最後の曲と挑んだ『他人の関係』 「バンバンババンバン」と大ヒット
- 金井 克子さん/歌手
- 1945年、中華民国・天津生まれ。53年、西野バレエ団に入団。59年、芸能界デビュー。62年、レコードデビュー。64年からNHK『歌のグランド・ショー』に出演。その後、由美かおるらと西野バレエ団のダンスグループ「レ・ガールズ」を結成。歌って踊れるアイドルグループとして人気者に。73年、『他人の関係』がミリオンセラーを記録。2017年、18年とTheレビュー『カーテンコールをもう一度!』に出演。往年の名曲とダンスでまぶしい青春を再現した。今年、芸能生活60周年を迎えた。
第1次バレエブームに 西野バレエ団へ
終戦の年に中華民国・天津で生まれ、終戦後に一家で引き揚げてきて、大阪府岸和田市で育ちました。私は5人きょうだいの末っ子。一番上の姉は16歳上で、兄が2人、すぐ上の姉とは7歳違いです。当時、父は繊維会社に勤めていて、家族7人の社宅暮らし。2番目の兄がわんぱくで、社宅のプールに落とされて溺れそうになり、今でも水が苦手です(笑)。
クラシックバレエを始めたのは8歳のころ。オペラ好きな長姉がバレエの発表会に連れていってくれ、フランス人形のような衣装を着て踊る姿を見て、かわいいな、きれいだなと思ったのがきっかけです。その発表会にはたくさんのバレエ団が出演していたのですが、「ここに入りたい!」と感じたのが西野バレエ団でした。
戦後すぐは日本も大変でしたが、徐々にゆとりが出てきて、そのころは第1次バレエブーム。同じ年頃の小学生の女の子が50人ぐらいはいたでしょうか。バーを持って立つと、前の子の髪の毛が当たりそうなほどでした。
それが1年後には半分になり、2年後はその半分に。中学生で舞台デビューするころには3人しか残っていませんでした。私は西野バレエ団に残り、一人は宝塚歌劇団へ、一人は松竹歌劇団に入りました。
バレエ番組でスカウト 中学生で芸能界へ
そのままバレリーナを目指していた私でしたが、昭和34年、その後の人生を大きく変える出来事が起こりました。
皇太子明仁親王(現天皇陛下)と正田美智子さん(現皇后陛下)のご成婚を祝う記念テレビ番組『バレエ劇場』で主役を務めた14歳の私に、番組を見た他局のプロデューサーが「歌番組で、歌と歌の間に踊ってくれませんか?」と声をかけてきたのです。西野バレエ団の西野皓三先生も応援してくださるということで、バレエ団員として初めて、芸能界の仕事をすることになりました。
最初は踊り手として出演していましたが、そのうちに曲紹介をするようになり、歌を歌うようになり、どんどん出番が増えていきました。その後は、ドラマも、映画もと、話が舞い込み、バレエをやりながら芸能活動をこなす日々が始まりました。
16歳の万能タレント 寝る間もない忙しさ
大阪の高校に通っていたころ、『夢であいましょう』というNHKの音楽バラエティー番組の準レギュラーをいただき、それと並行してドラマ撮影が始まると、寝る時間もほとんどとれないほどの忙しさになりました。
学校へ行き、午前中の授業だけ出て早退。午後からは飛行機で東京へ行って、ドラマの本読み、収録、音楽番組の生放送。当時運航していた「ムーンライト」という夜中に飛ぶ飛行機で、朝方、家に帰り、仮眠してまた学校へ行く日々でした。
その間、バレエのレッスンもあり、上野の文化会館で『オンディーヌ』の主役を踊ることもありましたから、学校とバレエと仕事に追われる毎日で、とにかくこなすだけで精一杯。何かを楽しむ余裕はありませんでした。
ソロ歌手でデビュー 変わる路線に戸惑い
そのころ、「レコードを出しませんか?」という話がバレエ団にきて、ソロ歌手としてデビュー。私の本業はあくまで踊りだと思っていたのですが、もはや流れに逆らうことはできませんでした。
高校を卒業し、本格的な歌謡曲番組の先駆けとなった『歌のグランド・ショー』(NHK)のレギュラーに抜擢されたのを機に上京。
まだ娯楽の少ない時代でしたから、ものすごい視聴率で、当時の大スターが一堂に会する国民的な番組になりました。テレビに出ている私を見て、西野バレエ団に入ってきた後輩の由美かおるさん、奈美悦子さんらと「レ・ガールズ」というダンスグループを結成した時期もありました。
しかし、実際のところ、歌手活動は思った以上に大変でした。レコードを出すたびに地方へキャンペーンに行き、レコード店の前でミカン箱に乗って歌うのがその時代の習わしだったのですが、私はそれを知らず、マネージャーもいない中、とても心細い思いをしました。おまけに歌もなかなかヒットしなくて…。バレリーナになりたいのにミカン箱の上で歌っている自分を、情けなく感じていきました。
これが最後の曲… 『他人の関係』がヒット
レコードが当たらないのにどんどん歌の方向に進んでいく状況に耐えられなくなった私は、知り合いが所属するバレエカンパニーでレッスンを受けるため、単身ニューヨークへ渡りました。
久しぶりに思う存分踊っていると、やはり楽しい。このままニューヨークに留まって、ダンサーに戻ろうかと心が揺れました。でも、結局“金井克子”の名前を捨てられなかった。日本へ戻り、「次の曲を最後にしよう」と決意して臨んだのが『他人の関係』です。それが大ヒットし、今の自分がいるのですから、人生は本当にわからないものですね。
レコードを出すにあたっては、制作会議で「ショッキングな歌詞なので、顔の表情や声を詞に合わせると生々しくなってしまう」「ならば反対に感情をまったく入れずに、人工的な歌い方にしたらどうか?」と話し合われ、振り付けも極力抑える方向になりました。それで出来上がったのが、あの「バンバンババンバン」の硬質な手の振りでした。でも、それがかえってよかったのかもしれません。
あの当時は、日本中、大人も子どももみんなあの振りをやっていました。それが飛行機のCAさんが非常口を指し示すときのポーズとそっくりで、CAさんが手を出すたびに、客席から「バンバンババンバン」と声が上がるものだから、とても恥ずかしい思いをしたと聞きました(笑)。
37歳で歯科医と結婚 パキスタンで結婚式
結婚したのは37歳です。親戚の一人が歯科医で、「ジープでサハラ砂漠を旅するような、ちょっと変わった仕事仲間がいるんだけど、大阪で仕事があるときにご飯でもごちそうになったら?」と今の主人を紹介され、その後、たびたび食事をする仲になったのです。ときには「東京と大阪の中間地点で落ち合おう」と、名古屋まで出向いてご飯を食べることもありました。かといってお互い結婚願望はなく、まさか結婚することになるとは思いませんでした。
あるとき、「床の間に飾っておきますので、どうですか?」と言われてびっくり。でも、この人なら大事にしてくれそうだなと、心を決めました。
結婚式は彼のいとこが住むパキスタンで。私たちはジーンズでもいいと思っていたのですが、あちらの伝統様式にのっとって、私はゴージャスなサリーを着せてもらい、彼は白いターバンを巻き、ゾウに乗って私を迎えにやってきて。今、思い出しても楽しい気分になれる素敵なセレモニーでした。
あれから30数年、大阪の自宅にいるときは、普通の主婦の生活です。主人は今も歯科医として働いており、毎月、給料を袋に入れて「銀行振込だと味気ないから」と手渡してくれます。ゴルフが趣味で、早朝に家を出ることが多いので、夜の9時には寝てしまいます。私が仕事で東京にいて、夜、電話しても出てくれません(笑)。
計200歳の3人でレビューショー
今、この年齢になってもダンスのレッスンをすることが大好き。ライブの前は1日5時間。だんだん体力がなくなってきますが、少しでもキープして、好きなことを続けられればと思ってやっていたところ、中尾ミエさんから「一緒に舞台でレビューショーをやらない?」と、うれしいお誘いをいただきました。
ミュージカル出身の前田美波里さんと、ダンスを専門にやっていた私、そして、タップも器用にこなす中尾ミエさん。年齢を足したら200歳オーバーの3人ですが、昔から飽きもせずにずっと歌い、踊ってきた仲間たちとの共演は、本当に楽しかったですね。
これが最後かもしれないから挑戦してみようと、夢中でやりました。
若さの秘訣は年齢に抵抗すること
同世代のみなさんにお伝えしたいのは、「年齢に抵抗すること」です。
よく“自然体で”と言いますが、なすがままにしていたら、背骨が詰まって、身長も縮んでいくし、腰痛も出てきます。そうならないためには、重力に逆らって、できるだけ背筋を伸ばすことも大切ですし、腹筋も使わないといけません。信号待ちのわずかな時間でも、気がついたら腹筋にクッと力を入れてお腹を引っ込めてみてください。体をできるだけ動かす努力をしていれば、やった分だけ体も応えてくれるはずです。
体も気持ちも、もちろんおしゃれも、“年相応”より2〜3歳は若い自分をイメージして。お互い、前向きに人生をエンジョイしていきましょう。
(東京都六本木の国際文化会館にて取材)
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