K2から奇跡の生還、写真家に転身 放浪の末、シリアに魅せられ

- 小松 由佳さん/写真家
- 1982年秋田県生まれ。高校時代から登山に魅せられ国内外の山に登る。2006年、世界第2位の高峰K2 (8,611m)に日本人女性として初登頂。その後写真家を志し12年からはシリア内戦・難民をテーマに撮影を続ける。13年、シリア人男性と結婚、現在夫と2人の子どもと東京都在住。著書『人間の土地へ』(20)で山本美香記念国際ジャーナリスト賞、25年、『シリアの家族』で開高健ノンフィクション賞受賞。その他植村直己冒険賞(06)、秋田県県民栄誉章(06)、モンベル・チャレンジ・アワード(22)を受賞。
土とともに生きる喜び 教えてくれた祖父
私は秋田市の生まれです。市郊外の自然豊かな場所に生まれ育ち、両親と2つ違いの弟、4人家族で高校卒業まで暮らしました。
両親が共働きだったので学校が終わると近くに住む母方の祖父母の家に帰り、田んぼや畑で働く祖父母の姿を見て育ちました。母は小学校の教師で教育には厳しい人でしたが、さらにその父である昭和ヒトケタ生まれの祖父も厳しい人でした。
家から1㎞くらい行ったところに収穫後の稲を保管する農業用の小屋があったのですが、子どもたちが悪さをするとその小屋に閉じ込められるというのが当時のいちばん怖いお仕置きでした。今だったら問題になりますね(笑)。
祖父からは田んぼ仕事の厳しさと同時に、土とともに生きる喜びもたくさん教わりました。そして、田んぼで働くその背中の向こうには標高1170mの太平山(たいへいざん)がそびえていて、「あの山の向こうの景色が見てみたい」と思いながら育ちました。高校では迷わず登山部に入部。幼い頃から眺めてきた太平山の山頂に初めて立って自分が住んでいる町がずっと下に小さく見えた時には感動しました。
ヒマラヤへの憧れ
ヒマラヤに憧れるようになったきっかけは登山部の部室で見た1冊の写真集でした。パキスタンのナンガ・パルバットという標高8126mの山の写真を見てその美しさに鳥肌が立ち、私の中に「ヒマラヤに行きたい!」という思いがメラメラと燃え上がったのです。同じ頃、オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝を映画化した『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997年)が公開され、それを見てヒマラヤへの憧れがさらに募りました。
ちょうど進路選択の時期。私はヒマラヤに登れる可能性を求めて大学の山岳部をいろいろ調べ、東海大学山岳部の存在を知りました。とはいえ、両親には「山岳部に入りたいから」とは言えず、「文学部の歴史学科で考古学を専攻したい」と言ってお許しを得て無事入学。考古学にも興味があったので決してウソではないのですが(笑)。
こうして私は念願の東海大学の山岳部の扉をたたきました。ところがそこでかけられたのは、女性の入部は禁止だという先輩の言葉でした。それを知らなかった私は「体力がないならトレーニングしてつければいいし、最初からダメというのは納得がいきません」と交渉してなんとか入部。その後私は学生生活のほとんどの時間を登山に費やしました。2000年の始め頃でしたが、山岳部として男女がともに活動することの難しさがありました。
道は自分で切り開いていける
大学卒業後、私は東海大学山岳部OBチームの一員として日本人女性初のK2登頂に成功。もちろん努力もしましたし経験も積んだうえで臨んだ登山でしたが、結果については「たまたま幸運が重なっただけ」だと思っています。
登頂後の下山では最終キャンプまで降りられず8200mの場所でビバーク(緊急野営)。ひと晩、生死の境に立たされながら生還できたのは、まさに幸運だったからだと思います。
私が登山で学んだことは「どんなに難しいルートに見えても、どんなに高い山に見えても、目の前の小さなステップを一つ一つ踏んでいけば、必ず目的地に近づける」ということです。
そして「道は自分で切り開いていける。たとえ道がよく見えていなくても、進む方向さえつかめていれば不安がることはない」と肌感覚で思えるようになりました。
転機となった旅
2008年、私はモンゴルから中東地域へ半年にわたる旅に出ました。山頂を目指す厳しい登山からよりも、風土に根ざした人間の暮らしから何かを得たい、そんな心境になっていたのです。
それで周囲の知り合いに「モンゴルで遊牧民と暮らしてみたい」と話したところ、滞在先を紹介してもらって日本を出発しました。
モンゴルで遊牧民と2カ月ほど暮らした後、シベリア鉄道に乗ってモスクワへ。さらにウクライナ、トルコを経てシリアへ入りパルミラという街ではアブドゥルラティーフという大家族に出会いました。
四方を砂漠に囲まれ100頭のラクダを放牧して暮らす一家の姿はとても魅力的で、それから毎年シリアと日本を行ったり来たりすることになりました。この大家族の12男が2013年に結婚して夫となったラドワンです。
こうして私は風土に根ざして生きる人々と出会う旅を続けながら、多様な世界を表現する写真家を志すことになったのです。
東日本大震災とシリア内戦
その当時、私は東京・八王子の牧場で写真を勉強しながら働いていました。その牧場は比較的働き方が自由で、毎日乳を搾り子牛を世話する酪農生活と取材の両立が可能でした。2011年、東日本大震災の時には、地震のショックで100頭ほどいた牛の一部が国道へ脱走、消防車が出動する騒動となり、牛を牧場に戻すのにてんてこまいした記憶があります。
ちょうどその頃、シリアでも大きな出来事がありました。3月頃、当時中東諸国で広がりを見せていた「アラブの春」がシリアにも波及して民主化デモが起きたのです。アサド政権はこのデモを武力で弾圧、この1件に端を発し、政権崩壊まで10年以上にわたる内戦がシリア各地に広がりました。
私はそれまでシリアに通って砂漠の伝統的な暮らしを取材してきましたが、内戦以降、ラドワンの一家や多くの友人がふるさとを追われ、難民となっていきました。その様子を私の視点で書いたのが、2020年に出版された『人間の土地へ』です。
「ついにその日が来た」
2021年、トルコ南部に避難していたラドワンの父親が亡くなりました。それを知った私は翌年、リスクを承知でアサド政権下のシリアに入りました。危険な取材となり、秘密警察に監視され行動制限も受けました。
でも、家も財産も何もかも失い、難民となって、帰国を切望しながら逝った義父のふるさとが今どうなっているのか。それを自分の目で見て取材しなければ、難民の取材をするうえで点と点がつながらないのではないかという強い思いに突き動かされました。
そして約4年をかけて、ふるさとを失うとは、難民になるとはどういうことかを書き上げたのが最新著『シリアの家族』です。
2024年12月8日、驚くべきことにアサド政権が崩壊しました。イギリスの空港でスマートフォンの電源を入れると「アサド政権崩壊」というニュースが流れてきました。「これは大変なことが起きた!すぐにシリアに向かわなければ」と、日本にいる夫に「一緒にシリアに入りたい」と電話しました。
夫は脱走兵としてシリアを出国していたので、アサド政権下の13年間、国に戻れませんでした。政権崩壊でようやく帰国できる夫とレバノンで落ち合い、私の取材に同行していた息子も一緒にシリアに入って2週間ほど滞在しました。
しばらくは「ついにこの日が来た!」という感激と興奮を現地で人々と共有しました。でも、時間がたつにつれ、アサド政権下でどれだけの人々が理不尽に命を落としていったのかという現実が私にも迫ってきて、喜びや感激が徐々に薄れていったことも事実でした。
それから半年ほど経った2025年5月末から7月初めまで改めてシリア取材に入り、帰国直後に開高健ノンフィクション賞の発表があったのです。
『シリアの家族』受賞の一報を電話で聞いた時、「夢みたい!」という思いと、これまで出会ってきた人々の物語を作品として世に出すことができる喜びが同時に湧き上がりました。ぜひ手にとって読んでいただきたいと思います。
家族の未来
2013年に来日した夫は近々シリアに帰国することになるかもしれません。避難先に離散していた家族や親戚、友人たちがふるさとに戻り、かつての暮らしを取り戻そうとしています。自分もその一人になりたいという夫の思いには、写真家として、彼をずっと取材してきた一人としてすごく共感できます。
でも、まだ情勢が不安定で医療や教育が整っていないシリアに、私と子どもたちが今一緒に行って暮らすことは難しいと思います。自分でも不思議なほど驚きも不安もなく、夫に「そう、いってらっしゃい」という心境にあります。
私たちがこれからどういう形の家族になっていくかはまだ分かりませんが、シリアという土地を通じてこれからもつながり続けると思います。
シリアではまだまだ情勢不安もあるなか、多くの人が希望を持って「ふるさとの復興」という新しい困難な道の第一歩を踏み出そうとしています。私もこれまでと変わらず現場を生きる人々のエピソードを拾い上げて伝える活動を続けていきたいと思っています。
(東京都内にて取材)
(無断転載禁ず)
