、鈴木忠志。恐るべき才能と評された彼ら、その芝居を観に行き、今までの芝居とは全く違う、とんでもないものが出てきたと感じました。これはなんだ?と。分からないけれど、だからこそ非常に惹かれました。
そんな折に突然、唐氏脚本、鈴木氏が演出を手がける『少女仮面』という芝居に出ませんかという話がきた。別世界の人たちだと思っていたその2人から手が差し伸べられ、これは新しい扉を開けるときが来た、そんな気持ちで、劇団を辞めて飛び込んだのです。そこから、芝居の楽しさに目覚めました。
ある日、民藝時代のお客さまが『少女仮面』を観に来てくださった。客席は行儀が悪い観客ばっかり、舞台も民藝よりずっと小さい、そんな環境で芝居をする私がよほど気の毒だったのか、「あなた、みじめねえ」って言われました。でも、私の中ではもちろんそんな風には思わない。ここからもう1度青春が始まる、そんな気持ちでした。
父は、新しい小説が書きたくてダダイストの道を選んだ作家。兄もそう評したように、私にはそうした父の血が最も濃く流れている、このころからずっと、そう感じていました。
13年続いた『MITSUKO』の最終上演は、チェコで
以降は、自分がやりたい演目を探し、自分でスタッフを集め、舞台を上演という形で、芝居をずっと続けてきました。1つの色に染まるのはいや、そこに飛び込んだらどうなるか分からない、そんな役やプロジェクトに自ら飛び込む日々でした。
それが40年続き、2年前に、もういいだろうと幕を引くことに。
1992年から13年間、『MITSUKO』という一人芝居をやり続け、これである程度、舞台がどんなものか自分なりの答えが出たように思えた。『MITSUKO』を終えたら次作を最後に、舞台から降りようと考えました。『MITSUKO』は、生の舞台を観たことのない人たちに観てもらいたい、それが目的で始めた舞台でした。
だから、日本のあらゆる土地で上演したし、日本のみならず海外でも演じました。光子は実在の女性ですが、彼女が最初に住んだ、チェコの城が現存していて、ならば、長年演じた最終日の舞台はそこにしようと決め、城の修復を待ったんですが、なかなか終わらず、とうとう13年経ってしまいました(笑)。とはいえ、結局電気関係が整わず、すぐ近くの小さな劇場での上映でしたが、打ち上げだけはお城でやりました。
人間のぬくもりや鼓動が感じられる、それが舞台の魅力
その後の私の最後の舞台作品は『アプサンス〜ある不在〜』という戯曲。ああ、これで私も舞台から不在になる、タイトルもぴったりだわ、と(笑)。内容は、夫に先立たれ、1人になったことのショックから記憶喪失になった女性が主役のお話。やっと1人でいることを受け入れ、生きていく、というところで終わる。私にぴたりとはまりました。
舞台は、「人間が作っている」という要素が非常に大きいし、それをしっかりと感じられる場所です。今の時代は、人間のぬくもりや鼓動、そうしたものと関係なく進んでいる事柄のほうが多い。だけど舞台はいまだに手作り。丁寧に糸をつむげる場所です。そうした、作る面白さと、お客さまと一緒に過ごす楽しさ、大勢の方からもらうエネルギー、その2つともが大きな魅力で、とてもぜいたくな喜びが得られるのが舞台。だから、長い間なかなか離れられなかったんです。
でも、これからは一女優として芝居することだけにエネルギーを注ぎ込みたいと、それはそれで違う楽しみができました。
今撮影している映画は、山に生えてる葉っぱをビジネスに変えた、実際あったことを題材にした話。
高齢化社会という時代のおかげで、70歳をすぎたくらいから、自分の歳に近くて個性的な面白い役がくるようになりました。私が若いころは、おばあさん役というと、もう決まりきったものでしかなかったのですが、今の役は、とっても面白い。
「面白い」っていうのは、自分でよく口にする言葉ですが、私が演じることで1番大切にしてることは「どれだけ面白がってやれるか」、それしかないんです。その感覚だけで、長年やってきたように思います。
舞台のことだけではなく実生活でも、そろそろ身辺の整理を始める時期だと思い、身の回りのものを捨てようと努める日々です。元来、思い切りはとてもいいんですが、舞台写真などは、なかなか捨てられない。でも、こんなことじゃいかんと頑張って処理に励んでます(笑)。トランクルームを借りてそこに移し、自分が死んだらその中のものはすべて捨ててくれればいい。
母との初めての海外旅行は91歳のとき
母とは、母が91歳から親しくなりましたね(笑)。私が中学に入るころに再婚したのですが、それ以降は、どうも「よその人」という風に思えていました。91歳で相手が亡くなり、独り身に。そこではじめて私の中で「よその人」から「母」に戻った。
その年、メキシコに行くと言ったら、どうしても一緒に行きたいと。それまでは夫をおいて旅に出ることに気兼ねしてたんでしょう。それから97歳まで、毎年一緒に国外、国内を旅しました。母がどこかで映像を目にし、実際に見たいとずっと思っていたという宮崎のコスモス畑や、岡山の菜の花を見に行ったり。国内旅行は、母の願いを聞く形での、いわば親孝行旅行です。
友人たちともよく旅に出かけます。私は社交性がないから、プライベートでも親しい人は少ない。でも、有事に心配して声を掛け合う人たちはいる。そんな風に気遣いあえる友人は大切だし、それが1番の財産だと思います。女友達とずっと付き合っていくコツは、踏み込まないこと。親友の冨士眞奈美(女優)には、「言葉が足りなさすぎる、愛想がない。それでよく周りの人はがまんしてる」と言われますが、親切に付き合ってくれています。
基本的には、1人でいることが結構好きです。仕事の間は仕事のことばっかり考えていて、それが楽しいのですが、1つ終わったら映画を観に行ったり。大好きだった旅も最近はご無沙汰なので、そろそろ旅の虫がうずいていますね。
(東京都新宿区の喫茶室にて取材)
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