生涯バレエ一筋で生きてきた「バレエの申し子」
- 牧 阿佐美さん/牧阿佐美バレヱ団主宰
- 1934年生まれ、東京都出身。バレエダンサーの橘秋子を母に持つ。幼少時より母にバレエを教わり、54年アメリカへ留学、アレクサンドラ・ダニロワ、イゴール・シュヴェッツォフに師事。56年、母と牧阿佐美バレヱ団を結成。71年、現役を引退し、橘バレヱ学校校長として後進の育成・指導に当たる。99年7月〜2010年8月 新国立劇場舞踊芸術監督、2001年4月〜新国立劇場バレエ研修所所長を務める。1996年紫綬褒章、2004年フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受賞。08年文化功労者に選ばれる。牧阿佐美バレヱ団公演12月17日・18日「くるみ割り人形」文京シビックホールにて。
「お母ちゃん」と「ママちゃん」2人の母
私は、日本バレエ界の草分けといわれる橘秋子と、バレエダンサーで後にインド文化研究家になった牧幹夫との間に生まれました。
小さいころの両親との思い出はありません。文京区小石川(今の白山)にある畳屋さんに小学5年生の終わりまで預けられていたのです。母は26歳で私を生んだのですが、学校の先生からダンサーに転向したばかりで、子育てより踊りを優先したかったのでしょう。
私は育ての母を本当のお母さんだと思い、時々会いにくる実の母のことは「ママちゃん」と呼んでいました。「ママちゃん」という名前だと思っていたのです(笑)。育ての母は穏やかな人で、ずいぶんかわいがってもらいました。怒られた記憶は一度もありません。
4、5歳のとき、実の母が迎えに来て、一度は引き取られたのですが、玄関を開けたところにある太い柱にしがみついて「お母ちゃんはいつ来るの?家に帰る!」と動かなかったそうです。それで困った母がまた畳屋さんに帰したと言っていました。
小学校に上がり、近所の人に「ママちゃんが阿佐美ちゃんの本当のお母さんよね」と聞かされて、ようやく自分の置かれている状況が理解できたのでした。
母子というより師匠と弟子の関係だった
母はバレエの早期教育を提唱していて、私も4歳から母のもとでバレエを学び始めました。
初舞台は同じ4歳のとき。ちょうど父がインドに旅立つ前だったと思います。小石川からお母ちゃんに連れられて発表会に出たのですが、お母ちゃんが舞台衣装のパンツを忘れてしまい、大人用を借りて出たものですから、途中でずり落ちてきちゃって。踊るよりも持ち上げるほうに一生懸命だったみたい(笑)。
母子で共演した初演目は「白鳥の夢」といって、小学6年生だったと思いますが、ショパンのプレリュード「雨だれ」から白鳥をイメージし、私が初めてソロパートを振り付けした作品です。母がそれを気に入り、「白鳥が寝ている間に魔女がやってきて、いろんな夢を見せる」というストーリーをつくってくれたのです。
ただし、母といっても家庭的なにおいはまるでありませんでした。稽古場と自宅が同じで、内弟子さんも何人か一緒に暮らしていたこともあり、稽古が終わっても私にとっては先生のまま。稽古場のすぐ上にある母の部屋に食事を運ぶときも、必ずお辞儀をしてから入らないといけません。
私を特別扱いすると、他のお弟子さんたちの手前、示しがつかないと思ったのでしょう。人前では私とまともに会話すらしませんでした。熱心に教えるのも他のお弟子さんばかり。そのくせ私に悪い虫が寄りつくのは許せないらしく、外出は厳しく禁じられ、たまに出かけるのも内弟子さんと一緒です。
そんな母の態度に、一度だけ「なぜ普通のお母さんのようにしてくれないの?」と食ってかかったことがあります。でも母は「うちにはお弟子さんがたくさんいるから、それはできない」と。本当は母も悩んでいたのです。
けれども最後まで甘い顔は見せてくれませんでしたね。
アメリカ留学を機に牧阿佐美バレヱ団を結成
20歳のとき、アメリカのニューヨークにバレエ留学しました。母は人目を気にして稽古場では私に興味のないふりをしていましたが、心の中では苦しんでいて、信頼できる人に預けたかったのだと思います。
個人レッスンを受けたことのあるアレクサンドラ・ダニロワ先生が引き受けてくださることになり、先生について行ったのです。
アメリカではダニロワ先生の厳しいレッスンを受けるだけでなく、通じない言葉で買い物をしたり、生きていくためにさまざまな交渉をしたりで、1日をこなしていくのに精一杯。最初は留学なんて嫌だと思っていましたが、行ってみればホームシックになる暇もありませんでした。
世界の最先端の踊りを吸収して帰って来られたことも良かったと思います。私より前に海外で学んだ方がほとんどいなかったので、向こうで身に付けたステップを日本バレエ界に還元することができました。
帰国後は、母からも相談を受けるようになりました。オリジナル作品の場合、台本はだいたい母が書くのですが、「ここでこういう意味合いを出したいのだけど、どういうステップがいい?」と聞かれ、私がアイデアを出して、二人三脚で作品をつくり、それを2人で踊るというスタイルができあがりました。
そのうちに、母が「『橘バレヱ団』から、そろそろあなたの名前を冠した『牧阿佐美バレヱ団』にしましょう」と言い出しました。22歳だった私は、まだバレエ団に属する“団員”の1人でいたかった。そこはすごく抵抗したのです。でも「あなたの名前をつけない限り、バレエ団に責任を持たないでしょう」と言われ、覚悟を決めました。
父と30年ぶりの再会 母が遺した最後の言葉
それから約15年間、実質的な団長は母でしたが、2人で古典から現代、オリジナルまで幅広い作品を皆さまに届けてきました。
現役を引退したのは37歳のときです。年齢的にはまだ早かったのですが、母の健康状態が悪くなり、私がバレエ団とバレエ学校を両方見なくてはいけなくなったのです。大勢の生徒さんを教えながら、舞台作品の振り付け、監督をして、公演も成功させなければいけません。そうなると、自分の踊りにまではとても手が回らない。それで引退公演こそしませんでしたが、ダンサーとしては第一線から身を引くことになったのです。
そろそろ引退を考えていた35歳のとき、インドに行ったきりで帰国がかなわなかった父が危篤だという知らせを外務省の方から受け取りました。
父は戦争で一時シンガポールに抑留され、その後インドに戻って領事館で働き、インドの舞踊、建築、絵画など、さまざまな芸術や文化の研究を続けていたようです。
当時、母も医師から余命宣告を受けており、父に会いに行くことは迷いましたが、結局は母の勧めで父の姉と一緒にボンベイまで行きました。
父の顔を見たのは30年ぶり。短い会話でしたが、親子の再会を果たすことができました。しかし、その翌日、面会時間を待ちかねて会いに行くと、父はすでに虫の息で、父の手を握り、「パパ、来ましたよ」と言うと、父はうなずくようにのどぼとけをコクンコクンと動かしたのを最後に逝ってしまいました。
あとで周りの方に聞くと、インドにいる間、ずっと私のことを想っていたそうです。インドの教会に寄付をし続け、「阿佐美は日本の誰かに助けてもらっているはずだから、自分はインドの孤児を助けてあげたい」と言っていたそうです。
母も翌年、亡くなりました。最期に「あなたのこと、ほったらかしてごめんなさい」と言ってくれて、過去の寂しかった想いもすべて消えました。
週5日はレッスン。今もハイヒールをはいて
それから現在に至るまで、バレエ教育に力を注いでいます。プロのバレエダンサーを育てるA.M.ステューデンツ、牧阿佐美バレエ塾も主宰していますが、本物を育てるのはやはり難しい。バレエの基礎は10年かかりますから、早期教育が絶対必要なのですが、今の日本は“積み重ね”を重要視しないところがある。そこは悩みですね。
82歳の今も週に5日は稽古場で教えています。教えるときは5センチくらいのヒール、普段は7~8センチのヒールをはいています。普段からヒールをはいているのは、腰を落とさないようにするため。そうすることで体を真っすぐ保っていられるというのかしら。足の裏が平らになると腰が落ちてあちこち痛くなってきちゃうので、ちょっと高いほうが私の場合は健康のためにもいいようです。
その代わり、食事は昔から好きに食べています。ダンサー時代は美しい体をキープしなければいけませんが、実は立ったときの軸の置き方(腰の位置)によって、食べなくても太ることがあるのです。それをダニロワ先生に教わってから、「太るのも同じ運動、やせるのも同じ運動よ」と生徒さんたちに言っています。
50歳で17歳の年の差結婚
50歳のとき、牧阿佐美バレヱ団のダンサーで、現在は総監督の三谷恭三と結婚しました。結婚はいずれしたいと思っていました。もし離婚したとしても、1回は経験しなくちゃと。
主人はもともと別の先生の門下にいたんです。それがたまたまうちの若手と組んでもらうために稽古にきてもらって、そのまま居ついちゃった(笑)。うちのほうが若い子が多くて、同世代の踊れる男の子もたくさんいたから、ライバル心もあったのかもしれません。
そのうちに何となくお付き合いが始まって。でも相手が17歳年下ということもあり、私の中ではそういうつもりはなかったのです。ところが、彼のほうが早々にご両親に話をしてしまい、心配したご両親がいろいろなつてを使って日本バレエ協会会長だった故・島田先生のところにご相談に行かれたそうです。それをあとから島田先生から聞いたときにはご両親の承諾も得られ、「結婚しようか」となり、私も「ダメでもともと」というつもりで結婚。でも、気がついたら30数年たっていました。
もし大恋愛をしていたら、1、2年で別れていたかもしれませんが、さりげなくお互いに要求した関係だったからか、束縛し合うことなく、自然にここまでくることができました。
バレエ以外の楽しみは異文化交流
ずっとバレエ一筋できた私ですが、ここ10年来、毎月楽しみにしているのが、元文化庁長官の近藤誠一さんが長年続けてこられた私的懇親会「Kサロン」です。
さまざまな文化人、たとえばお能の方、歌舞伎の方、画家、作詞家など、日本を代表する各ジャンルの方々が集まり、毎回、近藤さんが事前に決めた丸テーブルに着席し、お食事をしながら、近藤さんからいただく文化的テーマについて話し合い、最後にテーブルごとに発表する…という趣旨なんです。
そこで知り合った洋画家の絹谷幸二先生には牧阿佐美バレヱ団60周年の記念公演のためにご協力もいただきました。
常に見つめているのはやはりバレエ界。世界共通の芸術を日本が持っていることを国にも自覚していただき、官民一体となってダンサーを育てていく土壌を醸成させていくのが私の生涯の役割だと思っています。
(橘バレヱ学校にて取材)
(無断転載禁ず)