『異邦人』を歌っていたあの頃はさまよえる旅人だった
- 久米 小百合(元 久保田 早紀)さん/音楽宣教師
- 1958年東京生まれ。共立女子短期大学文科卒業。東京バプテスト神学校神学科修了。79〜84年、久保田早紀として音楽活動。85年音楽家・久米大作氏と結婚、久保田早紀としての音楽活動を引退。以後は主にキリスト教会やミッションスクールを中心に教会音楽家として、音・言葉・絵画を組み合わせたスタイルのチャペルコンサートを行っている。2007年〜10年、日本聖書協会の親善大使を務める。ワールドビジョン・アソシエイトアーティスト。ワーシップ!ジャパン講師。日本オリーブオイルソムリエ協会認定オリーブオイルジュニアソムリエ。
音楽あふれる環境で
父と母と祖母と一人娘の私、4人家族で育ちました。父は通訳出身で、英語でずっと仕事をしてきた人。アコーディオンが好きで、イタリア製のアコーディオンでアルゼンチンタンゴをよく弾いていたのを覚えています。
私には5歳のときに、未熟児で生まれて10日で亡くなった弟がいました。母は、女の子が生まれたらピアノ、男の子が生まれたらバイオリンを習わせると決めていたようで、自分では覚えていませんが、4、5歳のころからピアノを習い始めました。
母は映画も好きで、よく映画館に一緒に連れて行ってくれました。最近、ふと当時の映画をもう一度見たいと思うようになり、時間のあるときに家で名画のDVDを見るのが楽しみになっています。
祖母は三味線と日本舞踊が趣味だったので、昔からの習わしどおり「6歳の6月6日」から日舞のお稽古をさせられました。本当はイヤだったのですが(笑)、小学校の間は続けました。今は踊りはやっていませんが、所作が少し分かるので、歌舞伎を見るときに役に立ちます。
小さいころから勉強はあまり得意ではなく、良い成績が付いたのは音楽と体育くらいでしたね。ずっと健康優良児で運動会ではリレーの選手。どちらかというと活発な子だったと思います。
中学2年のとき、当時大流行したフォーク・グループ「ガロ」が好きな男子が集まって作ったバンドに誘われ、彼らのボーカル伴奏をするようになりました。自分が歌ったのは友達の詞に曲をつけたオリジナル曲。なんちゃってシンガーソングライター気取りで、文化祭で一度だけ歌いました。楽しかった思い出です。小さいころから音楽には日常的に接して育ちました。
原曲が生まれ変わって『異邦人』に
デビューのきっかけは短大1年のとき。母が見つけてくれたCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の「ミス・セブンティーンコンテスト」への応募でした。募集要項に「自作自演可」とあったので、あまり後先を考えずにカセットテープと楽譜を送って。当時はヤマハのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)がプロへの登竜門でしたが、ひとりで挑戦する勇気はなかったんですよね。
応募したのは短大生の失恋ソングみたいなごくありがちなニューミュージックでしたが、そのときに「デビューの約束はできないけれど、4年制大学に行ったと思って一緒に曲作りをしませんか?」とディレクターさんから声をかけていただきました。
それで、デビューまでの2年間、当時市ヶ谷にあったCBSソニーへ週1回くらいのペースで通いました。プロに曲を見てもらえて、録音スタジオにも連れて行ってもらいました。それは素人の私にとって、授業料のかからない専門学校に行っているようなもので、得がたい勉強期間でした。
そのディレクターの上司に当たるプロデューサーの方が、たまたま後に『異邦人』の原型になる私の曲を耳にされてCMに使うことを提案されたようでした。スポンサーの三洋電機の広報の方も、その原曲を気に入ってくださったそうです。
当時はジュディ・オングさんの『魅せられて』、庄野真代さんの『飛んでイスタンブール』、NHK特集『シルクロード』の喜多郎さんのテーマソングなどオリエンタルな雰囲気の音楽が大ブーム。
私の『白い朝』という平凡なタイトルの原曲はプロのアレンジによって『異邦人』というエキゾチックな中東風の曲に生まれ変わりました。「プロの仕事というのは、こういうものか!」と、本当にびっくりしました。今の言葉でいえば、「え?マジまんじ?」という感じです(笑)。
胸のつかえがストンと下りた
その後、私は「久保田早紀」として歌手デビューしたのですが、テレビは私にとって見るものであって出るものではありませんでした。歌うことは決してイヤではないのですが、テレビカメラの前で歌ったり喋ったりすることにずっと苦手意識がありました。
スタジオワークはすごく楽しかったので「曲を作るだけの仕事ならいいのに…」といつも思っていました。ボタンを掛け違えてしまったような、何かすっきりしないもやもや感がいつもあって、だんだん「自分の音楽のルーツって何なんだろう?」と悩むようになってしまって。
そのころ、小さいときに近くの教会で歌ったり聖書のはなしを聞いたりしていたことを思い出しました。それで「そうだ、もう一度教会に行ってみよう」と、久しぶりに教会に行ってみたのです。すると「私の音楽のルーツはここにあった!」と分かったんですね。胸のつかえがストンと下りて、とてもすっきりしました。
プロテスタントの洗礼を受けたのはデビューから1年半後くらいの時でした。このときにクリスチャンになったことが、私が芸能界に入って一番よかったことです。
久保田早紀としてデビューしていなければ、音楽のルーツについて突き詰めて考えることも、今の仕事(音楽宣教師)に就くこともなかったと思いますから。
39歳の「こうれいさん」
26歳で結婚を機に芸能界を引退しましたが、12年間は子どもを授かりませんでした。妊娠が分かったのが38歳。半ばあきらめかけていたので本当にありがたいことだと感謝しました。
当時はちょうど安室ちゃんが出産したころで「ヤンママ」ブームの真っ只中。周りの若いお母さんに交じって入院していた病院である時、看護師さんが私のことを名前ではなく、「○号室の高齢(こうれい)さんがね…」と話していたのを耳にしてしまって(笑)。35歳過ぎのいわゆる高齢出産が少なかった「時代」を感じますね。
音楽宣教師という天職を得て
芸能界を引退してから30年以上ずっと「音楽宣教師」として活動しています。音楽を通じてキリスト教の福音や聖書の教えをお伝えしています。
東京・三鷹にあるバプテスト教会のメンバーになっていますが、お声がかかれば全国あちこち出かけて行きますよ。
チャリティーコンサートや朗読会、オリーブオイルジュニアソムリエの資格を生かしてカフェやイベントでオリーブオイル講座を開くこともあります。
オリーブオイルといえばおススメなのが納豆に小さじ1杯のオリーブオイル!おいしくてヘルシーです。ジャムに小さじ1杯をとろりとかけてパンに塗れば前菜っぽくなりますし、クリームチーズに少量のオリーブオイルを合わせてもすごくおいしくいただけます。
「東北応援団 LOVE EAST」
2011年に「東北応援団 LOVE EAST」を立ち上げ教派を超えたクリスチャン仲間と一緒に東北支援の活動をしています。きっかけは一通の手紙でした。
聖書を出版し頒布する「日本聖書協会」という団体があります。英国発祥の世界的組織ですが、その親善大使を2007年から2010年まで務めたときには、子ども向けの聖書やアニメ版の朗読録音などいろいろな奉仕活動をさせていただきました。
その翌年の2011年に震災が起きたのです。すると岩手県大船渡市にお住まいのクリスチャンの方から聖書協会にお手紙が届きました。その方は妹さん夫婦が津波で流され、残された小学生のお子さん2人を預かることになった。そういう災害遺児が現地にはたくさんいるということを伝えたいとお手紙をくださったのです。
聖書協会を通じてそのお手紙を受け取ったとき、「自分一人では何もできないかもしれない。でも、みんなが集まったら何かできるかもしれない」と思いました。当時私たちは「被災地のために何かしたいけれど何もできなくてそれがふがいなくてつらい」と私も含めみんな思っていましたから。
それでゴスペルの作曲法などを教えていた「ゴスペル音楽院」の校長先生や講師仲間に頼んで、「東北応援団 LOVE EAST」を立ち上げたのです。もちろん、お手紙を頂いた方とはその後ずっと交流が続いています。
コンサートはもちろん、今年の4月にはピアノがなくてもできるイベントということで、釜石で「オリーブオイル講座」も開きました。仮設や復興住宅にお住まいの方々が70人くらい集まってくださって大盛況!やっぱり試飲や試食は楽しいですよね。
「大きなことはできないかもしれないけれど、決して忘れない」という活動を地道にこれからも続けていきたいですね。
神様が許してくださる限り
指が動く限り弾き語りはできますし、声が出れば話すことも歌うこともできます。あと10年できるかどうか分かりませんが、神様が許してくださる間は音楽宣教師の活動を続けていきたいと思っています。
私が一番好きな聖書の言葉に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」という一節があります。「喜んで、祈って、感謝しよう」これは宗教を超えて人間が幸福になる秘訣だと思います。
とはいっても、簡単そうにみえて実行するのはなかなか大変です。私もついブツブツグチを言ってしまうことがあります。でも、心はできるだけ喜んでいたほうがいいですし、グチをこぼすなら祈った方がいい。そして「ありがとう」は人を元気にします。
感謝の言葉や笑いに免疫力を上げる力があるということは、医学的な面からもいわれるようになってきましたよね。
「喜んで・祈って・感謝する」この言葉を読者の皆様にプレゼントさせていただきたいと思います。
(東京都内淀橋教会にて取材)
(無断転載禁ず)