自ら幸せを探し、心美しく生きる。年齢を重ねることはちっとも怖くない。
- 山本 陽子さん/女優
- 1942年東京都生まれ。63年、日活第7期ニューフェイスに合格し芸能界入り。翌年『拳銃の歌』でデビュー。テレビ朝日『黒革の手帖』、TBS『白い影』『白い滑走路』等のドラマに出演。『阿修羅のごとく』『8人の女たち』など舞台でも活躍。94年、舞台『おはん』で菊田一夫演劇賞、2006年舞台『いろどり橋』で名古屋演劇ペンクラブ賞を受賞。 最新作は『曽根崎心中』(京都・四條南座/14年7月19日より、東京・江東区文化センター/7月30日より)
一家6人、いつも一緒に仲良く過ごした
兄姉と弟の4人きょうだいで育った私は、その中でも一番おとなしくて中学校くらいまでは人前にあまり出ないような子どもでした。
きょうだいゲンカをしたり、親から叱られたりした記憶はないですね。両親は「これはいけない」とか「こういう遊びをしてはいけない」などとうるさく言うことはありませんでした。割と自由奔放に、のびのび育ったと思います。きょうだい4人は年子(としご)。年齢が近いこともあって今でも皆仲が良いですよ。
私は昭和17年に中野で生まれ、終戦の昭和20年、3歳のときに一家であきる野市に疎開しました。疎開生活のことはあまり覚えていませんが、土の中に掘った階段を降りて防空壕に入った記憶は、なんとなくあります。
当時は遊びといっても、近所の子どもたちが集まって缶蹴りをするくらい。今と違ってモノが何もない時代だったから、何かしら遊びを考え出して庭で遊んでいることが多かったですね。母がたらいと洗濯板でお洗濯をしている周りで遊んだりね。
そうそう、そのころ放し飼いになっていたニワトリに追いかけられたことがあるんですよ!小さかったからニワトリがとっても大きく見えて、怖くて「食べられちゃう!」と思って逃げて、勢い余ってたらいの中に突っ込んだのを覚えています。それ以来、鶏がまったくダメになり、今でも一切食べられません。トラウマですね。
疎開先の家には個室なんてありませんから、皆一緒に川の字に並んで寝ていましたし、お食事は6人そろって、ちゃぶ台でいただいていました。家族とは何でもフランクに話をしていましたね。その後は国分寺に移って、当時のごく普通のサラリーマン家庭に育ちました。
そして、「おとなしい子」がだんだん積極的になってきたのは、高校生になってからでしょうか。
「精神統一にいいから、やってみたら」という兄姉の勧めもあって弓道部に入部。当時は高校に女子部がなかったので先生にお願いして新たに作っていただいて、3人からスタートしたんです。練習は男子と一緒でしたが、自分がやりたいと思って始めたので、全然つらくありませんでした。
責任感が「強さ」を育んだ3年間のOL経験
高校卒業後は就職するか大学に進むかということでしたが、私は進学する気はあまりありませんでした。当時すでに女性の社会進出は始まっていて、さまざまな職種で女性が活躍していました。「いい会社に入って結婚したい」という思いが強かった私は、迷った結果、堅実な証券会社に就職しました。
初任給は昭和38年当時で1万500円。配属は営業部で、主に投資信託を担当しました。
当時、お客さまとのやりとりは電話とお手紙。問い合わせの手紙にお返事を出すわけですが、お金に関わることですから間違いがあると大変なので、毎回課長に検印を押していただくんです。
あるとき、いつものように検印をもらいにいくと「こんな書き方じゃダメだ」と言われたことがありました。それで私、頭にきて、課長の目の前でその手紙をビリビリに破いてしまったんです。「こんなに一生懸命書いたのに、もう少し言い方があるじゃないの!」と。よほど悔しかったんですね。
周りの人たちもビックリしていましたね。もちろん翌日「申し訳ありませんでした」と謝りましたけれど、ものすごく強い女だと思われたんじゃないでしょうか。
働くことはすごく好きで、「仕事はきちんとやりたい」という責任感が出てきたんでしょうね。子どものころのおとなしい性格から、少し気が強くなってきたのはこのころからだと思います。
このOL経験が芸能界に入ってから直接役に立ったかどうかは分かりませんが、会社で働いたことは財産になり、いい経験になったと思います。
当時の職場仲間とはその後も途切れることなく、今でもずっとお付き合いが続いているんですよ。私のお芝居を見に来てくださったり、一緒にお食事に行ったり。新年会や忘年会もあるので、空いているときは必ず出席するようにしています。高校時代のお友達とも、ずっとお付き合いが続いています。
居酒屋でどんちゃん騒ぎをすることもありますし、女性だけのゴルフの会で高級レストランに行くこともあります。
私にとって女優というのは、皆さんがされているお仕事と同じです。仕事を離れれば普通の女だし、一人の人間。いろいろな女優さんがいらっしゃると思いますが、私は仕事が終わったらスイッチを切り替えるタイプですね。だから、芸能界以外の方ともごく自然に、長くお付き合いが続くのだと思います。
長いといえば、〈山本海苔〉のCMも、一つの企業が一人を長期にわたって起用しているということで、2009年にギネスに認定され、今年で48年目に入りました。
今から3代前の社長さんが『七人の孫』というテレビドラマに出ていた私を見てくださって、当時それほど名前が売れていたわけでもなかったのに使ってくださったんです。それがこんなに長く続くなんて、本当にありがたいことですね。
日活ニューフェイスに合格 女優デビュー
OL時代に、知人が私を日活ニューフェイスに応募し合格。芸能界に入ることになって仕事の引き継ぎをして退職しました。
ちょうど3年間OLをやって「違う仕事もしてみたい」と思い始めていた時期だったので、迷いはなかったですね。
デビュー当時はもちろんつらいこともありましたよ。当時の日活は青春映画がいちばん盛んなとき。一緒に入った若い子が主役に抜擢され、私はその映画の中で、喫茶店のお客さんとか、通行人などをやるわけですが、それはつらかったですね。
OL時代よりも収入はよくなりましたが、時間は不規則ですし、何をどうやって次に進めばいいのかさっぱり見えてこなくて「私には芸能界なんて無理なんじゃないか」と悩みました。
また、そのころ、待ち時間に、お喋りに夢中になっていたスターさんの代わりに、名指しで「うるさい!」と、助監督に怒鳴られたこともありました。私はひと言も喋っていないのに…。それが悔しくて、「いつか主役ができるようになったら、絶対言い返してやる!」と思ったことを覚えています。その後、その方が監督になってお仕事でご一緒にしたときに、そのことをお話ししましたけど、まったく覚えていらっしゃらなかったですね(笑)。
でも、そうした「いつかは、いつかは」という思いがあったからこそ、今日まで続けられたという面はあると思います。
1年間、そういうことををやっているうちに、少しずつ状況が変わってきました。名前が最初に出たのは石原裕次郎さんの『赤いハンカチ』という作品。台本には「お手伝いさんB 山本陽子」とあり、初めて役者として5000円のギャラを頂きました。その後いろいろな役がつくようになって今に至っています。
2011年に出演した映画『デンデラ』では、真冬の山形で1カ月半、ものすごい雪の中でロケをしました。
この作品は、浅丘ルリ子さん、倍賞美津子さん、草笛光子さんといった、そうそうたるメンバーが出演しましてね。題材が「姥(うば)捨て」なので、役柄が皆80歳以上。皆、ノーメイクでぼろぼろの衣装をまとって、テントを立てても飛んでしまうような猛吹雪の中を山頂に向かって延々と歩くわけですが、寒さがハンパじゃなかったです。カイロなんていくら張っても効かないくらい。過酷なロケでしたが、本当にいい経験になりました。だって、とてもじゃないですけどプライベートでは絶対に行けないところですし、猛吹雪の中を歩くなんて、仕事でなければできないことですから。この仕事はそういう経験ができるのが魅力ですね。
今、72歳になって80歳を迎えるまで8年。1年1年、自分がどう成長していくのか、すごく楽しみです。これからは年相応の役をやれるようになったらいいなと思います。
おばあさんの役も何回かやってはいるんですが、どこかにまだ、老けきれないというか…。だから、80歳になったら80歳になったなりの、普通の女性の役を演じてみたい。これから、体つきも変わっていくでしょうし、シミやシワを自然に生かせる女優になっていけたらいいなと思っているんです。私、年をとることなんてちっとも怖くないですよ。だって人間、誰だって年をとるのだし、必ず死ぬんですもの。
心美しく生きる
「すてきに年齢を重ねていくための秘訣はなんですか」と聞かれることがありますが、秘訣というよりも、心の持ち方だと思います。
女性というのは何歳になっても「美」を保ちたいもの。年齢を重ねたら重ねたなりの、美しい生き方があります。それは顔かたちやスタイルがどうこうということではなくて、「心美しく生きる」ことだと思います。
生き方は皆、自分で探すしかないんですけど、自分が「いい」と思うスタイルが見つかったら信念を持って貫くこと。そして何歳になっても「幸せ」を感じられる、しなやかな感性を持ち続けることも大事ですね。
幸せって自分の周りにいっぱいあると思いますよ。何を幸せと感じるかは人それぞれ。豪邸に住むこと、宝石を持つこと、旅をすること、おいしいものを食べること…。私は植木の芽が出てきたことにも幸せを感じますし、タンスの中を全部きれいに片付けてスッキリしたときも幸せ。幸せを探していると毎日たくさんすることがあります。体を動かして、いろいろなところに出かけ、アンテナを張り巡らせています。
だから、お休みのときも年がら年中動きっぱなし。ボーっとしているということがないの。それは性格だから仕方ないですね(笑)。だから私、全然ストレスがたまらないんですよ。
美は、生き方全体から出てくるエネルギーのようなもの。「もうダメだ」と思った瞬間に出てこなくなってしまいます。
これからも、常にそういうものを持って生きていきたいですね。
(東京都文京区のホテル椿山荘にて取材)
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