自由に楽しく、その気持ちを大切に続けてきました
- 朝丘 雪路さん/女優
- 昭和10年築地生まれ。本名は加藤雪江。昭和26年宝塚音楽学校に入学。在団中にジャズ歌手としてデビュー、数々のステージを踏む。宝塚歌劇団退団後、松竹映画と専属契約。その後フリーになり、現在、舞台の他テレビ、歌の活動など多彩な分野で活躍。日本舞踊深水流(しんすいりゅう)家元 深水美智雪。父は日本画の巨匠故伊東深水、夫は俳優の津川雅彦、長女は女優の真由子。義兄 故長門裕之、義姉 故南田洋子。昭和56年、文化庁芸術祭優秀賞。平成13年、名古屋演劇ペンクラブ賞。平成15年、芸術選奨文部科学大臣賞。平成23年、旭日小綬章受章。
やさしくてひょうきんな父親が大好きでした
私の自宅が築地だったので、小学校は銀座の泰明小学校。中学校は山脇学園で、中学卒業後は宝塚に入りました。
父は日本画家の伊東深水です。父にはすごくかわいがられて育ちました。私と父の顔、あまりにもそっくりで、どこにいっても「似すぎてて、おかしい」と、顔を見た途端吹き出されちゃうんです。10人が10人ともそんな反応で、こちらは年ごろの女の子だから、父に似てるなんて言われるとそりゃ傷つきます。でも父はそう言われるのはうれしかったようで、自分の写真を求められると、必ず、私と一緒に写った写真を差し出してました。
私に対してはしょっちゅう、「レディーでいなさい」と。「前髪が眉にかかってるよ、レディーはもう少し短くしておかないとね」とこんな風。でも父の言うことを聞かなくても全然怒られない。「女の子を叱っちゃいけない」というのが父の持論で、女性を叱ったら後々まで恨まれるからと、よく言ってました。女性の恨みは怖いんだよ、とまるで大人に話すみたいに中学生の私に語ってました。
私は父に大層甘やかされましたが、父は誰に対してもやさしい人でした。だから友達にも人気で、家に遊びに来ると必ず「雪江ちゃんのパパに会いたい!」って。すごくお茶目だし三枚目な人で、「いつも雪江がお世話になってるから、今日は張り切ってごちそうするぞ」と奥に声をかけて、「おーい、南京豆を皆に1粒ずつ持ってきておくれ」なんて。
あるときには、お弟子さんが描いた長い髪の女性を眺めながら、これじゃあ洗うの大変だろうね、と軽口叩いたり。父の周りはいつも笑いが絶えませんでした。
でも、3人の弟には厳しかったんですよ。弟たちも「はい、分かりました」と。何だか他人行儀な会話ね、良くないわ、と私が言うんだけど「いいんだよ雪江ちゃんとは違うんだから」と。何が違うのかは分からなかったんですけど(笑)。でもその3人のうちの1人は、とってもひょうきんだし何から何まで父にそっくりで、おかしくて。そういえば、私も自分ではすごいレディーだと思ってるのに、ひょうきんだと周りに言われますね(笑)。顔だけじゃなくて、そんなところも父譲りね。
母は幼い私の憧れの存在
父と同様、母も人を怒らない、鷹揚(おうよう)な人でした。母はとってもきれいで華やかな女性。大人になったらこんな女の人になりたいと、幼い私の憧れの人でした。
はっきりと物を言う私とは対照的に、つつましやかな人で、「そんなにずけずけ言ったら嫌われるわよ、やーだもう、雪江ちゃん」って。「やーねー、もう」これが母の口癖でした。
銀座で料亭を営んでいましたが、お客さまには母のファンで通い詰めてくださる方が大勢いて、その中には有名な作家の方も大勢いらっしゃいました。
母は父の理想の女性でした。父の絵の女性は、ほとんど母がモデルですし、母が亡くなって1番悲しんだのは父だと思います。
「宝塚」時代の楽しみはお掃除
宝塚への憧れは全くなかったんですが、いつの間にか目指すことになってしまい(笑)。でもそう決めたら、父が行く先々で、「娘が宝塚に入りたいって言ってるけど、つてはないかね」と尋ねるんです。友人には、「あれだけいろんな人に頼んでれば、自然に入れるわよ」と言われるほど。合格したときには、裏口入学でしょ、とみんなに言われました。
宝塚に入っても、上級生が教室に来て「裏口入学はどの子?」なんて聞かれたり。いじめもありました。でも全然つらくなかったし、なぜだかまったく平気でしたね。
宝塚時代の予科はとても楽しかった。それまで、洗い物や雑巾がけをやったことがないから、その作業が、レッスンよりも楽しかったほど。家ではお手伝いさんの領分で私にはやらせてもらえないから、その分、学校では一生懸命にやりました。
いろいろとへまもしました。先生の、刺しゅう入りの下着にアイロンをかけていたら、母から電話が。長話から戻ってきたら、パンツが消えてたんです。驚いてよくよく探したら、ナイロンの布が溶けて黒い玉になって、アイロンにくっついてた。泣きそうな顔の先生を見て、父に電話し急いでお金を送ってもらい、神戸中探し回って、同じような下着を見つけ出しました。
負けず嫌いというより「欲張り」なのかも
宝塚の予科は成績2番で卒業。成績順に役がついたから、卒業後はすぐに歌劇団の舞台に立ちました。『君の名は』という大ヒットドラマをフランスの物語にアレンジしたもので、私は娘役でしたが、フランス語がちょこちょこ出てくる。その発音が難しくて、閉口しました。このころ覚えて、いまだに忘れないセリフが「スタニスラフスキールベンツの橋」。セリフや歌の中にもこの単語が出てきて、お風呂の中、トイレの個室、寝る前も、常に声に出して、ちゃんと言えるよう練習。物語のあらすじも何も覚えてないけど、これだけはいまだに忘れない。この舞台は父も観にきてくれましたが、客席から大喜びで手を叩いてくれて、「面白かったよ」と。でも話の筋も何も分かっちゃいないんです。舞台全体は観ずに私の姿ばかりをおっかけているから(笑)。
今まで映画出演や歌と、多くの場でいろんなことをやらせてもらいましたが、宝塚での舞台は、タップや日本舞踊、いろいろな踊りがやれて、とにかく日々楽しかった。
舞台に立てるのは成績順、だったらいい成績を取るために頑張ろう、と。負けず嫌いというより、欲張りで、やれるものは皆やりたいんです。これもそれも、あの役もできますって言っちゃう。「他のことでは自己主張しないのに、いつからそんな風に変わったのかしらね」と私の幼いころを知る方に言われたこともありました。
宝塚を卒業後、閉鎖されていた宝塚の撮影所で『ジャズ娘乾杯!』という3人娘の映画を撮影。共演は雪村いづみさん、寿美花代さんで、お父さんが伴淳三郎さん。伴さんは優しい方で、私たち3人を自分の子どものようにかわいがってくださり、私も関西でのお父さんのように思っていました。晩年、お1人住まいでご病気になられてからは、3人交代で、ご自宅にお世話に伺いました。
アメリカの大人気番組からのオファーに周囲も熱狂
日劇にゲスト出演していた1960年、アメリカで大人気の番組『ダイナ・ショア・ショー』のプロデューサーがこの舞台をたまたまご覧になり、出演のオファーが来たんです。周囲は大興奮の中、当の私は「出演はパパに聞かないと」と。でも日劇のプロデューサーから、親なんかどうでもいいから行くべきだ、と熱心に勧められ、私もその熱狂に煽られるように、渡米・出演を決心しました。パスポートも持ってなかったのですが、総理への電話1本で問題解決。あれよあれよと、いつの間にか羽田にいました。
飛行機は初めてだったから、もう怖くて怖くて。家族はもちろん、親戚一同まで揃って見送りに来ていて、タラップからそれを見たときに、「親戚がこんなに来るなんておかしい。私は死ぬんだ。最後だから皆わざわざ駆けつけてくれたんだ」と、本気で思いました。
周りは商社などの男性ばかりで女性の乗客は私1人。「これ食べる?」とアイスキャンデーを持ってきてくれたキャビンアテンダントと2人で5個ずつ食べてました。
到着しタラップに出たら、バシャバシャッと、ものすごいフラッシュの数で迎えられました。
滞在中は、私付きのメイドさんと、日本人の話し相手のおばさま、車1台にドライバー付き。お金も一切使うときもなかった。至れりつくせりでお姫様みたい。
放映翌日には街でいろんな人に「あなた昨日出てたでしょ!」と声を掛けられたり、女の子にサインをせがまれたりして、ちょっとうれしかったです。
その放映を見たオスカー・ハマーシュタイン・ジュニアというミュージカル界では憧れの先生に、ミュージカルに出ないかと声を掛けられたんです。
そんな話が出てる最中、父と電話で話したら電話口で泣くんです。私がなかなか帰国しないから、「パパ寂しくて死んじゃうよ」って。それを聞いて、帰国を決めました。
渡米した際にいろいろとお世話になった、当時の松田文部大臣の娘さんに、「そんな決断してあんたバカよ」って一体何度言われたか。「あのときあのままアメリカに残ってたら、今ごろ2人でこんなもの食べてないわよ」って、彼女に会うといまだに言われる(笑)。
でも、私は今でもあのときの選択は間違ってなかったと思ってます。
『曽根崎心中』であらためて知った日舞の奥深さ
宇崎竜童さんの音楽(ロック)で踊った『曽根崎心中』は、忘れられない舞台です。文化庁芸術祭賞大衆芸能部門の優秀賞を受賞しましたが、歌舞伎の演目にもなっているこのテーマを、ロックの曲にのせて日本舞踊で踊る。思い切ったチャレンジでしたが、これでさらに日本舞踊の奥深さを知ることができました。
これをきっかけに、まず名古屋で、そして東京でも舞踊教室を開くことに。85年に歌舞伎座で『深水流御披露目舞踊会』を開催しましたが、この舞踊会が深水流創流の起点です。
家元になりたいとは思ってなかったのですが、私が起した深水流で、踊りの可能性を広げたい。もっと自由にいろんなことをやりたいと考えた上でのことです。
娘の真由子は私の父にそっくり
夫である津川(雅彦)さんとは15歳くらいのころからの知り合い。津川さんのお父さま、お兄さまとは共演の経験もあり、津川さん本人よりご家族とのほうが縁が深かったほどですが、お兄さまはもう結婚なさってましたしね(笑)。結婚はなんとなく自然な流れでしたね。
娘の真由子と2人で温泉旅行などにも出掛けてるようです。私も一緒に、と誘ってくれるんですが、なかなか三人の予定が合わなくて。
娘は、ひょうきんなところも含めて、性格が私の父にそっくり。まだ独身ですが、「もっといい人を連れてきなさいよ」なんて私は言ってるの。津川さんは誰が来てもダメ、って言ってるけど(笑)。
今は生徒さんに教えるのがとっても楽しい
昨年秋に旭日小綬章を受章しましたが、喜びというより、なんだか恥ずかしいような、自由に楽しくやってきただけなのにいただいてもいいのかしら、という気持ちですね。
今一番楽しいのは、日本舞踊。教えるのが苦痛になっていた時期もあったけど、ここ数年で、また日本舞踊が面白くなってきました。新しい感覚の日本舞踊を今の若い方々に伝えたいし、日本という国の文化に根差したこの踊りをもっと大切にしたい。
日本舞踊は、踊ってる間に見えてくるものがあるんです。少しの動きの中にたくさんの感情が含まれることが分かるようになってくる。その面白さをぜひ知ってほしい。
生徒さんは全国からいらしていただいていますが、年配の方で、お子さんからお月謝を出していただいて地方から通ってくださる方々が、すごく愛おしく思える。精一杯頑張ってお教えしなきゃ、という気持ちになりますね。
(東京都港区の明治記念館にて取材)
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