真打の大初日、小朝師匠が大粒の涙 15年のつらい修業が報われた瞬間
- 蝶花楼 桃花さん/落語家
- 東京都生まれ。25歳のとき春風亭小朝に入門。2007年6月に前座となる。前座名「ぽっぽ」。11年11月に二ツ目昇進し、「ぴっかり☆」と改名。22年3月、真打昇進。「蝶花楼桃花」と改め、七代目・蝶花楼馬楽の没後途絶えていた歴史ある亭号を復活させる。23年3月、女性芸人だけの寄席興行『桃組』を成功させ、注目を集める。うまい、かわいい、華があると、三拍子そろった「寄席のプリンセス」。
将来の夢はミュージカル女優
もともとはミュージカル女優になるのが夢でした。通っていた幼稚園に移動式のミュージカルがやってきて、『長靴をはいた猫』を上演。着ぐるみの猫が歌い踊ると、いつもの幼稚園が非日常の空間になって、私もこんな舞台に立ちたい!と思ったのです。そこから大人になるまで、夢はまったくぶれませんでした。
小学校に上がると、宝塚歌劇団のファンに。友達は「SMAP」だ「KinKi Kids」だと盛り上がっていましたが、私は宝塚の男役スター・涼風真世さんに夢中でした。家の手伝いをしてお小遣いを貯めては、舞台公演に通い、大人に混じってお茶会にも参加。小学生は私だけで、涼風さんがいつも気にかけてくれ、「私のケーキも食べる?」なんて言ってくださったのを覚えています。
伝統芸能に目覚め落語と出合う
高校卒業後はミュージカル専門学校へ行きました。しかし、オーディションに落ち続け、憧れのミュージカル女優は遠のくばかり。
それでも舞台で自分を表現することを諦めたくはありません。悩んでいたときに気づいたのは、これまで自国の文化にまったく触れてこなかったことです。そこで、伝統芸能を学ぶことができる劇団に入団。歌舞伎や狂言、能などを観るなかで、ついに出合ったのが“落語”です。
落語は1枚の座布団の上で話すシンプルな話芸ですが、扇子と手ぬぐいだけでお客さんの想像力をかき立て、笑いに巻き込みます。こんなすごい世界があるんだと心を奪われ、どんどんのめり込んでいきました。そして、女性落語家もいることを知り、「私も演じる側に行きたい!」とスイッチが入ったのです。
そこからは、誰に入門するか、誰なら女性を育ててくれるかという目線で落語を見るようになりました。いろいろな方の高座を見るなかで、衝撃を受けたのが、のちに私の師匠になる春風亭小朝です。
初めて師匠の独演会に行ったとき、まず驚いたのは、袖から出てきた瞬間、スポットライトが当たっているかのようにピカピカ輝いて見えたこと。さらに、しゃべり出すとすごいスピード感なのに、言葉が全部すっと入ってくる。華のある芸に強く憧れました。その上、著書を通して先進的な考え方を持っていることを知り、「入門するならこの人しかいない!」と。もう師匠以外には考えられませんでした。
25歳で弟子入り志願 落語家人生のはじまり
じゃあ、どうしたら弟子になれるのか?と考え、思い至ったのが、昼夜の独演会です。昼の部と夜の部の合間に楽屋に行けば、きっと会えるだろうと、休憩中の師匠を直撃。『関係者以外立ち入り禁止』と書いてありましたが、「弟子入りです!」とお願いして入れてもらいました。
師匠は小柄な私を見るなりプッと笑っていましたが、何か面白いと思ってもらえたのでしょうか、そのまま面接が始まりました。最初は、女性に古典落語は難しいなど、この世界の厳しさの話が続きます。やはり断られるんだろうな。それでもかまわない、何度でもお願いにこようと思っていました。
ところが、「きみ、名人になりたいの?」と聞かれ、正直に「いえ、私はただ落語をやりたいだけです」と答えると、なぜか突然、「この子、とるよ」とマネージャーさんに告げたのです。あまりに急なことでびっくりしました。すぐにマネージャーさんから「明日朝10時、関内ホールに来てください」と言われても半信半疑。
でも、次の日、会場に着くと、師匠から「きみ、『春風亭ぽっぽ』って名前になったから」と言われて、本当にそうなんだと。その日から師匠の御供(見習い)が始まり、いきなり落語家人生がスタートしました。
口でくわえてでも重いものから持ちなさい
ちなみに、当時の師匠の弟子は2人いて、私は3番目。ただ、その間にも弟子入りした方は何十人もいましたが、みな長続きはしなかったそうです。私のあとの入門者も同様で、今も弟子は3人のままです。
師匠は弟子の将来をとても真剣に考えてくださるので、私にも最初に、ダメだと思ったら、何年修業していてもやめるように言うからね、と言われました。でも、それこそが師匠の愛情なのです。師匠にはまた、寄席の楽屋にある師匠方のお荷物は、率先して重いものから持ちなさい。口でくわえてでも全部持ちなさい、とも教えられました。
これは、女性という個性に甘えるな。ズルをするな。男性社会である落語界で認めてもらおうと思ったら、決して怠けるなという意味だと受け取りました。実際、入った当初、周囲の方には「すぐやめるだろう」と思われていましたし、「女に噺(はなし)は教えられない」とおっしゃった師匠もいました。しかし、どんなときも愚直に、面倒なほう、厳しいほうを100%選び続けていたら、周囲の方も徐々に認めてくださるようになりました。あのときの師匠の言葉は本当に大きかったです。
初高座で噺を忘れお客さんにたずねる
初高座を務めたのは、入門からちょうど3カ月後。『狸の札』といって縁起の良いネタでした。お客さんも私が初高座ということで、盛り上がってくださいました。ところが、緊張で頭が真っ白になりまして、噺の途中で狸が何をするか分からなくなってしまったのです。絶句して完全に噺が止まってしまい、仕方なく、「狸ってこのあと何をするんでしたっけ?」とお客さんに聞いてしまいました。「すいません、巻き戻します!」と、振り出しに戻り、狸が「こんにちは」と登場するところから始めたわけです。
師匠は袖でほほ笑みながら見守ってくれていましたが、お客さんは「今度は大丈夫か?」と、手に汗握る感じが伝わってまいりまして、何とか下げ(噺のオチ)までいくと、大きな拍手をちょうだいしました。
そんな初高座を経て、前座を5年務め、二ツ目に上がったのは30歳のときです。その間、毎日、寄席で修業を積むうちに、「自分もいずれ真打に」という気持ちが自然とわき上がってきました。真打になると弟子をとれる身分になり、寄席でトリ(最後の出番で興行の責任を負う立場)を務められるようになります。落語界の階級制度の最高位で、師匠と同じ土俵に乗ることになります。
弟子入り当初こそ、「真打には興味がない」と言っていた私でしたが、稽古も真打という目標に向かって打ち込むようになりました。そして、さらに10年間の修業を重ね、入門から15年目、ついに真打昇進を果たすことができたのです。
真打の大初日 師匠が泣いた!
真打昇進披露興行では、舞台の上から挨拶をする口上というものがあります。この口上、実は主役の新真打はひと言もしゃべりません。黒紋付に袴姿の師匠や先輩方、落語協会の幹部がずらっと勢ぞろいした横に自分も並び、両手をついたまま、じっと話を聞くのです。
興行が始まった大初日、「最後に、桃花の育ての親、春風亭小朝よりご挨拶申し上げます」と紹介された師匠が、「この子は、本当に苦労したんです」と言い出したとき、最初は、お客さんの笑いをとるつもりかな? と思いました。ところが、そのあと言葉に詰まり、シーンとしています。おかしいな…と思いつつ師匠を見やると、大粒の涙を流しているではありませんか。それを見た瞬間、私の目からも涙があふれて、止まらなくなってしまいました。そんな2人を見て、お客さんも、もらい泣き。かなり異例の口上となりました。
それまで、直接ほめ言葉を頂くようなことはほとんどありませんでしたが、この日のために師匠がねぎらいの言葉を用意してくれていたのかと思うと、本当にうれしくて。15年のつらい修業が一気に報われました。
落語界に恩返しを 女性真打の挑戦
落語界は逆ピラミッドで、東西1000人いる落語家のなかでも、真打の数が一番多い。しかも定年がないから、すごい芸歴の先輩方に混じって闘い、寄席の出番を頂けるようにならないといけません。『看板』と呼ばれる人気・実力を兼ね備えた噺家になるには相当な個性と努力が必要で、毎日必死です。
それでも、真打になってずいぶん心境が変わりました。それは、寄席への愛情であり、育ててもらった落語界へ恩返しをしたいという思いです。おこがましいですが、何か落語界のためにできることはないか?後輩にできることはないか?そのためには自分がもっと成長し、前に出て行かなくては、と思う日々です。
特に私はコロナ禍に真打になりましたので、昇進直前まで客席ガラガラの寄席を毎日見ていて、永遠にあると思っていた寄席がなくなってしまうかもしれない危機感を覚えていました。そこで、寄席が始まって以来初めて、出演者が全員女性芸人の『桃組』という興行を提案。すると普段あまり寄席にいらっしゃらない女性客にもたくさん来ていただけて、メディアにも注目していただきました。この夏は、寄席の深夜帯を使って1カ月の連続独演会を企画。今後もさらに新しいお客さんを寄席に呼べるコンテンツを提示していくつもりです。
そして、いまだに失敗ばかりの私ですが、「桃花の落語を聴いて悩みが軽くなった」「自分もこんなふうに生きていいんだ」なんて、共感していただき、何かしらの“救い”をお渡しできる噺家になりたいと思っています。
(東京都内にて取材)
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