「旦那さまが協力的なんですね」「そんなの当たり前ですよ」
- 相田 美砂子さん/化学者
- 1955年神奈川県生まれ。お茶の水女子大学大学院理学研究科修士課程を修了。理学博士(東京工業大学)。国立がんセンター研究所の研究員を経て、98年から広島大学理学部教授。理論化学の分野でコンピューターシミュレーションを用いて、さまざまな現象の理論的な理解と予測・設計を目指して基礎研究を重ねる。同大学の男女共同参画推進、次世代研究者の育成・支援にも取り組む。2016年から理事・副学長。17年、日本人研究者として4人目となる「IUPAC国際女性化学者賞」を受賞。
父に刷り込まれた私の「当たり前」
横浜市のほぼ中央に位置する、保土ケ谷区に生まれました。
現在、横浜みなとみらい21が有名ですね。海の近くというイメージをお持ちかもしれませんが、保土ケ谷区は起伏にとんだ地形で、私の家は丘の上にあり海は見えませんでした。
父は地元の「横浜銀行」に勤めていました。趣味はラジコン。休日になると部品から飛行機を作り、完成すると飛ばしに行っていました。
私も小学生のころは父と一緒に出掛けていました。父はカメラも趣味で、家に現像部屋がありました。そんな父の姿を見ていた私にとって、「一から作る」「何でも自分でやってみる」ことは「当たり前」として刷り込まれていたように思います。
当時、父は土曜も勤務日で、午前中に仕事を終わらせて午後から家族旅行に行くことがありました。楽しみに待っていると、「1円合わないから帰れない」という連絡が。他の家庭よりも、数字を気にすることが多かったかもしれません。算数や数学は好きでした。
ごく普通の小学生 勉強を始めた中高生
小学生のころは、本当に「ごく普通の子」でした。成績は一番じゃないけど上のほうだったと思います。それが悔しいと思うことなく、無理せず普通に生活していました。中学生になると急激に成績が上がり始めて、自ら勉強し始めました。それでもトップではなかったです。
高校は「横浜平沼高等学校」へ。伝統のある高校だったこと、そして当時の制服のスカートが細かく24枚ひだだったことが決め手です。数字が気になっていますね(笑)。
余談ですが、ピアノは幼稚園から高校2年生まで習っていました。ですが、学校の発表会などで伴奏者に選ばれることはありませんでした。目立たない普通の子だったことを物語っています(笑)。
「自分でやる」大学時代 ついに理論化学の道へ
大学は先生に勧められたこともあり、「国立お茶の水女子大学(以下、お茶の水に省略)」へ。平沼高校同様に伝統ある学校でしたので魅力を感じました。
お茶の水の前身は、国が初めて設立した「女子の教育」のための東京女子高等師範学校。女子高等師範学校の2つめは奈良、あとで知ったことですが、3つめはなんと広島にでき、後に他の多くの前身校とともに広島大学となりました。広島大学の初めての女性教授は、東京女子高等師範学校の理科の出身。縁を感じています。
お茶の水は女子大学ですから、学生は女性しかいません。1から100まで、女性だけでやります。何でも自分でするのが当たり前、それを意識せずにやることができる環境の一つとして、女子大の存在意義はあると思っています。
数学が好きだったのですが、就職の広がりを考えて、周囲から化学科を勧められました。不器用で実験が好きではない私が、化学科でまずやったことは細かいガラス細工と精密な化学天秤の測定でした。「私には合わない」と感じ、実験をやらない理論化学の研究室へ。私が研究している化学は、皆さんが思っているイメージとは異なるかもしれません。試験管やビーカーではなく、計算機を使う化学です。
がん研究センターで研究者として闘う日々
当時、お茶の水にはドクターコース(博士課程)がなく、大学院理学研究科修士課程を修了後、国立がんセンター研究所に研究員として就職。生物物理部の研究室に入りました。当時の部長は、日本で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の研究室出身の永田親義先生。その研究室で理論計算をしていました。1979年4月から98年9月まで、19年半、所属しました。
同センターでは、自分が研究成果を出し、自分で研究費を稼ぎ、自分で論文を書いて研究者として生き残っていかなければなりません。無理せず苦労なくやってきた学生時代から一転、人生での闘いが始まった時期といえるかもしれません。
論文博士制度でドクター(理学博士)を取得し、88年4月から休職してアメリカの世界最大のコンピューターメーカー「IBM」の研究所へ。このとき、子どもが1歳半。外資系に勤めていた夫も休職し、家族3人で3年間、アメリカで過ごしました。アメリカでは定時退社が当たり前ですから、私たちは毎日夕方からボウリング場に。ボウリングでは「町の有名人」でした。田舎町でしたので。家族一緒に過ごす時間を持つことができてよかったです。91年4月、がんセンターに戻りました。
こんな生き方をする私に、ある人が「旦那さまが協力的なんですね」と言いました。私は「当たり前でしょ」と返しました。だって、当たり前のことですから。
広大で男女共同参画 「ブルドーザー」のように
広島大学にきたのは98年10月。計算機と化学を使って、生体分子の構造や反応性を明らかにする研究をしています。
私の転機となったのは、2003年の「ナノテク・バイオ・IT融合教育プログラム」の立ち上げです。年間1億円、5年間という大規模なプロジェクトは、広島大学で初めてのこと。大学の中で新しいプロジェクトを動かすことがいかに大変か、身をもって体験しました。大学に協力してもらおうとしても、どこに相談すればよいかも分からなかったのです。大学改革の必要性をひしひしと感じました。今なら、問題ありません。広島大学には、新しい大きなプロジェクトを大学が支援する仕組みができています。が、当時は、まだでした。
07年、学長交代によって新しい風が吹き始めました。男女共同参画推進室長を打診されたのもこの時。0.1秒ほど考えましたが、覚悟を決めました。そうして、育児などライフイベントでやめてしまう女性研究者が継続できるようにする仕組み、理工農系の女性教員を増やす仕組みづくりに取り組んできました。ある人が私を「ブルドーザーみたいだね」と言いました。やると決めたらダダッと力強くやってしまうのだそうです(笑)。
男女共同参画は究極の大学改革なのです。世の中は男女半々ですが、小学校では女性の先生が多くても校長先生は男性が多い。中学・高校、大学の入学式で壇上にいるのは男性ばっかり。多様性、ダイバーシティとうたわれながらも、結局そうではないのです。それを不思議に思わない若い子たちが社会に出て、生活し、子どもを育てていきます。これでは、いつまでたっても何も変わりません。せめて大学で変えなければと、意識改革を始めたのです。男女を意識することなくやるべきことをやる、それが男女共同参画と思っています。
大学は人材育成の場 数字を活用し意識改革
平行して、広島大学内でのドクター(博士人材)のキャリアスタート支援も始めました。博士号を取得しても職に就けないという問題があったのです。でも、これは一大学で取り組む問題ではないと感じていました。
14年、広島大学が代表で山口大学、徳島大学の3大学が中心となり、中国四国地方のすべての国立大学と企業など56機関と連携。博士人材の長期インターンシップや、積極的な採用を働きかけています。
大学改革というと新しい学部をつくるといったことを思うでしょ。一番必要なのは意識改革。大学は単なる研究機関ではありません。大学の存在意義は、未来を担う人材の育成です。総合研究大学である広島大学がすべきことは何か、「改革のための改革」ではなく、本当に何が必要なのか、しっかりと考えて、必要なことを実行しています。
今、大学では女性の学生が多いので、女性教員も自然に増えていくという見方があります。ですが、文学部は50年前から学部生の5割程度は女性でありながら、女性教員はさほど増えていません。私は学部ごとの女性の学生の割合、教員の中の女性の割合をグラフ化し、女性の教員の採用割合を数値目標にするために必要な手段や重要な数値をはっきりとさせていきました。数字を有効活用することは大の得意ですから。
数字を正しく使い目標に到達する
大学経営においても、現状がぱっと分かるものが必要です。大学経営企画室でさまざまなデータを集約して、AKPI®(10年後の大学がありたい姿を数値化し、そのためにすべきことが分かるもの)と、BKPI®(個人評価ではなく、教員の仕事量が分かるもの)を考案。AKPI®は総合大学としてのバランスをとりながら、世界のトップ100の大学に入るための指標です。とにかく基本は「数字」。数字を正しく出し、都合のいい解釈をしないで、正しく使って目標達成にむけて活用すべき、と考えています。
当たり前のことが当たり前じゃないのはおかしい、それが私の原動力。男女共同参画推進室長として、副学長として、やるべきことを「当たり前」にしてきました。
こうした取り組みが国際的な化学者組織「国際純正・応用化学連合」に評価され、2017年に「IUPAC国際女性化学者賞」を受賞。日本人研究者では4人目です。
大学では自分で考えて行動できる人を育てなければならないと感じています。これからも、ダイバーシティの推進、次世代研究者の育成と大学院生のキャリアスタート支援に力を入れていきます。
(広島大学にて取材)
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