歌が自分の皮膚の一部になった、そう思えるまで歌い込みます
- ペギー葉山さん/歌手
- 1933年生まれ。東京・四谷出身。1952年『ドミノ/火の接吻』でレコードデビュー。代表曲に『学生時代』『ラ・ノビア』『南国土佐を後にして』『爪』『夏の終わり』などがある。日米修好百年祭に日本人代表として招かれる。この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。帰国後、自身の作詞で劇中歌『ドレミの歌』を紹介。1965年に俳優の根上淳と結婚、1968年には長男を出産。歌手生活40周年リサイタルで芸術選奨文部大臣賞(平成5年)、紫綬褒章(平成7年)、旭日小綬章(平成16年)。昭和49年、高知県名誉県人に。平成19年(社)日本歌手協会会長就任。
音で溢れている環境で育ちました
今年はデビュー60周年で、節目の年。デビュー以来ずっと、キングレコードに在籍していますが、こんなに長い間在籍した歌手は、社歴80年間で私が唯一ですって(笑)。
私は、それぞれ4歳違いの3人姉妹の末っ子に生まれました。父の仕事は今でいう商社マンで、神戸にあるパルプ輸入の会社に勤務。結婚前にカナダのバンクーバーに7年間滞在し、帰国後に母とお見合い結婚。いわゆる洋行帰りの男性に、母は会うなり惚れちゃったみたいです。最初のデートの別れ際、父はポケットからハンカチを出して振ったんですって。それを見て、この人だ、と思ったって(笑)。
母は芸大を目指すほど音楽に入れ込んでいましたが、耳を患い断念。食事の用意やお皿洗い、お洗濯、いつでも歌を口ずさんでいました。父も音楽好きで、主にクラシックでしたけれど、カナダからレコードをたくさん持ち帰り、家でよく聴いていました。また、芸大受験のために神戸からわが家に寄宿していた、いとこの弾くピアノの音が絶えず流れ、今思うとそれが私の音感教育でした。
家の中にいてもずっと音楽が流れている環境だったから、今でも無音は落ち着かない。ラジオでもCDでも、どこかに音がないと寂しいんです。
米軍キャンプで歌い始めたのは高校生のころ
私が人前で歌い始めたのは、青山学院に通っていた高校生のころ。クラスメートのお兄さんが立教大生で、当時大流行だったハワイアンバンドを組んでいたんです。そこで歌ってみないか、と誘われて。女子高校生でジャズを歌う子なんていなかったから珍しがられたし、歌も気に入ってもらえました。でも今思うとあまりにも不思議なビジュアル。チェックのスカートにソックスはいた、色気もへったくれもない子がジャズを歌ってるんですもの。
その後、進駐軍のキャンプ通い。土日にスペシャルショーが開催されるんですが、メンバー皆でバスに乗せられてキャンプに入っていくの。見たことのないものだらけ。日本にあってそこだけがアメリカでした。コインを入れるとレコードが立ち上がって歌が流れるジュークボックス、ライブが終わればコカコーラが出て、フライドチキンをお土産にもらう。歌える楽しさもあったけれど、そうしたものにつられてのキャンプ通いでしたね。そこで、アメリカ兵たちのアイドルになって、だんだんクラブで歌う回数も多くなりました。
1人の米兵との出会いが歌手になる道を拓いてくれた
キャンプで歌うことに対して家族の反対はありました。特に、父はすごく怒っていて。父は広島出身で、原爆で祖父が犠牲になった。だから余計に、アメリカ=敵国という気持ちが根強かったと思います。敵国の兵隊のそばで歌うなんてけしからん、そんな世間一般の雰囲気もありましたし。でも、実際のキャンプの様子を知らないからまだよかったのかも。ステージ脇で米兵のけんかが始まったり、女性を抱きかかえながらキスシーンを繰り広げていたり。キャンプに向かうバスでは、試験前で辞書を広げてる私の横にきれいなお姉さんが座って、といった風。私はすごく奥手で、そういう女性が何をしていたのかは最後まで分からずじまいでした。
そうしたことを知らずに過ごせたのは、いい人たちに出会えて守られていたからだと思います。バンドマンたちからは、米兵に誘われても絶対について行くなと釘を刺されてましたし、それに米兵にもとってもいい人はたくさんいて、その1人、マック軍曹という方が私の歌の道に光を当ててくれました。
大のジャズ好きで、日本の一流ジャズマンたちとも懇意だった彼から、君はもっといい場所で歌わなきゃだめだ、と、渡辺弘とスター・ダスターズやムッシュかまやつのお父さんのティーブ釜萢(かまやつ)さんを紹介していただいたのです。それが、高校3年生のとき。
青山学院を卒業と同時にメジャーデビューが決まりました。卒業式のときには、先生に呼ばれ、お説教かしらとドキドキしていたら、「あなたは時々ラジオで歌っていたようですが、学業と両立させてよく頑張った。偉いですね、学校の名を汚さないよう、これからも芸能界で活躍してください」と異例の言葉を頂きました。
「人事を尽くして天命を待つ」、この言葉が私の生き方の指針
私の信条は、やるんだったらとことん、完璧に。自分の力を惜しまず出し切るよう努力するからこそ、神様が光を当ててくれたのかなと思っています。
私の育った家には、玄関正面に大きな額が飾ってあり、そこには「人事を尽くして天命を待つ」という書がありました。父に説明を求めると、クリスチャンらしく「一生懸命にやれば天の神様が助けてくれるということだよ」と。幼いころは、何度聞いてもその言葉の意味が分からなかったのですが、今では、私を支え、核となっている言葉。私の場合は、歌い手として一生懸命に歌う、それが「人事を尽くす」ということ。舞台の前は、大きな岩が迫ってくるようなプレッシャーがあります。でも「歌詞を間違えたらどうしよう」なんて思わずに、あれだけ頑張って練習したんだからと、その岩に向かっていくんです。舞台に上がるときは、歌が自分の皮膚の一部になったと思うまで歌い込む。
でも、毎回ステージが終わると、反省したり、次回はこういう風に変えて、あんなことを試してみよう、とやりたいことがいっぱい。いまだに山に登り続けてる気分です。それもまだ6〜7合目付近かしら。
『南国土佐を後にして』の大ヒットで、高知が私の第2のふるさとに
私の大きな転機は、1959年に歌った『南国土佐を後にして』の大ヒットです。それまでジャズ歌手のイメージを持たれていたのが、この1曲で歌謡ソング歌手の仲間入り。
この曲は、高知放送局開局の際に作られたご当地ソングです。戦中の歌なんですが、高知出身の兵隊さんが夜、戦地で家族を思い出しながら誰からともなく歌い始める、そんな歌です。こうしたジャンルは歌ったことがなかったから、声をかけられたときは実は全然気乗りしなかった。それが、この大ヒットのおかげで、高知県名誉県人という称号まで与えられ、この地にとても深いご縁ができました。よさこい祭りの時期には毎年「里帰り」もしています。
この曲があんなにもヒットしたのは、運のよさもあるように思いますが、それ以上に、歌自体がやはりいいものだったから。この歌には兵隊さんの魂がこもっているのだと思います。
私はよく後輩歌手に話すんです。歌はどれも、命があるもの。地中にはいい歌という種がたくさん眠っているけれど、そこから芽を出し、花開かせられるかどうかは歌い手にかかっている。だから、いい歌だと思ったら、その気持ちを信じて歌い続けること、それが歌い手の務めなんだと。
私はずっとジャズを歌い続けてきましたが、ジャズの魅力は、いろんな形にアレンジできることだと思います。先日、サリナ・ジョーンズというアメリカの歌手のライブを聴きにいったんですが、アレンジがとっても新鮮で、こうやって、その人の感性で料理できるのがジャズなんだと、あらためて感激しました。時々はこうして人の歌をしっかりと聴かなくては、と思いました。
ジャズには、昔から歌い継がれているスタンダードナンバーがたくさんある。そのスタンダードに、いろんなミュージシャンが新しい味付けを施してきた。そうした古いものを守る姿勢は素敵だし、うらやましいなと思います。日本だと常に新しいものを求める傾向があるから、歌い継がれることはそうそうない。私は常に、先輩方が歌ってきた歌を大事に守っていきたい、と思っています。
7年間続いた介護の日々
32歳で結婚した夫、根上淳を看取ったのは6年前、7年間の介護の末でした。ある日突然倒れて入院するまで、重度の糖尿病だったことに、私は気づかなかったんです。後で夫の机の引き出しを開けたら、奥の方に糖尿病治療の本がしまいこまれていました。だから、当人は薄々気づいていたみたい。でも、私には決して打ち明けなかった。食事管理されるのが嫌だったんだろうと思います。私が知ってたら当然、食事の管理はやったでしょうし、そうなったら夫は嫌がって「糖尿病離婚」もあり得たかもしれない。それくらい美食家でしたね。
おいしいもの、楽しいことをもっと共に楽しみたかった
夫の祖父はオーストリア人。ブルックナーやマーラーの弟子で、日本に西洋の音楽を広めるために来日し、東京芸大を立ち上げたメンバーの1人でした。根上淳が、そうした自分のルーツを訪ねて、かの地に旅をするという趣旨の番組に出演しましたが、オーストリアといったらおいしい食べ物の宝庫。夫の病気を知っていた私は、「おいしいものを食べるなといってもそれは無理だろう、でもせめて、もう1軒行こうと夫が提案したときには止めてほしい」とスタッフにお願いしました。だけど、結局帰国後すぐに病状が悪化し、これが夫の最後の仕事に。
新婚旅行では、1カ月かけて、ヨーロッパとアメリカを回りましたが、仕事とは全く関係なく、プライベートで一緒に旅行できたのはそれが最初で、そして最後。このときに訪れた国のどこか1カ国でも、もう一度一緒に旅をしたかったね、と話していたけれど、結局それも叶いませんでした。
看護の7年間は、元気だったころの夫のことをたえず思い出しつらかった。でもその間に少しずつ覚悟はできていきました。彼が私にその準備期間をくれたんだと思います。亡くなった際には、とりすがって泣くこともなく、やるだけのことはやったんだから、と思えた。
だけど、お葬式が終わって1年間は虚しかったし、今でも思うんです。まだこんなに楽しいことがある、おいしいものもある、これを一緒に楽しみたかった、いてほしかった、と。
あらゆる歌を歌う「歌い手」として生きていきたい
60年なんてまだまだだ、と心底思います。生き続ける限り、五感全てを使ってアンテナを張り続け、いいものは全部取り入れたいんです。そうした気持ちが私の元気の源ね。性格的に、何もせずにぼんやり過ごす時間なんて持てないんです。疲れるけど、しょうがないわね(笑)。
今はジャズの他、叙情歌、童謡、ありとあらゆるジャンルを歌っています。私はどんな歌でも歌う「歌い手」として生きていきたいと思っています。自分の世界を出そうと強く思わなくても、今はもう、私が歌えば「ペギー葉山」になると思っています。
(東京・渋谷で取材)
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