腎臓病、呼吸筋の障害… オリンピック夏冬7回出場、選手兼政治家…
- 橋本 聖子さん/参議院議員・元オリンピック代表
- 1964年生まれ、北海道出身。84年から96年まで夏冬合わせて7回のオリンピックに出場。95年、参議院議員初当選、以後5期連続で当選を果たす。2019年に東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当大臣、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)、女性活躍担当大臣、21年に(公財)東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長などの要職を歴任。著書に『オリンピック魂 人間力を高める』などがある。
ハンディがあったから努力できた
私は1964年の東京オリンピック開幕5日前、北海道勇払郡早来町(現・安平町)で生まれました。オリンピックの開会式で見た聖火の美しさに感動した父に「聖子」と名付けられ、その後、スピードスケート、自転車競技の選手としてオリンピックに7回出場。「オリンピックの申し子」と呼ばれたこともあります。
ただし体格や健康に恵まれていたのではなく、身長は156センチ、小学生のときに発病した腎臓病や呼吸筋の障害を今も抱えています。それでも体のハンディを乗り越えるために工夫を重ね、鍛えていくうちに「もっと上を目指したい」という目標が生まれ、限界にチャレンジしてきたからこそ7回ものオリンピック出場を成し遂げられたのだと思います。
牧場の凍った池で滑ったのが始まり
実家は農業のかたわら、牛や競走馬を育てる牧場を経営していました。私は4人きょうだいの末っ子で、すぐ上の兄とは10歳離れています。
父が40歳、母が37歳のとき私がポツンと生まれたので、一人っ子のようなものでした。だからといって甘やかされて育ったわけではありません。「聖子を絶対にオリンピック選手に育てる」という父の固い決意のもと、むしろほかのきょうだい以上に厳しく育てられたと記憶しています。
スケートを始めたのは3歳ぐらい。牧場にある池が冬になると凍り、そこで遊んでいるうちに楽しくて夢中になりました。オリンピックが何かもわからないまま「聖子はオリンピック選手になる!」と言って、両親を喜ばせていたようです。
そして、小学2年生、1972年の札幌冬季オリンピックで日本選手の活躍を見て、「私はスケートでオリンピックに出る」と決めました。それからスポーツ少年団に入り、スケートを本格的に始めました。
小学3年生で腎臓病に 2年間運動禁止
ところが1年も経たない小学3年生のとき腎臓病を患ってしまったのです。2カ月間入院し、2年間は一切の運動を禁じられました。入院生活でつらかったのは厳しい食事制限があったことです。おやつはもちろん塩分も禁止。毎日味のないものを食べるのが嫌で、早く家に帰りたいと思っていました。
でも、小児病棟に入院していた同い年の女の子が突然亡くなり、衝撃を受けました。「世の中には自分よりもっと大変な人がいる。私はまだ恵まれているんだ」という価値観に変わり、亡くなった友達の分まで一生懸命生きようという気持ちになったのです。
今振り返ると、トップアスリートにとって必要な食事や水分の節制、肉体の限界を超えるトレーニングに耐えられる精神力を培ったのもこの時期だったと思います。
高校1年生で見た世界のレベルの高さ
入院中もオリンピックへの夢は持ち続けていましたが、病気が再発したら取り返しがつきません。6年生から運動を再開したものの、徐々に用心しながらという感じでした。本格的にトレーニングができるようになったのは中学2年生からです。
この頃から親元を離れコーチの家に下宿させてもらうようになり、中学3年生のときには全日本ジュニア選手権の500mで優勝。高校1年生からは世界選手権にも出るようになりました。
このとき世界のレベルの高さを見せつけられたことが大きな刺激になりました。今の自分は世界には程遠い、けれども強い外国選手がどんなトレーニングをしているのか間近で見て、視野が広がったからです。日本一はすでに達成しており、“次は世界を制する”というあらたな目標ができて心が躍りました。いよいよオリンピックの表彰台が見えてきたのです。
再び病に倒れ肺活量が半分に
しかし、高校3年生のとき再び試練が訪れました。体がむくみ、腎臓病の兆候が見られたのです。本気で世界を目指し、激しいトレーニングで自分を追い込んだ途端、体が悲鳴を上げてしまったのでしょう。そこでまたスケートを中断し、入院することになったのですが、さらに追い打ちをかけたのが「呼吸筋不全症」という自発的に呼吸ができなくなる病でした。
このまま順調に行けばオリンピックの代表権は確実と思えた段階での入院が、あまりにショックで、ストレスから今でいうPTSDの症状“呼吸困難”に陥ったのです。4日間の昏睡状態のあと、今度は医療事故によりB型肝炎に感染し、正直「お手上げ状態」になってしまいました。
でも、そこまできて逆に開き直れたのも事実です。今さらあがいても病気が完治するわけではない。だったら病も自分の一部として共に生きるしかないという心境になりました。そして、自分の体と向き合いつつトレーニングを再開。呼吸筋不全症のため肺活量は半分以下に落ち込んでいましたが、少ない肺活量を有効に生かす練習方法に変え、1年半後のオリンピックに間に合ったのです。
19歳で初めて出場したサラエボオリンピックでは入賞すらできませんでしたが、だんだんトップレベルに近づき、3回目となるアルベールビルの1500mでついに銅メダル。スピードスケート日本人女子初のメダル獲得とあって、日本中に注目されました。
現役アスリートと政治家の二足のわらじ
2度目のオリンピックシーズンからは夏の自転車競技でも代表権を得て、夏冬合計7回のオリンピックに出場。現役最後の出場となる1996年のアトランタオリンピック(夏季)では、日本初の選手兼政治家でもありました。その前年、自民党から出馬要請を受け、参議院議員に当選。1年間だけですが、二足のわらじを履くことになったのです。
もともと2番目の姉の夫が衆議院議員をしており、政治は身近なものであり私自身も主体的に参加したいと考えていました。義兄にも相談し、「当選して国会議員になっても、夏なら例年、国会も閉会している。オリンピック選手と政治家、両方やれないことはない」と判断。その代わり、政治活動にまったく支障をきたさない覚悟が必要です。大変な困難にぶつかることが予想されましたが、それでも病気で生死をさまよった経験に比べたら、それ以上につらいことはないと思えました。
結果的に政治家の目でオリンピックを経験できたことが、その後の政治活動に生きています。手短にいえば世界に比べて日本のスポーツ環境はそれほど整っていません。その状況に対して、オリンピックでメダルを目指す選手を国がどう支援するか?あるいは、スポーツを普及させ、健康で文化的な環境を整えるのは政治の仕事でもあると思い定め、山ほどの課題を日本に持ち帰りました。
それが「ナショナル(国立)トレーニングセンター」の設立につながったのです。今ではトップアスリートだけでなく、優秀なコーチもここで育っています。この経験は私にとって宝物であり、政治家としての原点です。
国会議員として出産したのは50年ぶり
そのほかにも、私の経歴には参議院議員として結婚した初めての女性、もちろん、出産したのも初めて(衆議院議員を含めると50年ぶり2人目)という但し書きがついてきます。
なぜかと言えば、約30年前の政治の世界は男性社会そのものだったからです。時代は女性活躍や少子化対策の必要性を叫んでいるのに、一部の政治家からは「出産するなら議員はやめろ」と言われ、悩んだのも事実です。
でも、答えは思いのほか簡単に出ました。「現職の国会議員が出産のために国会を欠席する歴史はここから始まるのだ。誰かがやらないと始まらないなら、私が先陣を切ろう」と素直に受け入れることができたからです。実際にいくつもの「初めての壁」を破ってきた私だからこそ、こうした役割が回ってきたのだと今も思っています。
もちろん今思えば議員をやりながらの子育ては大変でした。産後1週間で復帰し、議員事務所にベビーサークルを置き、議会の合間に授乳するような毎日でした。2人目、3人目となると産休制度も整ってきましたが、外せない仕事があれば、子どもたち全員を連れて現場に駆けつけることもありました。
その子どもたちもスポーツをやりながら育ち、長女は今24歳、末っ子は来年大学生です。残念ながら3人ともオリンピックとは無縁ですが、スポーツを通して悔しい思いや挫折を経験したことがきっと将来役に立つと信じています。
スポーツ・医・科学を地域医療に役立てたい
先ほどご紹介したナショナルトレーニングセンターでは、隣接する国立スポーツ科学センターと連携し、「スポーツ情報・医・科学」を地域医療や地域社会へ還元することも目指しています。それが実現すれば、「健康寿命の延伸」という人の幸せにとって最大のテーマに間違いなく寄与できるでしょう。
人生100年時代においては一人一人の努力も大切です。といっても、大事なのは楽しみを見つけて元気になることです。たとえばスポーツ選手を応援することも元気の源になります。テレビで試合を見ながら「ここで点を取ってくれ!」と思うだけで腕や足に力が入り、気持ちも高揚します。また、趣味を持つ、地域のコミュニティーに参加する、天気がいい日は散歩するなど、自分で小さな目標を定めコツコツ続けていくことで確実に体力がつきます。
私自身は「人間力なくして競技力の向上なし」をテーマに掲げ、世界に通じるアスリートを1人でも多く発掘し、育成していきたい。それがすなわち国の礎になると思っています。
(都内にて取材)
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