Ms Wendy

2016年8月掲載

猿橋賞を受賞。地道にコツコツ続けてきたことが成果に

一二三 恵美さん/女性科学者

一二三 恵美さん/女性科学者
1964年、山口県生まれ。山口大学医療技術短期大学部・衛生技術学科卒業後、宇部興産株式会社入社、医薬研究部へ。広島県立大学助手・助教授、県立広島大学助教授を経て2007年、大分大学先端医工学研究センター教授となり、2010年より現職(全学研究推進機構教授)。体内に侵入したウイルスなどの病原体をつかまえる抗体を研究。つかまえた病原体を分解する能力を併せ持つ「スーパー抗体酵素」を開発した。2014年、自然科学分野の優れた女性科学者をたたえる「猿橋賞」を授与された。
猿橋賞受賞で研究に確信

2014年に、自然科学の分野における女性科学者に対して贈られる栄誉ある賞・猿橋賞をいただきました。受賞対象となった研究テーマは「機能性タンパク質『スーパー抗体酵素』に関する研究」です。この賞のことは存じておりましたが、今まで受賞された先生方は、皆さんその分野で名前を知らない人がいないような方ばかりでしたので、自分には縁のない賞だと思っておりました。

賞の創設者の猿橋勝子先生は地球科学者で、女性科学者が活躍する道を切り拓いてこられました。受賞者にも「人の役に立つ、社会に貢献する研究を続けなさい」と説いていらっしゃいます。2007年に亡くなられたので、残念ながらお目にかかることはできませんでした。後進の女性科学者を励ますために創設された「女性科学者に明るい未来をの会」の前会長でいらした米沢富美子先生には「女性科学者を広く知っていただくために、人の前に出ることも受賞者のお役目」と言われています(笑)。

普通、賞というのは研究成果に対して与えられるものですが、猿橋賞は「研究業績だけではなくて、受賞をきっかけにさらに10年はがんばりなさい」と先への期待を込めて贈られる賞です。それぞれの研究場所で成果を上げるようにと。だから「50歳未満」という規定があるんです(笑)。

猿橋賞受賞対象のテーマである「スーパー抗体酵素」は、標的のタンパク質を目的通りに攻撃・破壊するという性能を持っています。現在は、インフルエンザなどのウイルスによる感染症の予防および治療薬、さらには抗がん剤としての応用も視野に入れた研究を進めています。

それまでの研究からは想像できない、抗体の軽鎖部分が抗原分子を分解するという全く新しい現象でした。これは、通常からは考えられない抗体の機能だったので、正しいのか間違いなのか、黒白ハッキリさせたいと思って、2年半の年月をかけて粘り強く丁寧に検証しました。何度も実験をくり返し、「間違いない事実である」と確信するようになりましたが、一方で「時間をかけ過ぎている」と感じていました。他の人だったら合理的に早くうまくできたかもしれない、と思っていたので、猿橋賞を頂けたことで、この取り組み方で間違っていなかったのだとホッとしました。

受賞で両親の考えが変化

このような賞を地方の研究者が受賞することはまれなんです。授賞式の後のパーティーでコメントをお願いするとき、司会の方に「なるべく遠方から来られる方にお願いしましょうね」と言われたのですが、お集りくださった方のほとんどが遠方で(笑)。

両親も授賞式に駆けつけてくれました。「こんなに大きな賞を頂けるなんて」と、とても喜んでくれました。でも、2004年に大学婦人協会守田科学研究奨励賞を頂いたときの方が、両親の私の仕事に対する考え方が変わったように思います。授賞式で職場の先生やお世話になった先生方のお話を聞き、雰囲気を体験して「これはもう放っておくしかない」と思ったのでしょう。私が研究にばかり没頭しているため、「結婚しろ、子どもはどうする」とうるさく言っていたのですが、それからは何も言わなくなりました。諦めたのでしょう(笑)。ただただ、仕事を応援してくれるようになりました。

今回の受賞では、両親よりも姪の私を見る目が変わりました(笑)。姪とは実家に帰ったときにしか会いませんし、私は疲れ果てて寝てばかりいるので、“何をやっているのか分からない伯母さん”だったんです。受賞後の報道を通して、彼女なりに私の仕事を理解したようで、「リケジョ(理系女子)がどうの」なんて言い出しました(笑)。

看護師だった母の代わりに家事を担当

母は看護師をしており、私は幼いころは子守さんに預けられていました。3つ違いの妹の出産と同時に母は一旦仕事を辞め家庭に入りましたが、私が小学5年生のとき、仕事に復帰して救急指定病院で働き始めました。最初はパート雇用でしたがすぐに常勤になり、急患が入ると定時には 帰宅できず、休日勤務や当直も担当するようになりました。そのうちオペの補助や内視鏡のサポートにも入るように。

母が仕事に行っている間の家事は私の役目。小学生のときは家庭科の調理実習で習ったものを家でも作ってみたり、近所のスーパーに買い物に行ってみたり。ちょっと大人になったような気分で楽しんでいましたが、思春期に入るころには「もう勘弁してよ!」と(笑)。何しろ試験中だろうが急患は待ってくれませんから。

でも、母はどんなに忙しくても、サラリーマンだった父のために必ずお弁当を作っていました。

母が勤めている病院に行くと、母は休む間もなくくるくる動いていて、座ることすらないんです。それなのに、お昼休みは5分くらいでご飯をかき込んで、近くのスーパーに夕食の買い物に。自分が働くようになって、休憩時間を削って買い物に行くことや、急患で遅く帰宅した翌朝のお弁当作りは、さぞや大変だっただろうとつくづく思います。

医学用語が飛び交う家庭環境の中、自然に医療業界へ

母が勤める病院の先生や看護師さんとは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていて、わが家がファミリーパーティーの会場になっていました。そこでは、会話の中で普通に「オペが」なんて医学用語が飛び交っているんです。そんな中で育ったので、医療を身近に感じていました。

子どものころは家庭科的なことが好きで、手芸などをよくしていました。文系か理系かといったら、断然理系女子(笑)。数学や生物が好きでしたね。でも「いい大学に入っていいところに就職して…」というようなガリ勉タイプではありませんでした。中学の部活は吹奏楽部に入っていて。熱心な先生だったので、練習も厳しかったですよ。

高校生になって進路を考えたとき、女性の仕事として考えつくものがあまりなかったんです。学校の先生か看護師さんか薬剤師さんか。女性が働くには 資格が必要だという強い思いがありました。家庭環境もあってか、自然に医療分野に目が向きました。でも、母を見ていましたから、私には看護師の仕事と家庭の両立は難しいと思い、臨床検査技師を目指しました。

厳しくプロの姿勢を叩き込まれた短大時代

家から近かったこともあり、山口大学医療技術短期大学部の衛生技術学科(現・医学部保健学科)に入学。ここは専門学校から3年制の短大になったばかりで、私の学年は3期生でした。それもあってか、先生方は教育にとてもプライドを持っていらして、燃えていましたね(笑)。タイトなカリキュラムと厳しい実習で、3年間のうちに実に多くのことを教え込まれました。

先生方が常に「命を預かる仕事なのだから、学校を出たら『新人だからできない』は通りませんよ」とおっしゃっていたのが印象的でした。「失敗することは恥ずかしいと思いなさい」と厳しく叩き込まれたものです。「簡単にできないと言ってはいけません。正確にやりなさい」と。今の学生に「失敗しちゃいけない」なんて言ったら「鬼!」と言われますよ(笑)。

手順を覚えるのではなく、理屈を理解してやらないといけない。理屈が分かってやっていると、どうやるのが良いのか絶対ダメなのかが自然と分かってくる。それを積み重ねていくことが当たり前になっていました。実験に取りかかる前に不安材料を取り除いていくと無駄な失敗はなくなり、データの信頼性も高まります。

実習もかなりこなしましたし、レポート提出も多かったですね。先生方はそれも丁寧に見てくださって。後に「あのころは教育中心で、研究なんてできなかったわ」とおっしゃっていました(笑)。

特に微生物学の中澤晶子先生には、卒業後もご指導いただき、本当にお世話になっています。卒業十数年後に突然ご連絡したのに「覚えているわよ」とおっしゃっていただき、うれしかったですね。

企業勤務を経て研究職へ

卒業後は地元の企業の医薬研究所に就職しました。普通なら病院に勤務して検査技師になるところだったのでしょうが、ご縁があって就職することに。ここではカルチャーショックを受けました。地元の人はいないし、東大京大九大卒は当たり前(笑)。しかも大学院卒で。最初は戸惑いましたが、学校で技術を徹底的に叩き込まれたおかげで周囲から信頼される実験データを出すことができました。ところが、ようやく「会社」というものが理解できるようになったころ、研究グループが解散することに。これが転機になって広島県立大学に移りました。

大学に移って3年目に「スーパー抗体酵素」に出合い、生活は一気に不規則になりました。実験結果に「失敗とは異なる不確かさ」があって、そこを明らかにするためにはひたすらデータを積み上げるしかなく、自分の時間を削ることになりました。1つ解決すれば芋づる式に新しい課題や目標が生まれてきます。食事にかまっていられないので、コンビニ弁当を真夜中に買って食べるという生活が習慣になってしまい、体は着実に成長しました(笑)。でも、体力的にはいつもギリギリで、気持ちで引っ張っている感じだったのが正直なところです。「気持ち作戦」が通じなくなったと感じ始めたころに、猿橋賞を頂き、授賞式で共同研究者のお医者さんから「こないな生活を続けると、今はええかもしれませんが、数年後には大変なことになりまっせ」と言われて、生活を改善しました。これ以降、バランスに気をつけながら自炊し、体の声にも耳を傾けるようになりました。

自分のできることをコツコツ続けてきた

うちはごく普通の家庭で、小さいころから用事も言いつけられて育ちましたし、短大を卒業して企業に一度就職して…と、私は研究者としては異質な経歴です。もともと、研究者を目指していたわけではなくて「気付いたら研究者になっていた」という感じなので、いくつで助手になって准教授になって、といった目標はなく、誰かに競り勝とうと思ったこともありませんでした。

研究職を目指す方の多くは大学院に入って修士・博士を終えるので、学術的な知識は豊富で、研究思考も学生生活の中で身に付きます。私には分析技術はあってもそうした知識や研究思考の下地はない。 だからその不足分を補うには趣味だのプライベートだの言ってられなくて、とうとう料理する時間まで削ることに(笑)。忙しいときには週イチに近いペースで徹夜をしていましたね。

私は女性研究者のロールモデルになんてとてもなれませんが、自分のできることを一生懸命にコツコツ続けてきたことを認めていただけたのはうれしいこと。これからの女性科学者の皆さんにも、小さなことにくよくよせず、自分の信じた道をしっかりと見つめて、諦めないで切り拓いていってほしいですね。

(大分大学にて取材)

  • 1歳9カ月のころ。母と

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  • 小学6年生のころ。元旦に、妹、いとこと。右端が一二三恵美さん

    小学6年生のころ。元旦に、妹、いとこと。右端が一二三恵美さん

  • 2000年、スーパー抗体酵素を最初に担当した学生の岡本さんと

  • 2014年猿橋賞受賞。米沢富美子先生と

    2014年猿橋賞受賞。米沢富美子先生と

  • 大分大学での実験の様子。がん細胞の培養

    大分大学での実験の様子。がん細胞の培養

  • 一二三 恵美さん

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