誤解されても、自分に正直に生きてきた 乳がん公表は「誰かの希望になれたら」
- 梅宮 アンナさん/ファッションモデル、タレント
- 1972年8月20日生まれ、東京都出身。父は俳優の梅宮辰夫、元アメリカ人モデルの梅宮クラウディアを母にもつハーフ。1992年、スカウトをきっかけに芸能活動を始め、人気女性誌『JJ』のレギュラーモデルに。テレビ番組やドラマ出演など、活動の幅を広げる。2002年、長女を出産。2024年8月、乳がんに罹患したことを公表し、SNSやインタビューを通して自身の経験を積極的に発信している。2025年5月、アートディレクターの世継恭規氏と結婚。
父の仕事場で大人に囲まれて育った
東京都渋谷区で生まれ、松濤で育ちました。ないものねだりですが、小学校の父親参観日にネクタイをして来るお父さんに憧れました。小さい頃はよく父親の仕事に連れて行ってもらい、『前略おふくろ様』の現場では、川谷拓三さんや坂口良子さん…そうそうたる俳優の方々に遊んでもらいましたし、桃井かおりさんには口紅の塗り方を教わりました。かわいがってくれる大人の中で育ったからか、同じ年頃の子といると疲れちゃうところがありました。
少しだけアメリカンスクールに通いましたがふさぎがちになり、日本の幼稚園に編入。近所の子たちに石を投げられ、「やーい外人」と言われたこともあります。この顔で英語が喋れないことは、のちのちコンプレックスになりました。今でも、人が私を見る目には違和感があります。パーティー好きの上から目線の女に見られるけど、実際の私は、仕事が終わったらすぐ帰り、Netflixを見て幸せを感じている女。真逆のイメージを持たれることは寂しいけれど、「誤解しないでよ」という気持ちは半分で、残りの半分は、心を閉ざしてきました。そうしないと、やっていられないから。ひとりっ子で、親の意見には絶対服従で…。小さいときから私は、どこか寂しかったと思います。
自分で選ぶことが好き 15歳の決断が転機に
うちは厳格で、門限が18時。「パパ、待ち合わせ時間と間違ってるんじゃないの?」と(笑)。小中は一貫校に通っていましたが、どうしても学校の規則や校風が合わず。「校則は、先生たちにとって楽なだけですよね」と言い放ったこともあります。私にとって、かっこよくおしゃれに服を着たいという思いは、小さいときから大事にしていたもの。だからこそ、この学校を“辞めないといけない”と思いました。一生に一度の人生を、ここで過ごすわけにはいかないって。
学校を辞めて半年ぐらいたった頃、やっぱり学校に行かないとな、と思い、渋谷のスクランブル交差点で女子高生を見ながら、どこの制服がいいかを考えました。目に留まったのが東横学園。東京23区から出たことのなかった私ですが、すぐに大倉山まで見学に行きました。すでに東京にはいなかった不良少女っぽい人たちもいて、すごく新鮮で。翌年に受験し、クラスのみんなとは年齢が一つ違ったけれど本当に楽しかったし、いい先生にも出会えました。結局、自分で選んだものって楽しいんですよ。「自分で見つけて、自分で選ぶ」ということが、私は好きなんだなと、15歳で発見しました。それが私の転機です。
ファッションモデルへ 洋服を表現する仕事
当時の渋谷はスカウトマンが多く、毎日30枚くらい名刺を渡されました。父からは、「何かあればこれを出しなさい」と、「梅宮辰夫」という名刺を持たせられるように(笑)。
その中で、スターダストプロモーションから毎日電話がかかってくるようになり、洋服が好きだし、モデルをやろうかなと思うように。所属の手続きのために父を連れて行ったら、想像通りの反応でした(笑)。父からは、「乗った船、途中で降りるなよ」と言われたことを覚えています。
私は当時のはやりの顔ではありませんでしたが、私物紹介のページで人気が出るようになり、表紙になるまでそんなに時間はかかりませんでした。モデルの仕事は楽しかったです。極寒の2月に夏服を着たりと体力勝負でしたが、苦痛だと思ったことはありません。そして『JJ』は、服を売るための本。服を渡された瞬間に、服の特徴とストーリーをつかみ、どう見せたらみんなが着たいと思うかを、誰に教わるでもなく考えるようになりました。サングラスをかけるモデルも、当時は少なかったと思います。服や小物だけじゃなく、誌面のレイアウトにもこだわりました。
名前が売れていくとテレビの仕事も来ましたが、やっぱり、洋服を表現する仕事が私は好きなんですよね。
結婚、出産、離婚 屈辱もいい経験に
27〜8歳の頃、子どもが欲しいと思うように。29歳で出産しましたが、会社は困っていました。私たちは商品。仕事の契約があり、結婚も離婚も好きなようにはできません。それが、大きなお金をもらう代償だと分かってはいますが…。妊娠したときも、誰にも喜んでもらえず、母からも「諦めなさい」と言われました。「どんなに反対されようが産みます」と、覚悟の上での出産でした。
30歳のときに離婚し、仕事も激減。別の人が表紙を飾っているのを見て、嫌な気持ちになる自分が嫌で、コンビニに行けませんでした。それを誰にも言えないのもつらかった。でも、大きいお金をもらうために自分を殺すのは違うと思い、お世話になった事務所を退所することにしました。
ある雑誌の人に言われたんです。「結婚すれば、また表紙をやれるよ」と。要は、結婚して出産し、旦那さん自慢をする、全てをつかんだ人が表紙になれる世界。離婚した人間はいらないんです。それなら、仕方がない。退所後は貧乏でしたが、何年かかっても自分の居場所は自分で見つけようと、長い戦いが始まりました。全ていい経験だったと思います。あの時期がなければ、頑張らなかったと思うから。私は不器用で要領も悪いけれど、正直に生きてきたことだけは間違いないです。
亡くして気づいた父のありがたみ
「お母さん」になれない自分に、悩んだことがありました。やはり梅宮家は特殊で、私は母から、お母さんらしいことをしてもらったことがないんです。だから、子どもとの遊び方も分からない。ただ、一緒の目線でいようと思いました。娘はすごく真面目で、平日に「ディズニーランド行こうよ」と言ったら、「学校を休むなんて、絶対ダメ」と、ふられたことも(笑)。
父親がいなくて、寂しい思いをさせたことは申し訳ないと思っています。どうしたって「お父さんがいない」部分は埋まらないけれど、うちの父が幼稚園のお迎えに行ってくれたりと、「みんなで育てよう」という環境でした。
そんな父を見送ったのが、2019年。81歳でした。私だけでなく、植物にも動物にも愛情深い人でしたが、亡くなってからそのありがたみを感じるんですよね。母は、「何もやらなくていい、笑っていてくれればいい」というプロポーズを受けて父と結婚し、本当に何もやらなかったのですが(笑)、そういうところも含め、素晴らしい父親だったなと、いなくなってから分かりました。当時は相続関係やらに追われ、泣く暇もありませんでしたが、もしもあのとき泣きじゃくっていたら、前に進めなかったと思います。
浸潤性小葉がんを公表 誰かの希望になれば
去年発症した乳がんはとても見つかりにくいもので、発見したときには、すでにステージⅢA。家系的に、私もいつかがんになるのだろうと思っていたので、「順番が来たな」と。死ぬかもしれないことよりも、抗がん剤や放射線治療、髪の毛がなくなってしまうことのほうが嫌でしたね。でも、あともう数カ月病院に行かないままだったら、手の施しようがなかったかもしれない。治療法があることに感謝しました。
「なんで私が」と打ちひしがれる時間があるのなら、現状に楽しさを見つけようと思いました。悪い部分は早く切っちゃって、「ここから“ニューアンナ”で行くっしょ」って。抗がん剤を投与しながらも仕事をしていましたが、悲惨だったのが投与4回目。ニューモシスチス肺炎を起こして息ができなくなり、肺炎で死ぬんだと思いました。
治療を始めて1年。病気になってから、見える風景も感じ方も変わりました。今は、「おっぱいが2つなきゃいけないって誰が決めたんだろう?」と思います。最初は、絶対に人前で裸になれないと思っていましたが、夫から「気にしなくて大丈夫だよ」と言われているうちに慣れ、最近では石垣島に行き、水着も着ました。見る人は見ますが、コソコソするほうがストレスです。勇気は必要だったけれど、片胸がない私が水着を着たということが、誰かの希望になればうれしい。それが、がんサバイバーである私の願いです。
出会って10日で結婚 互いの人生を背負いたい
今年5月に結婚した夫とは、大病をしている同士。家族になり、お互いの人生の責任を背負いたいと、結婚という選択をしました。「この人と一緒にいたい」というシンプルな気持ちからの結婚だったので、相手にどうにかしてもらおうじゃなく、私もどうにかしてあげなきゃと思う。お互いに1人が長かったから自己中なところもありますが、1人と1人が家族になるってすごいことだなと思います。
彼は、朝6時から掃除を始めます(笑)。お掃除、洗い物、ベッドメイキングもよっちゃん(夫)で、私はあんまりやることがない(笑)。夫はすごくきれい好きで、私はそこまでできないけれど、「いいよ」と言ってくれます。
小さい頃からずっとどこか寂しさを抱えてきましたが、結婚したことで、随分埋まったと感じます。若い頃は、仕事をして買い物をすることでぽっかり空いた穴を埋めていたけど、この間「お誕生日、何が欲しい?」と聞かれたとき、私は「よっちゃんと一生一緒にいる券」と答えたんです。自分でも「カルティエじゃないんだ」と驚いて(笑)。ゆっくりと穏やかな日々を過ごしながら、楽しいも、苦しいも、悲しいも、“ともに”なんだなと感じています。
(都内にて取材)
(無断転載禁ず)