「何でも楽しんでやってごらん」希林さんの声、今も
- 浅田 美代子さん/女優
- 1956年東京都生まれ。73年、テレビドラマ『時間ですよ』の新人オーディション約25,000名の中から選ばれ芸能界入り。デビュー曲(同ドラマ挿入歌)『赤い風船』で第15回日本レコード大賞新人賞を受賞。映画『あした輝く』(74)で初主演。『釣りバカ日誌』シリーズ(94〜2009)では15年間、主役の妻を演じ好評を博す。『エリカ38』(19)で45年ぶりに映画主演。樹木希林さんが浅田さんのために企画し自身も出演、遺作となったことでも知られる。最新出演作の河瀨直美監督『朝が来る』は近日公開予定。 ヘアメイク:新井克英(e.a.t...)
小学校受験で反抗 不合格の理由
私は東京都港区の出身です。家族は両親と弟。父は麻布で祖父の代から続く自動車修理工場を経営していました。幼い頃から洋服が大好きで、デパートに行くと飽きずに洋服売り場を眺めていたそうです。洋裁が得意な母につくってもらうことも多く、雑誌を見ながら「あれがいい」「これがいい」と、おねだりした思い出があります。
自宅から歩いて行ける場所に東京女学館があり、両親が「女の子には受験の苦労をさせたくない」と、小学校受験をさせられました。でも、近所の友達と別れるのが嫌で、面接で名前を聞かれ、「ない。ママ、帰ろう!」と言ってしまったのです。「あれだけ練習したのに!」と、帰り道にずいぶん怒られました。不合格の通知をもらい、また怒られて、足踏みミシンの下に隠れたのを今も覚えています。その後、中学校でもう一度受験して東京女学館に入り、そのまま高校に進みました。
16歳で芸能界入り 「偉そうにするな」が母の口ぐせ
ところが、16歳のときスカウトされ、人生が大きく変わります。ドラマ『時間ですよ』のオーディションを受けることになったものの、両親は猛反対。でも、2万5000人が受けると聞いて、受かるはずがないと。「落ちたらもう二度と言わない約束よ」と受けたところ、まさかの合格。芸能活動禁止の学校に知られたら即退学です。翌日には新聞に発表されるため、自主中退したほうがいいと、その足で母と学校へ行き、退学届けを出しました。
最終的に味方をしてくれるのはいつも母。ただ、「偉そうにするな」とよく言われました。「芸能人だからって、特別でも何でもない。少しでもそういう態度をするなら、今すぐ仕事を辞めなさい」と。それは母からもらった大事な教えです。
芸能界の母、樹木希林さんとの出会い
デビュー作の『時間ですよ』で樹木希林さんにお会いして、最初は「変わった人だな」と思ったのですが、いつの間にか金魚のフンのようにくっついていました。週5日撮影があり、お昼ご飯も夜ご飯も一緒。演出家の久世光彦さんとも仲良しで、3人でよく食事に行きました。「私が真ん中!」と2人の間に入って、腕を組んで。それはすごく印象に残っています。
ドラマの舞台が銭湯で、私はお手伝いさん役でした。目の前に裸の人がたくさんいて、恥ずかしくて目をそらしていると、希林さんに「あんたは従業員なんだから、堂々と見てなきゃダメなの」と注意されたこともよく覚えています。
続く『寺内貫太郎一家』でもご一緒し、お芝居の間合いや台本の読み方など、役者としての基本を一から教えていただきました。
内田裕也・樹木希林夫婦が両親を説得
その後、21歳で吉田拓郎さんと結婚。またもや両親は私の結婚に大反対でしたが、説得してくれたのが希林さんです。
付き合っている頃から心配してくれていて、ご夫婦で吉田さんがよく飲んでいた原宿のお店まで行って、裕也さんが「どういうつもりで付き合っているんだ?」と問い詰めたそうです。
すると「本気です」ということで、「あとは任せておけ」と、お二人で家にいらっしゃって、希林さんが大反対の母親を説得してくれました。
あのとき私は芸能界を引退するかどうか、少し迷っていたのです。でもその時に希林さんに言われたのは、「主婦っていう仕事はね、お給料も出ないし、点数にもならないし、誰に褒められるわけじゃないの。だけどね、すごい仕事なんだよ。これがちゃんとできたらどんな仕事だってできるのよ」と、それを聞いてスッキリして一度専業主婦に徹しようと思ったのです。
実母と芸能界の母 3人で過ごした最後の時
私が結婚し、弟が大学に入ったあと、両親が離婚。母が強かったのは「子どもたちの世話にはなりたくない」と、50代で自分で仕事を探し、いきなり正社員になったことです。還暦を過ぎて「もういいんじゃない?一緒に住もう」と同居を始めました。
その後、68歳で急性リンパ性白血病を発症。医師から「治療しなかったら余命1カ月」と言われたのに、2年間がんばってくれました。抗がん剤でのつらい闘病生活だったでしょうが、2人で一緒にいる時間や、私が覚悟を持つ時間を与えるために生きてくれたのだと感じます。最後まで弱音も一切吐かなかった。そんな母には感謝しかありません。
母と希林さんの気が合ったのも、私にとってはうれしかったですね。入院先の病院にもよく来てくれました。母が亡くなったあと、墓石に刻む文字も「頼んだら高いから、私が書くわ」と、「南無妙法蓮華経」を筆書きしてくれました。いずれは私も、同じお墓に入るつもりです。
愛犬たちが母の死の喪失感から救ってくれた
それでも母を亡くした喪失感は大きく、引きこもりになりそうだった私を救ってくれたのが、当時飼っていた2匹の愛犬です。
どんなに気落ちしていても、この子たちの面倒をみるのは私しかいません。散歩に連れていくために毎日外出するうち、「ああ、春が近づいてきたんだな」なんて、季節の変わり目に気づいて、少しずつ自分を取り戻すことができました。
そのうちの1匹が17歳で亡くなったとき、ボランティア団体から保護犬を1匹引き取り、里親になりました。ペットの殺処分の問題や悪徳ブリーダーの存在は知っていましたが、自分が犬に支えられ、元気になったからこそ、今度は私が犬たちに何か恩返しをしたいと思ったのです。
引き取った犬は最初はケージの隅で小さくなったまま出てこようとしませんでした。でも、だんだん心を開いてくれ、1年も経たずになついてくれるようになった姿を見て感動。ほかにも劣悪な環境で暮らす子たちが大勢いると思うと居ても立ってもいられず、動物愛護活動にハマっていきました。
今は4匹の保護犬と一緒に暮らしています。ペットショップへ行く前に、保護犬を飼うという選択を知ってほしい。
講演活動やレスキュー、小中学生に命の大切さを伝える「いのちの教室」などの活動を行っています。
「役を積む」ことの難しさを再び体験
助けられる命をつないで幸せになってほしいという願いは、人間も動物も同じです。
奇しくも、河瀨直美監督の『朝が来る』という映画に、実の子どもに恵まれなかった夫婦と、実の子を育てることができなかった少女を「特別養子縁組制度」でつなぐNPO法人代表の役で出演しています。
河瀨監督の作品は2度目。前回は『あん』という映画で、主演の希林さんが監督に引き合わせてくださって、出演が決まりました。実は、河瀨監督は同じ俳優をほぼ使わないことで知られています。この2度目のオファーは、もしかすると希林さんが天国から「河瀨さん、美代ちゃんがいるよ」と、声をかけてくれたのかもしれません(笑)。
監督の映画づくりは特殊で、芝居をしていると怒られます。その人そのものにならないとダメなのです。監督はそれを「役を積む」と言うのですが、私は広島県のある島に住んでいる設定だったので、撮影の1週間前からその場所でその人として生活するところからスタートしました。
撮影現場でもお互いを役名で呼び合い、カメラが回っていなくてもその人でいなければならず、とても緊張感のある日々でした。でも、この緊張こそが大事で、慣れた芝居をしてはいけないと、身が引き締まるのです。もちろんほかの作品でも「その人になりきっているつもり」ですが、河瀨作品に出ると、「もっともっとやらなきゃ」と思える。今回、私を思い出してくださって、本当にありがたかったです。
「美代ちゃん、何でも楽しんでやってごらん」
そして、監督とのご縁を結んでくれた希林さん。最後まで私のことを気にかけてくださり、希林さんが手がけた最初で最後の企画で、私に45年ぶりの主演作『エリカ38』を遺してくれた。まさかあんなことまで考えてくれていたなんて、思ってもみませんでした。役者として、少しずつでも恩返ししていかないといけないと感じています。
希林さんからもらった言葉でずっと大切にしているのは「美代ちゃん、何でも楽しんでやってごらん」。気の進まないことも、どうしたら楽しめるか考えなさいと。あの人はあまり好きじゃないと決めつけず、自分との違いを面白がるとかね。何でも楽しめる自分がいれば、人生は充実するのだからと何度も言われてきました。ふと気づいたとき、「希林さんなら何て言うかな」と思いながら、毎日を過ごしています。
(東京都港区にあるスタジオにて取材)
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