映画『フラッシュダンス』に憧れ芸能界へ 夫との出会いは舞台の共演
- 羽野 晶紀さん/ 女優
- 1968年生まれ、京都府出身。大学在学中に劇団☆新感線に入団。バラエティーやドラマ、ラジオパーソナリティー、舞台、映画、音楽活動など幅広く活躍。近年の主な作品は劇団☆新感線『髑髏城の七人』(2017)、NHK連続テレビ小説『スカーレット』、ミュージカル『INTO THE WOODS』、野田地図『Q:A Night At The Kabuki』海外公演、映画『1秒先の彼』、舞台『NOISES OFF』等。金曜パーソナリティーを務める関西テレビ『よ〜いドン!』は15周年を迎えた。3月より舞台『千と千尋の神隠し』に湯婆婆/銭婆役で出演している。
ちょっと内気なテレビっ子
駅前のスーパーの中で青果店を営む両親と妹の4人家族で育ちました。私は乳飲み子の頃から乳母車に乗せられて店先にいたようです。スーパーには魚屋さん、肉屋さん、天ぷら屋さん、いろいろなお店が並んでいて、おかずは何でもそろいます。
自宅はお店から子どもの足でも10分もかからないところにあったので、店のお手伝いをしてから家に帰ることもありました。お店が忙しくて夕飯が遅くなる時は、母が前もって注文しておいたお総菜を持って帰って夕飯の支度をすることもありました。といってもお皿に並べるだけですが(笑)。
小さい頃から商店街を通って自宅に帰るので、顔見知りも多く、また街の至るところにお客様もお住まいだから、いろんな場所で「アキちゃん!」と声をかけられていました。そのため、無意識に大人の目を感じていたのか、自分では引っ込み思案な子どもだったように思います。子ども心に「早くこの街を出ないと私にはプライベートがない!」なんて思っていました(笑)。
両親が忙しかったので、家ではテレビ見放題。めちゃくちゃテレビっ子でした。ちょうど小学校1年生ぐらいの時に大流行したピンク・レディーがストライクの世代です。
テレビの前で歌ったり踊ったりするのは大好きでしたが、人前でやるのは恥ずかしくて無理でした。
やる気スイッチをONにしてくれた先生
小学校に上がっても相変わらず引っ込み思案。低学年の頃は授業参観で指名されたくないから、答えが分かっていても絶対に手を挙げない子でした。それが高学年になると担任の先生の影響で、とっても明るくなったんです。その先生は、ほめてやる気にさせるのがとても上手でした。ある時、ハサミで丸を切った私の画用紙を見て「とってもキレイに切れているね!君は将来ハサミ屋さんになれるよ」と、めちゃくちゃほめられたんです。
私はそれがすごくうれしくて。毎日がそんな調子で、私だけじゃなくクラス全体が明るくなりました。
それからは本当に「ハサミで何か切るって楽しいな」とモノづくりが大好きになりました。テレビで『笑点』を見て切り絵をまねしてみたり(笑)。
おかげで今でも手づくりは大好きで、子どもたちが小さい時は洋服をよくつくりました。最近だとコロナでマスクが手に入らない時には家族の分をたくさん縫いました。
行動力全開!高校時代
高校生になってもテレビ好きは相変わらず。当時私が魅了されたのは、アイドルのバックで踊る「スクールメイツ」のお姉さんたち。「こんなにいろいろな曲を全部踊れるなんてすごい!」と尊敬していたんです。
そんな時に映画『フラッシュダンス』が大ヒット。踊りたいけれど自信がない女の子が夢に向かって一歩を踏み出すストーリーです。これが高校生のアキちゃんの心に刺さったんですよ!(笑)。
お年玉を握りしめてダンスウエアの専門店でレオタードを買って電車からチラっと見えた看板だけを頼りに、知らない町のダンス教室に通い始めたのです。お母さんには「ジャズダンス教室に行く!」とだけ言って(笑)。
当時、学校にはダンス部がなかったので、体育の先生に「ジャズダンス部をつくってほしい!」とお願いして部員を集めました。かくして「ジャズダンス部」が誕生。そしてアキちゃんは先生に代わって振付も担当して、部長でエースみたいな感じになっちゃって(笑)。
さらに当時はバンドブームでもあって、私は同学年の男の子たちと集まってバンド活動もやっていたんです。楽器はできないのでボーカルでした。
学年が進んで進路選択の時になると、私はダンスもバンドもやりたくて、舞台芸術学科がある大阪芸大への受験を決めました。それで今度は音楽の先生のところへ行って、「課題曲のレッスンお願いします!」と直談判。マン・ツー・マンで一生懸命練習したおかげもあって現役合格できました。
劇団☆新感線に入団
歌と踊りをもっとやりたくて大学に進学しましたが、新しいバンド仲間を探すよりも先に劇団(劇団☆新感線)に捕まってしまいました(笑)。
入学してすぐ学食で「次の公演に出られるダンサーを探しているんだけど一度稽古場に遊びに来ませんか」と声をかけられて。何回か断ったのですが、「今週はどう?来週は?」と言われ続けるので「このままだとこの先ずっとコソコソ逃げ回らなきゃいけなくなる」と今後の学生生活が心配になってきました。だったら一度だけ見に行ってみようと。ちょうど他にも見学に行く方がいたので一緒に行きました。すると、稽古場に行ったとたんに「この2人と、この2人」と振り分けられて「ちょっと踊ってみて」ということに。
結局、その流れに押し切られて何度か公演に出演しました。最初のうちはダンサーとして何曲か踊るだけだったので、楽しくて良かったんです。
それがしばらくするとセリフを言うことになって…。そのうち役まで頂けるようになり…。
お芝居のセリフなんてそれまでしゃべったことがありません。たくさんセリフがある役をもらった時に、全然うまくできなくて、演出家さんに「外で100回セリフを言ってから来い!」と叱られました。でも、100回練習しても合格点は出ません。演出家が怖いから怒られたくない。かといって辞めることもできない。それで自分も落ち込む。そのうちに「クッソ〜!合格点が出たら、演劇とかすぐに辞めてやる!」と思って心に火がつきました。今となれば演劇に合格点なんかないような気がしますが…。だからこそ、その時の最高のパフォーマンスを出し切ろうと、ずーっと必死に続けて来られたのかもしれない。無限大!
これで私は鍛えられました。「若い時に頑張ってよかった」と思います。
役者の背中を見せたくて
夫(狂言師の和泉元彌さん)とは舞台の共演で知り合いました。当時、私は彼がどんなことをしている人かよく分かっていなかったですね。初顔合わせのごあいさつの時、私は小劇場のノリでビーチサンダルにオーバーオール。ところが彼はまるで披露宴会場から抜け出して来たような、白の三つ揃えで登場したんです。「白馬の王子様の役でしたっけ?」と聞きたくなるようないでたちがまぶしすぎて(笑)。それが初対面の印象です。その時はまさか結婚することになるなんて思いもしませんでしたが(笑)。
私は結婚して家庭を持ち出産もしたかったから、お互いにそのつもりでお付き合いを始めましょうと確認しあってのスタートでした。そして結婚と出産を経て6年ほど仕事を離れましたが、40歳で復帰。
夫の世界とはジャンルは違えど「劇場や舞台に足を運んでくださるお客様の前で演じる」という意味では同じだと思っています。両親が頑張っている世界、舞台に関わるプロフェッショナルの方々の熱量、「舞台ってほんとうに素晴らしい世界なのよ!」ということを子どもたちに伝えたい。その思いが復帰の背中を押してくれました。
母親としてできる範囲のサポートを
今、子どもたちは2人とも伝統芸能の世界で頑張っています。私がしてきたことといえば、小さい頃からお稽古の時間に遅れないように送り出し、帰ってきたら温かいご飯と清潔な寝床を整える、それくらいですよ。仕事を持つお母さんとして、できる範囲でサポートしてきたつもりです。
父親が本当に純粋に狂言が好きで、命がけで教えるから「自分たちもその世界を大切にしなきゃ」というリスペクトが自然に育ったようです。ありがたいことですね。
二の足踏まずにどんどんチャレンジ
私がいつも心がけているのは「最後は自分から笑顔でごあいさつ。出会った方とは必ず気持ちよくお別れしよう」ということ。
年齢を重ねたせいか、1つ1つの出会いを大切にしたいと思うようになりました。
それから、新しいことにもっと挑戦していこうと思っています。二の足を踏まずに知らない世界にどんどんチャレンジしている方が、絶対に毎日イキイキすると思うので。
これまでもインスタグラムやブログで情報発信をしてきましたが、去年からはインスタのリール動画(最大90秒までのショート動画)を始めました。動画の編集も新鮮で楽しいですよ。
今年はデジタルの方もさらに一歩先を目指したいと思っています。ボケ防止のためにも、ね!(笑)。
(東京都内にて取材)
(無断転載禁ず)